What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

どんどん形骸化していく「ともに」:「或る捨身の記録から」青柳英司(親鸞仏教センター通信)

親鸞仏教センター通信」第66号の表紙に載っていた文章を見てみようと思うが、そこに見えたのは「ともに」あるいは「関係性」という話の“限界”である。

「或る捨身の記録」からという題名の文章で、書いたのは青柳英司という親鸞仏教センター研究員の人だった。書いてあるのは、善導にまつわるエピソード。

善導という僧が寺の中で説法をしていると、ある人が問いを出した。

「念仏をすれば、必ず浄土に往生できるのか?」

善導は答えた。

「必ず往生できる」と。

すると、その聴衆は念仏を称えながら寺の門を出て、柳の木の上に登ると、西を向いて合掌し、そこから身を投げて死んだ。

善導のこのエピソードは「仏道のために身を投げた美談」のひとつとして伝えられているそうだ。このエピソードについて、青柳氏はこう言っている。

ただ善導は、死んで浄土に往生すれば全て解決すると、安直に考えていたわけではないだろう。善導自身も投身自殺を遂げたとする伝承もあるが、それは近年の研究によって、後世の創作であることが明らかとなっている。事実、善導の著作中に、自殺を奨励するような記述は見られない。

確かに善導が自殺を奨励することはありえないだろう。しかし、以下の記述には疑問がある。

むしろ善導が身を捧げたのは、浄土の教えを他の人々へ伝える実践にだった。「同じく浄国に帰して、共に仏道を成ぜん」(『観経疏』)と述べているように、善導にとって浄土は、独りで生まれていく世界ではない。他者との間に「共に往生を願う」という関係を志向させるものとして、善導は浄土の教えを捉えていたのである。もちろんそれは、浄土を説けば他者との関係がすべて上手くいくという、安易な話ではない。ただ善導にとって往生を願うということは、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのものであったことは事実だろう。

…事実ではないだろう。浄土の教えが「他者との関係を築いていく」とはいかに。大乗仏教としては利他ということは重要な要素だが、それは「人間関係」だろうか?大乗の菩薩行は人間関係なんていうもので語れるものとは思えない。「往生を願うということが、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのもの」というのは全然頷けない。法然親鸞の教えは確かに他者、利他という視点があるかもしれないが、それは現世で人間と関わっていこうとかそういうことではないだろう。むしろ、それを一旦停止して「自分は念仏をしよう」ということの方が親鸞の教えにおいては重要だと私は思う。親鸞の教えが人との関わりあいの中で培われたものであっても、その内容が「人と関わりましょう」というものではないだろう。

そこまで言ってしまうのなら、教えにあって具体的にどのような心境で他者との関係が築くことができるのかどうか体験を交えて語ってもらいたい。「他者との関係性」とか、それだけ言ってるなんてなんか哲学の二番煎じって感じしかしない。

善導が「ともに往生する」という姿勢をもって、他の人々に浄土の教えを伝えたのはそうかもしれないが、それは「他者との関係を築いていく意欲そのもの」とは違うだろう。先日の記事でも書いたが、「昼寝をやめよう」とか「人と関わろう」とか、いつから浄土真宗は新人研修セミナーになったんだろうか。「自殺を奨励しているわけではない」という表現も気に入らない。確かにそうかもしれないが、自殺を悪とする価値観は私はどうも好きになれない。だって、私たち僧侶はそうやって命を失った人たちの遺族と向き合い、言葉をかけていかなくてはならないからだ。こんな言葉、一体誰に伝わると言うのか。他者との関係を築く意欲を大切にするのならば、もっと思考を費やしていかなければならないのだ。

都会のお寺、転落の時代

 今日は批判っていう感じではなくて、ただの憂さ晴らし記事を書いておく。まずはこのブログを読んでほしい。

 2012年の記事だが、端的に言って「ざまあみろ」って感じしかない。私も首都圏の寺の僧侶だが、都市の寺院の住職の威張り様と傲慢さといったら天井知らず(人による)。それが近年以前のようにはいかず、「財政難」を門徒様方に申しているお寺も少なくないようで、兼業の私からすればそれは愉快でしかない。

