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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

虚しいのは誰だ:足利栄子 法語カレンダー随想集『今日のことば』2018

今回は『今日のことば』について批評したい。二月の法語は

信心のさだまるとき 往生またさだまるなり

「末燈鈔」『真宗聖典』600頁

 このことばに関しては、信心が定まるとき、臨終を待たずとも浄土に往生することが決まっているということを表していると言える。

しかし、これを書いた足利栄子(久留米教区了徳寺)という方は、「いのち」というキーワードにいきなり言及し始め(飛躍)、「仏語さえも自分の都合のいいように解釈し、イメージ化して、観念化させてしま」う煩悩の人間の苦悩について語り始める。これこそ「都合のいい解釈」ではないだろうか。真摯に親鸞の法語を解説すればよいのに、勝手に「死を自覚することが大切」とかそういう話を始めている。この法語はむしろ、死のある生だが、死や死後に執われることなく浄土への往生を思考することができる親鸞の往生観を表したものなのに、それを無視して「生死するいのち」という話しを勝手に挿入しているのである。「末燈鈔」自体の読み込みは行われたのだろうか。この方に限ったことではないが、大谷派ではこのようにひとつのフレーズだけを切り取って、文脈を無視して勝手な解釈をすることが流行のように思われる。

 そして極め付けは、この文章である。

 生活の中で、虚しさを感じることはありませんか。

まったくもって大きなお世話である。親鸞の思想はむしろ、その「虚しさ」を今流行りの「充実」で補填するのではなく、虚しくても問題がないということを示しているというのに、このテキストではそうではないようだ。私の観点からすれば、この「虚しさ」を埋めるために聞法や仏教講座への参加を重ねることの方が無意味であり、ましてや仏教がこの「虚しさ」を埋めてくれることはありえない。この執筆者が暗に込めているのは「私は人生の虚しさを感じたけど、仏教に出会って充実している。そして、仏教に出会ってない人間は人生の虚しさにも気がつかずに生きている」という差別的で選民的なメッセージではないだろうか。このようなものの見方自体にこそ「虚しさを感じることはありませんか」。

そして、さらにこの法語を「解釈」するために新たに親鸞の和讃の引用が行われている。これでは文章の地滑りである。ひとつの法語を真摯に考え抜くことを怠り、パワーワードに逃げ込んでいると言わざるをえない。

たった6ページの文章なのに、話題が右往左往し、構成も雑な点は編集担当にも責任があるが、まあそんなこと気にしていないのだろう。「出版部」とか大袈裟な部署を名乗っておきながら、実際の仕事の質は。。。

真城義麿『成人したあなたへ』:2018年度教化冊子『真宗の生活』

 真城は、この文章の中で、人間が「人の間」にあり、関係性を大切にしなければならないと述べている。しかし、それは自分を優先させてしまう煩悩をもつ人間にはなかなか困難なことであり、他者との共存はなかなか容易ではないことを記している。

 確かに、現代におけるいじめの問題や差別の問題などを鑑みてもその意見には賛同できる。そして、彼自身もいじめについて言及している。しかし、その回避方法は以下のようなものである。

仏教は自分も他者もともに弱い者同士であり、かつ尊い者同士であると教えます。そこで気づかされることは、いじめている人が傷つけているのは相手の尊さだけではなく、いじめている自分自身の尊さをも傷つけているということです。 

  個々人の尊さ、という点には頷けるが、いじめは「いじめる側も自己自身を傷つける行為だからやめろ」という論調には全く同意できない。自分が傷つくから他者を傷つけるなという道理では、ただ単に利己的である。本当に他者を尊重しているとは言えない。「他者」とは他者といいながら、自分と同じように苦しみを背負った個々人であり、決して「他者」や「人間」ではカテゴライズできない存在である。それを傷つける行為は野蛮であり、それを正当化する理論はどこにもないのである。「私」、「自己」、「他者」という固定化された言葉よりも、もっとそれぞれが固有名をもつ存在であることを強調すべきなのではないだろうか。「自分が傷つくから、人を傷つけるな」という世界観には他者などもはや存在していない。それは「傷つけられたくない自分」しか存在しない独我論の世界でしかない。

人殺しをしてきた人にも伝わった親鸞の教えとは思えない。「人を傷つけると自分も傷つくよ」「みんな尊いんだから」と言われても、人を傷つけてしか生きていけない人にとっては恵まれた人間の上からのお説教にしか聞こえないのではないだろうか。人を傷つけた人にも救いの道を開かなければならないのが親鸞の仏教だと私は思う。

私にもイジメをやめさせたいという気持ちはあるけれど、もうすこし思考していきたい。この方の考え方は少し違うなと感じる。