What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「人のこと言う前に自分はどうなんだ」という典型的なダメ思想:武田未来雄「経教の鏡」(「ともしび」10月号)

 先日読んだともしびに書かれていた武田未来雄という方の記事に違和感があったので久しぶりに記事を書いてみたい。

 そして、批評のまえに少し準備体操として別の話題を振っておきたいのだが、当ブログにはたまに「貴方は親鸞会ですか?」という質問が届く。(自称しても仕方ないのだが)私は親鸞会の者ではない。親鸞会の人のブログとかって明らかに字面に違和感があるというか、第一人が書いたものに対して一々内容に照らし合わせながら批判するみたいなスタイルは取ってない気がするので明らかに違うし...。

 しかし「お前は親鸞会か?」とかいうことは私にとってはどっちでもいいこと。「お前は誰だ?」「お前は何者だ?」という質問よりも内容についての具体的な批判の方が大事だから。これだけ批判していても私の批判内容に即した疑問に正面から答えるものは全くないのだが(アクセス解析を見る限りどう考えても応答があっていい感じなのですが)、まあそれは私の過剰になった自意識の上の話なのでどうでもいいこと。問題にしたいのは「自分を知る」という教えについて。

  • 「自分を知る」ことは「必要」なことなのか

 武田氏が書いていたのは「インターネットにおける中傷問題」についてであるように思えた。

確かに多様な媒体機能によって、自己の意見や考え、感動したことを直ちに発信し、他者と共有のできる場が多く開かれるようになった。しかし、同時にそうした発信された情報によって、深く傷つけられたり、排除されたりと、苦悩を抱えることもある。自己表現の場が広がる一方で、同時にその発信している自分とは何か、自己自身について見つめていくことも大切ではないだろうか。 

 インターネットの普及によって様々な人たちとの交流が可能となったが、その反面言葉による中傷も増え、解決の糸口は現在も見えてこない。自己表現をしていても、自分を見つめていくことを欠いているのではないかというのが、武田の問題提起である。さらに中傷は一定の“基準”によって行われており、その価値判断そのものが偏っていることも少なくないのだが、その価値基準そのものを問い、自分自身を見つめなおさなければならないと武田は述べている。

 確かに言っていることは立派なのだが、この武田という人自身も媒体によって自分の意見を発信している張本人である。彼自身にどのような自己省察があるのかを是非教えていただきたい。

様々な媒体を使って自分の意見や感想を表現し、お互いにその情報のやり取りをしていくことは、とても大切なことである。しかし、同時にその自分とは何ものなのか、どのような見地から見ているのか、自分自身を省みることが必要であろう。現代は、外に発信する技術は発展させるが、なかなか内なる自分を正しく見る手立てが少ない。ますます「経教の鏡」は必要なのである。 

 社説のようなものならこれでいいかもしれないが、この人にとっての「経教の鏡」とは一体なんだろうか。

これら四大煩悩について、曽我量深氏は、真宗仏道においても、自力我執を考えていく上での大切な教えとされていた。氏は、煩悩を捨て去ることは出来ないが、どれだけ自分たちは我執我見にとらわれているかを自覚懺悔し、そういう自分の現実を常に見ていく必要があると言われる。 

 そういう「必要」があると強調しているのだが、「何にとって」必要があるのだろうか。社会、国家、共同体、個人、宗門なのだろうか。「必要がある」という言い方は、それがあたかも必須条件のようなものにしている気がする。「教えが必要である」と語るその内容には親鸞の教えがないように思われる。この方にとって懺悔が「必要」なことなのなら、それを因として救われればいいのだが、それは仏の本願力を因とするものではない。懺悔がありうるとするならばそれは「必要」などではなく、「ふと沸き起こった」ものではないのか。お念仏は、一体どこにいったのか。私はお念仏がしたい。お念仏ができる宗門でなければ意味がない。

 もう何度も言ったことだが「他人を批判する前に自分を見つめ直せ」っていうのは、こちらからすれば「そうやって人の他人を批判しているお前自身は自分をどう思ってるんだ」っていう気持ちにしかならない。「人のことを言う前に自分のことを考えろ」とのたまう奴らはいつも自分自身が問われることのない安全地帯に身を置いている。そうやって偉そうに人に言っている自分自身のことを考えた言葉を語るべきである。「懺悔する必要がある」なんて言うことを人に言える人間って、一体どんな立場にいるんだろうかと思ってしまう。そうやって言えるこの武田とか言う人の現実がむしろ知りたい。