 練馬の真宗会館からのパンフレットで「田舎から東京に出てきた人の仏事を菩提寺に代わって行います!」なんてやつが最近多く見られるが、それって結局都市で仏事をやらなくなってきた現象に付随するもので、「代行」なんて言ってるけど結局真宗会館の仕事自体も減りつつあるから主張しているだけに過ぎない。しかし教務所で働いているような人たちは公務員ライクな宗務役員ばかりで愛想も特にないので、ここから首都圏の布教が広まることはまずないだろう。もっと商売上手なやり方があるはずだし、都市における大谷派のひとつの入り口であるはずなんだがどうやら彼らにはその自覚はないらしい。

 とにかく、この愉快な現象によってきっと首都圏の専業僧侶たちも心境を変える。葬式に僧侶を呼ばない人はもちろん法事もしないだろうから、彼らに入るのは納骨料だけになる。仏事をしない人のしわ寄せが他の門徒にいくのなら、その門徒さんたちも逃げていくという最悪の悪循環を輪廻するしかないのが現状ではなかろうか。

昼寝をやめさせようとする宮城顗

先日届いた「真宗の生活」にはこんなことが書いてあった。

自分の死、この私が死ぬということを知らされたら、一日足りとて、それこそごろごろと昼寝はしていられません。たとえ一瞬でも、かけがえのない一瞬になります。初めて自分のいのちを大事に、自分というものが本当に生きたと言えるものがどこにあるかということが問われてきます。(宮城顗)

真宗ってこんな教えなんでしたっけ。自分のいのちを大事にしろ、ダラダラして昼寝をせずに一瞬を大切にしろとかいうのが真宗なら、もう真宗なんて必要ない。小学校で道徳の授業を受けていればいいんじゃないかな。宮城顗って、実際にそんな褒められるような倫理観をお持ちだったかしら....はてさて。まあそれはおいておきましょう。

宮城顗には「命」「命」で、もはや「命のためなら死ねる」ってほどの極端さがある。自分の思いを超えた命に生かされているっていう論理にも嫌悪感があって、そういうのって「命」に人間が左右されてしまうことになってしまうのではないだろうか。「命」があるから大事とか、人間の尊厳はそんなところにはない。みんな名前をもって、具体性の中で生き、昼寝する日もあれば必死で生きる日もある、泣いたり怠けたり、いろんなことを背負って生きている。それが「命」というものだと私は思う。

宮城顗のいう昼寝もしない、一瞬たりとも時間を無駄にしないような生活が本当に尊いのか。お念仏はどこにいったんだ、お念仏は。「昼寝をしない」だの、それが親鸞の教えなのだろうか。じゃあ水商売や不規則な生活をしなければならない仕事の人は?真面目に生きることも許されない人は?人殺しをしてきたような人が聞いて涙を流したのが法然親鸞の教えだったのではないのか。「人生の一瞬一瞬を大切にしましょう」なんていう教えで一体誰が救われるのだろうか。

ちなみに「真宗の生活」に掲載されていたのは宮城顗の『浄土真宗の教え』という本の一部分の抜粋だったが、出てくる名前は釈尊親鸞でもなく、武満徹や田中美知太郎だった。教養のある人しか知らないような現代音楽家ギリシャ哲学研究者の言葉ばかりで、申し訳程度に曇鸞がでているが、もはや意味不明であった。こういうスノビズムとか、啓蒙主義とか飽き飽きだ。

冷たくなった大乗仏教:本多弘之氏の「親鸞思想の解明」について

 このどうしようもないブログも細々と続きながら、アクセス数はなぜか異常な程多い。一体どんな人が見ているのか皆目検討がつきませんが、皆様は仏の四十八願をちゃんと言えますか?在家の人はさておき、僧侶や寺族には漏らさず知っておいて欲しいところ。

 そんなわけで今回は四十八願の中の第三十八願「衣服随念の願」について考えたい。もちろんこのブログは批判という形式を取るので、その対象が必要となる。

 対象となるのは親鸞思想の解明:研究活動報告:親鸞仏教センター

第三十八願ってどんなの?

