今回は『今日のことば』について批評したい。二月の法語は
信心のさだまるとき 往生またさだまるなり
このことばに関しては、信心が定まるとき、臨終を待たずとも浄土に往生することが決まっているということを表していると言える。
しかし、これを書いた足利栄子(久留米教区了徳寺)という方は、「いのち」というキーワードにいきなり言及し始め(飛躍)、「仏語さえも自分の都合のいいように解釈し、イメージ化して、観念化させてしま」う煩悩の人間の苦悩について語り始める。これこそ「都合のいい解釈」ではないだろうか。真摯に親鸞の法語を解説すればよいのに、勝手に「死を自覚することが大切」とかそういう話を始めている。この法語はむしろ、死のある生だが、死や死後に執われることなく浄土への往生を思考することができる親鸞の往生観を表したものなのに、それを無視して「生死するいのち」という話しを勝手に挿入しているのである。「末燈鈔」自体の読み込みは行われたのだろうか。この方に限ったことではないが、大谷派ではこのようにひとつのフレーズだけを切り取って、文脈を無視して勝手な解釈をすることが流行のように思われる。
そして極め付けは、この文章である。
生活の中で、虚しさを感じることはありませんか。
まったくもって大きなお世話である。親鸞の思想はむしろ、その「虚しさ」を今流行りの「充実」で補填するのではなく、虚しくても問題がないということを示しているというのに、このテキストではそうではないようだ。私の観点からすれば、この「虚しさ」を埋めるために聞法や仏教講座への参加を重ねることの方が無意味であり、ましてや仏教がこの「虚しさ」を埋めてくれることはありえない。この執筆者が暗に込めているのは「私は人生の虚しさを感じたけど、仏教に出会って充実している。そして、仏教に出会ってない人間は人生の虚しさにも気がつかずに生きている」という差別的で選民的なメッセージではないだろうか。このようなものの見方自体にこそ「虚しさを感じることはありませんか」。
そして、さらにこの法語を「解釈」するために新たに親鸞の和讃の引用が行われている。これでは文章の地滑りである。ひとつの法語を真摯に考え抜くことを怠り、パワーワードに逃げ込んでいると言わざるをえない。
たった6ページの文章なのに、話題が右往左往し、構成も雑な点は編集担当にも責任があるが、まあそんなこと気にしていないのだろう。「出版部」とか大袈裟な部署を名乗っておきながら、実際の仕事の質は。。。