 もはや対話不可能な状況が作り出されている。回り道したが、これが一番言いたかったこと。その「人のことを言う前に自分はどうなんだ」っていう姿勢って批判されても応答せずに逃げてるし、問いを大切にした生き方とは思えない。 これは典型的なダメ思想だし、こんなこと言ってたらどんな組織も崩壊するだろうな。

 合掌

コメントを頂きました③

以下の様なコメントを「たかし」さんという方から頂きました。伊東恵深氏について書いた記事に対するコメントです。

「このままでよい」との声は、私の声ではなく、如来からの声でありましょう。 伊東氏も貴方も、いずれも教えをいじりすぎです。

 私は「このままでよい」ということを巡って、それは凡夫の身を肯定するものではないだろうということを書いたと思います。このコメントはそれに対して、そもそも「このままでよい」という声は私自身が私に対していう言葉ではなく、如来からの声であると述べています。

そうだと思います。このコメントでは注意されていないけれど、真宗では「このままでよい」と「そのままでよい」を区別して、「このままでよい」は主体が私自身で、「そのままでよい」は如来の声という風にいうことがあります。主体が「このまま」と「そのまま」で転換されるということですが、今回のコメントにおいては「そのままでよい」という言葉が当てはまります。

ただいずれにしても「そのままでよい」と自分が言い過ぎても「そのままでよい」を自分自身の思い込みで汚している可能性があるのではないでしょうか。このブログはそういう「可能性」やリスクについて注意深くあろうという姿勢でやっておりまして、その姿勢を「教えをいじりすぎ」と捉えられても別に問題はありません。

ただ、この「教えをいじりすぎです」というのは的が外れています。伊東氏が書いていることへの批判なので、教えをいじっているのかそうではないのかという問題はあまり関係がない。でも一つ言っておきたいのは「自分は教えをいじっていない、純粋な教えに触れている」と思っている人ほど、実はそんなことなかったりするのではないでしょうか。

どんどん形骸化していく「ともに」:「或る捨身の記録から」青柳英司(親鸞仏教センター通信)

親鸞仏教センター通信」第66号の表紙に載っていた文章を見てみようと思うが、そこに見えたのは「ともに」あるいは「関係性」という話の“限界”である。

「或る捨身の記録」からという題名の文章で、書いたのは青柳英司という親鸞仏教センター研究員の人だった。書いてあるのは、善導にまつわるエピソード。

善導という僧が寺の中で説法をしていると、ある人が問いを出した。

「念仏をすれば、必ず浄土に往生できるのか?」

善導は答えた。

「必ず往生できる」と。

すると、その聴衆は念仏を称えながら寺の門を出て、柳の木の上に登ると、西を向いて合掌し、そこから身を投げて死んだ。

善導のこのエピソードは「仏道のために身を投げた美談」のひとつとして伝えられているそうだ。このエピソードについて、青柳氏はこう言っている。

ただ善導は、死んで浄土に往生すれば全て解決すると、安直に考えていたわけではないだろう。善導自身も投身自殺を遂げたとする伝承もあるが、それは近年の研究によって、後世の創作であることが明らかとなっている。事実、善導の著作中に、自殺を奨励するような記述は見られない。

確かに善導が自殺を奨励することはありえないだろう。しかし、以下の記述には疑問がある。

むしろ善導が身を捧げたのは、浄土の教えを他の人々へ伝える実践にだった。「同じく浄国に帰して、共に仏道を成ぜん」(『観経疏』)と述べているように、善導にとって浄土は、独りで生まれていく世界ではない。他者との間に「共に往生を願う」という関係を志向させるものとして、善導は浄土の教えを捉えていたのである。もちろんそれは、浄土を説けば他者との関係がすべて上手くいくという、安易な話ではない。ただ善導にとって往生を願うということは、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのものであったことは事実だろう。

…事実ではないだろう。浄土の教えが「他者との関係を築いていく」とはいかに。大乗仏教としては利他ということは重要な要素だが、それは「人間関係」だろうか?大乗の菩薩行は人間関係なんていうもので語れるものとは思えない。「往生を願うということが、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのもの」というのは全然頷けない。法然親鸞の教えは確かに他者、利他という視点があるかもしれないが、それは現世で人間と関わっていこうとかそういうことではないだろう。むしろ、それを一旦停止して「自分は念仏をしよう」ということの方が親鸞の教えにおいては重要だと私は思う。親鸞の教えが人との関わりあいの中で培われたものであっても、その内容が「人と関わりましょう」というものではないだろう。

そこまで言ってしまうのなら、教えにあって具体的にどのような心境で他者との関係が築くことができるのかどうか体験を交えて語ってもらいたい。「他者との関係性」とか、それだけ言ってるなんてなんか哲学の二番煎じって感じしかしない。