 第三十八願は「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」という願。

 仏様が作った国の中で、人々が服を欲しいと思ったら、その思う通りに服が手に入るように、そしてまたその国のなかで裁縫や洗濯、染色をする人々がいるようなことがあるのならば私は正覚を取らないということが願われている。

 洗濯や裁縫とは少し庶民的な話題に感じられるかもしれないが、これをどのように解釈するべきだろうか?

本多弘之氏の「冷徹な」解釈

 さて、ここで参考にするのが、本多弘之氏の解釈。

これは文字どおり、物が与えられるというふうにも読めますが、法蔵菩薩の本願の意味を考え直して見ますと、それは、人間個人の思いを超えて一切衆生の生きることの一番根に呼びかけている。生きるために悪戦苦闘している人生に、悪戦苦闘しなくてよい条件を与えようという呼びかけなのですが、それは物を与えることが目的なのではなくて、願に触れることが本当に生活になるなら、そこで生きることの意味が変わる。仏陀の願いに触れて立ち上がって見ると、生活のために人間の欲で欲しいと思っていた物が与えられるのが救いなのではなくて、願を生きるところに、願を生きるだけのそれ相応の生活物資に恵まれていることが見いだされてくる。そういう意味転換が深い意味では考えられるのではないかと思うのです。衣食住といった問題は、もう本当に物がない時代であれば切実な願いかもしれません。けれども、この切実な願いが満たされたら宗教的に人間存在の意味が満たされるわけではない。人間の欲は満たされるけれど、欲が満たされることが人間の救いではありません。

 つまり、この第三十八願は人間の物質的幸福を願うものではないらしい。それが満たされることは人間の救いではなく、仏の願いに生きるにはすでに十分な生活物資に恵まれているということに気がつくことが大事らしい。つまり、物による幸福ではなく宗教的な幸福に気が付きなさいという願が第三十八願らしい。

そんなわけないだろう

 衣食住の問題は人間存在の意味が満たされるものではない?本当にそうだろうか。衣食住は精神的な幸福とは無関係なものなのだろうか?第一「浣濯」「擣染」といった言葉が出てくる時点でインドのカースト制度を思い浮かべるのが当然ではないだろうか?したがって衣食住の問題はただ着て食べて住むというだけではなくて、常に差別の問題と繋がっている。差別は人間存在の意味の剥奪に関わるし、それが精神的な幸福と無関係だと言うのは間違っている。これを単に人間の低次元な欲求だと考えるのは何か頑なな感じがする。

 洗濯や染色は不可触民の仕事であると決めるカースト差別を意識し、その差別をなくしたいという願いが第三十八願から感じ取れる。とても広く、暖かい願いである。いや、もしカーストでなくても洗濯の辛さというのは冬であれば大変な苦労であるし、裁縫も同様である。洗濯や裁縫は、インドのカースト制度の問題に限らず、日本では男女差別の問題とも関係している。「ただの家事」と思って侮っていてはいけないし、これを単なる比喩として読み解こうとするのは余りにも冷徹。これがどんなに切実なものか、洗濯裁縫等を手作業でこなしてもらいたい。

 私はもちろん物が手に入るということだけが幸福につながるとは思っていない。しかし、物質的ではなく精神的なものが大事というような安易な思考もどうかと思う。「救い」というのはそこまで単純な話ではない。しかし本多氏の解釈が用いているのは「精神的幸福」対「物質的幸福」という極めて近代的な二項対立の図式だと思われるが、この思考自体正しいとは言えない。この近代的で古びた線引きは本来仏教的な立場から見れば廃されるべき虚妄ではないだろうか。この図式を「問う」日はいつ来るのか。

自覚の末路

 私は物質的にも恵まれて育ち、大学まで行かせてもらった(この宗門には、大勢が高卒で就職している時代に一浪して私立大学に入学し大学院まで進んだにも関わらず自分のことを「こんなに苦労した人間はいない」と堂々と言い放つ方もおられますが)。それに、切実な思いの中洗濯や裁縫をしているわけでもない。だから「教えを自分のことに引きつけて、自分との関わりの中で考えなさい」と教育されたなら、この三十八願を物質的な豊かさのことではなく、それよりももっと高次の次元について言っていると解釈しただろう。しかし、私は自分に引きつけるとかそういうことに関心がない。自分に寄せた解釈を実存的、あるいは信仰主体的、実践的と安易に形容するのはもうやめにしよう。

 私にとってはその願いの広さが重要なのである。自分がその内容に関わろうがそうでなかろうが、その願いが自分とは全く別の場所の地球の裏側の人々や自分とは違う時代に生きる人々にも通用するようなものでなければ意味がないと思っている。そうでないならば私は仏の願など信じないし、無意味だと思う。

 自覚を大事にした教えは、部落差別問題をないがしろにしてきた。怒りの声によって動物的な恐怖を感じるまで、そんなことはどうでもいいと言ってきた。「自分に引きつけて考える」、「自覚」、「自己とは何か」、そういうことだけを主題とする限り、差別を黙殺する構造が変わることはない。この本多弘之氏の解釈が実にそのことをよくあらわしてくれている。こういう解釈にいつもがっかりさせられる。差別の問題は教えとは別、事故のようなものだと思っている人がよくいるし、それが個人の心がけ次第だと思っている人がいるが、そうではない。心がけ云々だと思っている人は、歴史や思想に対して絶望的なほど無知なだけだと思う。

本当の豊かさっていうけれども

 繰り返し言うが、もちろん私とて物の豊かさだけが幸福につながるとは思っていない。しかし「物の豊かさは幸福ではない」っていうのは古臭いし、近代人が啓蒙したがる類のものだと思う。それはそれである時代においては社会と相応していたからこそ諸々の先生方はそんな話をしていたのであろうが、現代の人々がそれに縛られる必要もないし、もっと時代と対応した解釈を考えるべきである。それこそ仏の願はどんな時代のどんな人にも当てはまる大いなる知恵なのだから、その時代ごとの人々が解釈していけばいい。

 「現状肯定」「そのままでよい」っていう教えは革命が困難で、耐え忍ぶことの意味づけが必要とされる時代においては効果を発揮するかもしれないし、耐えて生きている人の支えになったかもしれないし、それが江戸時代の真宗だったのかもしれないが、現代はそうではない。「現代と親鸞」というテーマをよくよく考えていかないとね。

大谷派におけるジェンダートラブルについて〜「女性室」の無意味さ〜

今日は「ジェンダー」の問題について考えてみたいと思います。#Metooや政治家のセクハラ問題など敢えていうまでもなく社会の中で性差別は重大な問題なのですが、現在でもなかなか性差別の問題が是正されていないのが大谷派です。大谷派で女性の得度や住職就任が認められたのは、戦中期の男性不在の状況を補うためであり、女性の権利向上を目指した運動によるものではない。しかし、その後社会から遅れをとりながらも1996年には限定的な条件が撤廃された上での女性の住職就任が認められたことに対してはそこそこの評価が与えられるべきだと思っています。

「セクハラちゃん」...???

ジェンダー問題に関して、一応本山には「女性室」なる部署が置かれています。その趣旨は以下のとおり。

女性の宗門活動推進を取り組むために、1996年7月宗務所織部に設置された機関です。その後、2005年7月より所轄部門が組織部から解放運動推進本部に移行しました。
女性室は、めざすべき教団像として「男女両性で形づくる教団」を表明しています。女性であれ男性であれ、「女である」「男である」ことの苦悩から解放され続けながら、人間という、関係を生きる存在として、お互いを「同朋」として見いだしていける関係を生きたいという願いのもと活動しています。 

 「女である」「男である」ことの苦悩から解放される、とあるのに「女性室」という限定的な名称が用いられていることには敢えて突っ込みませんが、どうやら「男女両性で形づくる教団」、お互いを平等な関係として生きる組織を目指すために設置されているようであります。素晴らしいことです。

男女共生のための啓蒙活動を行なっているみたいなのですが、私はこの「負けるな!!セクハラちゃん」っていう動画はどうかと思うんですよね。

youtu.be

私はセクハラはほとんど犯罪だと思っていますし、男女差別に対しては真剣に向き合ってもらいたい、いや男女差別に限らず異性愛主義や人種差別や障害者差別に対してもそう思っています。この動画はライトな啓蒙活動を行なっていますが、事の重大さを認識できていないのかな?という感じがします。もっと重大な問題として扱わないと、セクハラが罪であるという意識は形成されないと私は思います。性差別を「街で困ってる人を見かけたら助けよう」とかそういうレベルで啓蒙するのは、時代遅れもいいところ。

大谷派内でセクハラ被害にあったらどうしたらいい?