善導が「ともに往生する」という姿勢をもって、他の人々に浄土の教えを伝えたのはそうかもしれないが、それは「他者との関係を築いていく意欲そのもの」とは違うだろう。先日の記事でも書いたが、「昼寝をやめよう」とか「人と関わろう」とか、いつから浄土真宗は新人研修セミナーになったんだろうか。「自殺を奨励しているわけではない」という表現も気に入らない。確かにそうかもしれないが、自殺を悪とする価値観は私はどうも好きになれない。だって、私たち僧侶はそうやって命を失った人たちの遺族と向き合い、言葉をかけていかなくてはならないからだ。こんな言葉、一体誰に伝わると言うのか。他者との関係を築く意欲を大切にするのならば、もっと思考を費やしていかなければならないのだ。

都会のお寺、転落の時代

 今日は批判っていう感じではなくて、ただの憂さ晴らし記事を書いておく。まずはこのブログを読んでほしい。

 2012年の記事だが、端的に言って「ざまあみろ」って感じしかない。私も首都圏の寺の僧侶だが、都市の寺院の住職の威張り様と傲慢さといったら天井知らず(人による)。それが近年以前のようにはいかず、「財政難」を門徒様方に申しているお寺も少なくないようで、兼業の私からすればそれは愉快でしかない。

 練馬の真宗会館からのパンフレットで「田舎から東京に出てきた人の仏事を菩提寺に代わって行います!」なんてやつが最近多く見られるが、それって結局都市で仏事をやらなくなってきた現象に付随するもので、「代行」なんて言ってるけど結局真宗会館の仕事自体も減りつつあるから主張しているだけに過ぎない。しかし教務所で働いているような人たちは公務員ライクな宗務役員ばかりで愛想も特にないので、ここから首都圏の布教が広まることはまずないだろう。もっと商売上手なやり方があるはずだし、都市における大谷派のひとつの入り口であるはずなんだがどうやら彼らにはその自覚はないらしい。

 とにかく、この愉快な現象によってきっと首都圏の専業僧侶たちも心境を変える。葬式に僧侶を呼ばない人はもちろん法事もしないだろうから、彼らに入るのは納骨料だけになる。仏事をしない人のしわ寄せが他の門徒にいくのなら、その門徒さんたちも逃げていくという最悪の悪循環を輪廻するしかないのが現状ではなかろうか。

昼寝をやめさせようとする宮城顗

先日届いた「真宗の生活」にはこんなことが書いてあった。

自分の死、この私が死ぬということを知らされたら、一日足りとて、それこそごろごろと昼寝はしていられません。たとえ一瞬でも、かけがえのない一瞬になります。初めて自分のいのちを大事に、自分というものが本当に生きたと言えるものがどこにあるかということが問われてきます。(宮城顗)

真宗ってこんな教えなんでしたっけ。自分のいのちを大事にしろ、ダラダラして昼寝をせずに一瞬を大切にしろとかいうのが真宗なら、もう真宗なんて必要ない。小学校で道徳の授業を受けていればいいんじゃないかな。宮城顗って、実際にそんな褒められるような倫理観をお持ちだったかしら....はてさて。まあそれはおいておきましょう。

宮城顗には「命」「命」で、もはや「命のためなら死ねる」ってほどの極端さがある。自分の思いを超えた命に生かされているっていう論理にも嫌悪感があって、そういうのって「命」に人間が左右されてしまうことになってしまうのではないだろうか。「命」があるから大事とか、人間の尊厳はそんなところにはない。みんな名前をもって、具体性の中で生き、昼寝する日もあれば必死で生きる日もある、泣いたり怠けたり、いろんなことを背負って生きている。それが「命」というものだと私は思う。

宮城顗のいう昼寝もしない、一瞬たりとも時間を無駄にしないような生活が本当に尊いのか。お念仏はどこにいったんだ、お念仏は。「昼寝をしない」だの、それが親鸞の教えなのだろうか。じゃあ水商売や不規則な生活をしなければならない仕事の人は?真面目に生きることも許されない人は?人殺しをしてきたような人が聞いて涙を流したのが法然親鸞の教えだったのではないのか。「人生の一瞬一瞬を大切にしましょう」なんていう教えで一体誰が救われるのだろうか。

ちなみに「真宗の生活」に掲載されていたのは宮城顗の『浄土真宗の教え』という本の一部分の抜粋だったが、出てくる名前は釈尊親鸞でもなく、武満徹や田中美知太郎だった。教養のある人しか知らないような現代音楽家ギリシャ哲学研究者の言葉ばかりで、申し訳程度に曇鸞がでているが、もはや意味不明であった。こういうスノビズムとか、啓蒙主義とか飽き飽きだ。