同朋会館とかってけっこうセクハラが多いみたいなんですが、こういう相談ってこの女性室にしたらいいんでしょうか?それとももう外部の団体に訴えた方がいいんでしょうかね。去年くらいに問題になった補導の人への給与未払い問題とかも外部のunionに訴えてやっと問題化されたって感じなので、たぶんとりあってもらえません。「同朋」っていつもいってるのにせめて形だけでも相談窓口つくってくれたらいいのに。「解放運動推進本部」とか言っちゃってるけど、どうなんだろう。

数年前から男性坊守が認められるようになりましたが、本来ならば坊守そのものの権利を向上させるべきだと思います。寺院にとって重要な役割を担っているのに選挙権も与えられていないし、なんだかなあって感じです。「女性室」がんばってください!聖教のなかの女性差別的な表現について勉強するよりも(それも大事だけど)、いまの組織の中にある現実の現在進行形でおこっている差別について目を向けてくれ。

「男らしさ」「女らしさ」の押し付けがすべての差別の原因なのか

「男らしさ」や「女らしさ」からの解放だけが、差別の解消につながるのかなあ。男らしさと女らしさの解放に続くのは「人間らしさ」の押し付けじゃないのだろうか。それか「真宗人らしさ」の押し付け。仏像売買の件で先日書いた記事でもそうだったけど、「真宗人として」みたいなものを安易に押し付ける風潮って宗門内で溢れてて、しかもその内容が間違ってたりします。

坊守は有教師よりも下なのか?

例えば「女だからって家事掃除洗濯家事子育てをするのはおかしい」と思っている坊守が教師資格をとる場合、確かにその主張や行動は正しいと思います。でも、私はそこには「坊守」を下に見ている雰囲気も少し感じます。坊守業が劣っているから女は坊守に限定されずにもっと向上できるという図式になってしまうのはどうなのかなと思います。

性別で住職坊守が決められるのがおかしいというのと同じくらい、住職坊守に優劣をつけることもおかしいことなのです。宗門内でジェンダーを語るのなら、それが単に性別だけに関わる問題ではなく、「住職」「坊守」そのものも同時に問題にすべきなのです。

 

追伸:

いつも思うんだけど、行者宿報偈を持ち出す法話とか研修会ってほんと気持ち悪いなあ。ちゃんと吟味して話題にしないと、単なる男の性欲肯定論にしか聞こえないんだが...中年過ぎた男がこれについて話してるとゾッとしちゃう(これって差別ですね)。

大谷派の「寺院活性化」へ物申す

先日しんらん交流館から頂いたたより(2018年3月31日発行)には「寺院活性化支援室」なるものの紹介がされていました。過疎や人口減少に伴う寺院の斜陽が問題となっている昨今ですが(そもそも寺院や僧侶を不要とする社会の流れの元凶を「過疎」「人口減少」に限定してる時点で世の中を見る目がない)、その問題に取り組むために大谷派では「寺院活性化支援室」が設置されているらしいのです。

そこが何をやってくれるのかというと「過疎地域の寺院を対象に講師派遣を通じて教化活動を支援!」と書かれているではないですか。

「お寺でお役立ち講師派遣」では、過疎地域の寺院への教化活動支援として、寺院の要望に応じた専門知識や技術をもつ講師を派遣します。派遣にあたり、寺院の現状を把握するため、住職・寺族をはじめ、ご門徒との事前打ち合わせを充分に行います。現在、京都教区出雲組と長崎県五島列島にある寺院で講師派遣に向けた準備を進めています。

つまり、寺院を活性化させるために、専門知識や技術を持った講師が本山から派遣され、その派遣の前に状況把握のために打ち合わせを行う必要があるらしいのです。しかしそのレポート(http://jodo-shinshu.info/category/ganbaru_entry/temple-katudou/)を読む限りでは具体的な講師派遣はいまだ実現されていない模様。現状では、「事前打ち合わせ」だけが行われているみたいですね。寺院とご門徒の橋渡し的な感じで、いろんな要望やアイディアの出し合いみたいなのがこの「打ち合わせ」で行われているようですが、「たんなるアイディア大会なのでは...?」という印象が拭えない感じですね。しかも、このレポートもなんだか旅行記のような。

門徒さん=総代さん?