冷たくなった大乗仏教:本多弘之氏の「親鸞思想の解明」について

 このどうしようもないブログも細々と続きながら、アクセス数はなぜか異常な程多い。一体どんな人が見ているのか皆目検討がつきませんが、皆様は仏の四十八願をちゃんと言えますか?在家の人はさておき、僧侶や寺族には漏らさず知っておいて欲しいところ。

 そんなわけで今回は四十八願の中の第三十八願「衣服随念の願」について考えたい。もちろんこのブログは批判という形式を取るので、その対象が必要となる。

 対象となるのは親鸞思想の解明:研究活動報告:親鸞仏教センター

第三十八願ってどんなの?

 第三十八願は「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」という願。

 仏様が作った国の中で、人々が服を欲しいと思ったら、その思う通りに服が手に入るように、そしてまたその国のなかで裁縫や洗濯、染色をする人々がいるようなことがあるのならば私は正覚を取らないということが願われている。

 洗濯や裁縫とは少し庶民的な話題に感じられるかもしれないが、これをどのように解釈するべきだろうか?

本多弘之氏の「冷徹な」解釈

 さて、ここで参考にするのが、本多弘之氏の解釈。

これは文字どおり、物が与えられるというふうにも読めますが、法蔵菩薩の本願の意味を考え直して見ますと、それは、人間個人の思いを超えて一切衆生の生きることの一番根に呼びかけている。生きるために悪戦苦闘している人生に、悪戦苦闘しなくてよい条件を与えようという呼びかけなのですが、それは物を与えることが目的なのではなくて、願に触れることが本当に生活になるなら、そこで生きることの意味が変わる。仏陀の願いに触れて立ち上がって見ると、生活のために人間の欲で欲しいと思っていた物が与えられるのが救いなのではなくて、願を生きるところに、願を生きるだけのそれ相応の生活物資に恵まれていることが見いだされてくる。そういう意味転換が深い意味では考えられるのではないかと思うのです。衣食住といった問題は、もう本当に物がない時代であれば切実な願いかもしれません。けれども、この切実な願いが満たされたら宗教的に人間存在の意味が満たされるわけではない。人間の欲は満たされるけれど、欲が満たされることが人間の救いではありません。

 つまり、この第三十八願は人間の物質的幸福を願うものではないらしい。それが満たされることは人間の救いではなく、仏の願いに生きるにはすでに十分な生活物資に恵まれているということに気がつくことが大事らしい。つまり、物による幸福ではなく宗教的な幸福に気が付きなさいという願が第三十八願らしい。

そんなわけないだろう

 衣食住の問題は人間存在の意味が満たされるものではない?本当にそうだろうか。衣食住は精神的な幸福とは無関係なものなのだろうか?第一「浣濯」「擣染」といった言葉が出てくる時点でインドのカースト制度を思い浮かべるのが当然ではないだろうか?したがって衣食住の問題はただ着て食べて住むというだけではなくて、常に差別の問題と繋がっている。差別は人間存在の意味の剥奪に関わるし、それが精神的な幸福と無関係だと言うのは間違っている。これを単に人間の低次元な欲求だと考えるのは何か頑なな感じがする。

 洗濯や染色は不可触民の仕事であると決めるカースト差別を意識し、その差別をなくしたいという願いが第三十八願から感じ取れる。とても広く、暖かい願いである。いや、もしカーストでなくても洗濯の辛さというのは冬であれば大変な苦労であるし、裁縫も同様である。洗濯や裁縫は、インドのカースト制度の問題に限らず、日本では男女差別の問題とも関係している。「ただの家事」と思って侮っていてはいけないし、これを単なる比喩として読み解こうとするのは余りにも冷徹。これがどんなに切実なものか、洗濯裁縫等を手作業でこなしてもらいたい。

 私はもちろん物が手に入るということだけが幸福につながるとは思っていない。しかし、物質的ではなく精神的なものが大事というような安易な思考もどうかと思う。「救い」というのはそこまで単純な話ではない。しかし本多氏の解釈が用いているのは「精神的幸福」対「物質的幸福」という極めて近代的な二項対立の図式だと思われるが、この思考自体正しいとは言えない。この近代的で古びた線引きは本来仏教的な立場から見れば廃されるべき虚妄ではないだろうか。この図式を「問う」日はいつ来るのか。