まあ、話し合いもありかなーと思うけれど、こういう会に立ち会ってくれる門徒さんはだいたい親切で寺院に好意的な方がほとんどじゃないでしょうか。こんな話し合いをどれだけ重ねても現状の打開は私は無理だと思っています。お寺に来ない人の意見や、それを想像する力が最もいま寺院に必要とされているのではないのでしょうか。想像力がない、っていう人が取る選択肢は頭脳を磨くか滅びるかの二つですね(そういうことは成功してる人は教えてくれません、いまや潰し合いの世界なので)。

「元気なお寺セミナー」が流行っている中、みんな「総代さんと話し合いをした!」とか「門徒さんとともに」とかしきりに言っているけれども、それは「門徒さんたち」というか「一部の門徒さんたち」。仮に「総代さんたちがいいと言ったので、行事を増やして、門徒さんたちにも掃除や御斎の準備や兎に角いろいろ手伝ってもらうことになった」という決定が「話し合い」でなされたとして、「話し合い」の場に来るのは寺院に好意的な門徒さんたちばかりなのでお手伝いもしてくれるし、そういうことには賛成してくれるかもしれないけれど、そうではない門徒さんたちにとっては違う。勝手に決められた決定によって役割を与えられて、さらに寺に不信感が増すだけだと思います。

よくわからないけど「話し合い」をすればどうにかなる、とまだ寺院関係者は思っている。しかし、それではもう手遅れ。

「過疎」を解決してくれる専門的な知識って何だろ

この過疎地域の寺院活性化のための専門知識をもつ講師、というものに具体性を感じない。そんな超人どこにいるのだろうか、どうやって育てるのだろうか....。まあ、こういうことは実績をもって証明していただく他ないでしょうね。がんばってもらいたい。でもさ、この講師ってのもどういう出自なのか気になりますよね。本山経由でわざわざ派遣されて来るようなおそらく僧籍をもった人がくるんでしょうけど、そういう人って結局そういう行動が可能な状況にあるってことはその人自身日々のお勤めに空きがあるってことじゃないですか。忙しい寺で経験を積んでいる人はそういう講師になる暇はないし、結局そういう講師になるっていうこと自体その人自身が暇なお寺にいるっていうことなんじゃないのかなあと素人ながら感じてしまいました。正直にいうと、忙しくしてるお寺の人の振る舞いとか経営方針とかの方が気になるところだし、講師になるためのちょっとした研修を受けたみたいな人が来ても本気で悩んでるお寺の人は困ると思いますね。

元気なお寺、って何だ

たち戻って考えたいんですが「元気なお寺」ってなんなんでしょうかね。子ども会とか、催し物やってると活気あるお寺みたいに見えたりするけれど、本当のところどうなんでしょうか。そういうところも寺院関係者は冷静に判断すべきなんじゃないかなと思います。門徒じゃない人を集めて子ども会とか学習会みたいなことしても、実際に寺院を支えるための収入にはならなかったりするし、まあ効果はあるかもしれないけれど遠回りすぎる...。寺院活性化=人が集まる!って考えてるだけではたぶんダメですね。

しんらん交流館、って呼び捨てにしてんじゃねえよ

個人的に、このしんらん交流館という存在自体どうかと思うんですよね(名前自体「しんらん」と呼び捨てにすることにも違和感を感じるし、「真宗交流館」ではなぜいけないのだろうか)。もっと世の中の弱い人の役に立つようなことをしてもらいたい。「こども食堂」の開き方とかノウハウとか、それか宗門内のセクハラ・パワハラ相談窓口の案内とか(ちなみに解放運動推進本部は差別問題を取り扱う部門だそうですが、「宗門内」の差別問題には全く取り合ってくれません)、そういうことやってくれたら本当に助かるなあって思います。

ほんとうにコミュニケーションを大事にしているのなら

それこそ本山の方針とか教区のあり方とか、箱モノを作ることに関することとか、そういうことを本山が門徒さんたちと話し合うべきなんじゃあないんでしょうか。それに知らない間に「今までの金額だと維持できないので」っていう理由でいろんなものが宗門内で値上がりしている中、単に値上げするだけじゃなくていろいろ方策を考えろよって思いますね。ほんと、腹立たしいです。ホテルに泊まれる金額で同朋会館に泊まらせようなんて、人や門徒さんたちをバカにしているとしか思えません。

本山ってほんとに過疎化を解決してくれるの?

ちなみに西本願寺ではこういうのがあるらしいです。

http://www.hongwanji.or.jp/source/pdf/jiin-kinko_02.pdf

寺院復興金庫ですって。困ってる寺院に援助してくれるみたいです。上にあるのは貸付のリストですが、助成のリストもあるので、興味のある方は本願寺派のサイトにいけば見れます。それと無知なんで申し訳ないんですが、大谷派にはあるのかな?知ってる人教えてください!(ないなんてことはないと願いますが....)

念仏の不在が蔓延する大谷派…:「僧侶の法話」田中顕昭

先日、真宗会館の日曜礼拝の法話が紹介されていた。

kotonoha.shinshu-kaikan.jp

田中顕昭という方の法話だそうだが、この法話のキーワードは「“たい・たら・ぶり”は往生のさまたげになる」だそうだ。

「たい」は「ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい」。「たら」というのは「あの時こうだったら、あの時こうでなかったら」。「ぶり」は「判ったふりをして、つもりになって生活をしている」ということ。往生とは、今を生きるということです。今をいただいた時、はじめて未来がきまる。この身このままをいただく。人生を充実しなくてはとか、人生に意味を持たせようとかというのは、今を受け取ってない証拠だと思うのです。充実は往生にしかない。「たい・たら・ぶり」を教えられていく、気づかされていくということが、聞法(もんぽう ※)の場にちゃんとあるのです。

 と書かれていた。理想や期待、欺瞞は「往生の妨げ」になるらしい。「往生とは今を生きること」であり、「たい・たら・ぶり」は「今を生きることの妨げ」になるらしい。

・往生とは今を生きることなのか?

往生とは「今を生きること」なのだろうか。往生することが現世において定まることが重要なのであり、決して「今を生きること」が往生を指すものであるとは思えない。「この身このままをいただく」ことができずに、いただけない自分を抱えた自分自身がそれでも往生が定まっているということが重要なのではないだろうか。

・人間の意志が往生の妨げになるのだろうか?

確かに悟りの境地を目指すならば、人間の邪な意志や理想はその妨げになるかもしれない。しかし、それは浄土真宗における「往生の妨げ」だろうか?そんな意識を持ちながらも念仏すれば往生が定まるというのが親鸞の教えであり、それは「念仏者は無碍の一道なり」という歎異抄の言葉が示すところのものでもある。神や魔界さえも妨げにならないのだから、「たい・たら・ぶり」が往生のさまたげになるわけがない。

教えから念仏が抜け落ちてしまうと人間の意識に問題が集中してしまう。念仏の超越性を欠けばそれは浄土真宗でもなければ、浄土門でもない。それは人間が自分の意志によって自らを克服するような宗教なき人間中心的な世界観でしかないのである。

これは自己啓発となんらかわりがない。振り返って考えると、お念仏の教えを話してくれる法話はそこまで多くないように思われる。自覚という「意識」、問いという「意識」…どこまでも人間の意識でどうにかしようとする話ばかりである。「どうにもならない」から念仏が絶対的に必要なのではないのだろうか。

・以下、余談

真宗会館のこの法話の全文を読もうとしたら、「ログインして続きを読む」と書かれていた。なぜ会員にならなければ読めないのだろうか?開かれた空間として聞法の場があるのならばこんな登録など必要ないはずだが…??