自覚の末路

 私は物質的にも恵まれて育ち、大学まで行かせてもらった(この宗門には、大勢が高卒で就職している時代に一浪して私立大学に入学し大学院まで進んだにも関わらず自分のことを「こんなに苦労した人間はいない」と堂々と言い放つ方もおられますが)。それに、切実な思いの中洗濯や裁縫をしているわけでもない。だから「教えを自分のことに引きつけて、自分との関わりの中で考えなさい」と教育されたなら、この三十八願を物質的な豊かさのことではなく、それよりももっと高次の次元について言っていると解釈しただろう。しかし、私は自分に引きつけるとかそういうことに関心がない。自分に寄せた解釈を実存的、あるいは信仰主体的、実践的と安易に形容するのはもうやめにしよう。

 私にとってはその願いの広さが重要なのである。自分がその内容に関わろうがそうでなかろうが、その願いが自分とは全く別の場所の地球の裏側の人々や自分とは違う時代に生きる人々にも通用するようなものでなければ意味がないと思っている。そうでないならば私は仏の願など信じないし、無意味だと思う。

 自覚を大事にした教えは、部落差別問題をないがしろにしてきた。怒りの声によって動物的な恐怖を感じるまで、そんなことはどうでもいいと言ってきた。「自分に引きつけて考える」、「自覚」、「自己とは何か」、そういうことだけを主題とする限り、差別を黙殺する構造が変わることはない。この本多弘之氏の解釈が実にそのことをよくあらわしてくれている。こういう解釈にいつもがっかりさせられる。差別の問題は教えとは別、事故のようなものだと思っている人がよくいるし、それが個人の心がけ次第だと思っている人がいるが、そうではない。心がけ云々だと思っている人は、歴史や思想に対して絶望的なほど無知なだけだと思う。

本当の豊かさっていうけれども

 繰り返し言うが、もちろん私とて物の豊かさだけが幸福につながるとは思っていない。しかし「物の豊かさは幸福ではない」っていうのは古臭いし、近代人が啓蒙したがる類のものだと思う。それはそれである時代においては社会と相応していたからこそ諸々の先生方はそんな話をしていたのであろうが、現代の人々がそれに縛られる必要もないし、もっと時代と対応した解釈を考えるべきである。それこそ仏の願はどんな時代のどんな人にも当てはまる大いなる知恵なのだから、その時代ごとの人々が解釈していけばいい。

 「現状肯定」「そのままでよい」っていう教えは革命が困難で、耐え忍ぶことの意味づけが必要とされる時代においては効果を発揮するかもしれないし、耐えて生きている人の支えになったかもしれないし、それが江戸時代の真宗だったのかもしれないが、現代はそうではない。「現代と親鸞」というテーマをよくよく考えていかないとね。

大谷派におけるジェンダートラブルについて〜「女性室」の無意味さ〜

今日は「ジェンダー」の問題について考えてみたいと思います。#Metooや政治家のセクハラ問題など敢えていうまでもなく社会の中で性差別は重大な問題なのですが、現在でもなかなか性差別の問題が是正されていないのが大谷派です。大谷派で女性の得度や住職就任が認められたのは、戦中期の男性不在の状況を補うためであり、女性の権利向上を目指した運動によるものではない。しかし、その後社会から遅れをとりながらも1996年には限定的な条件が撤廃された上での女性の住職就任が認められたことに対してはそこそこの評価が与えられるべきだと思っています。

「セクハラちゃん」...???

ジェンダー問題に関して、一応本山には「女性室」なる部署が置かれています。その趣旨は以下のとおり。

女性の宗門活動推進を取り組むために、1996年7月宗務所織部に設置された機関です。その後、2005年7月より所轄部門が組織部から解放運動推進本部に移行しました。
女性室は、めざすべき教団像として「男女両性で形づくる教団」を表明しています。女性であれ男性であれ、「女である」「男である」ことの苦悩から解放され続けながら、人間という、関係を生きる存在として、お互いを「同朋」として見いだしていける関係を生きたいという願いのもと活動しています。 

 「女である」「男である」ことの苦悩から解放される、とあるのに「女性室」という限定的な名称が用いられていることには敢えて突っ込みませんが、どうやら「男女両性で形づくる教団」、お互いを平等な関係として生きる組織を目指すために設置されているようであります。素晴らしいことです。

男女共生のための啓蒙活動を行なっているみたいなのですが、私はこの「負けるな!!セクハラちゃん」っていう動画はどうかと思うんですよね。

youtu.be

私はセクハラはほとんど犯罪だと思っていますし、男女差別に対しては真剣に向き合ってもらいたい、いや男女差別に限らず異性愛主義や人種差別や障害者差別に対してもそう思っています。この動画はライトな啓蒙活動を行なっていますが、事の重大さを認識できていないのかな?という感じがします。もっと重大な問題として扱わないと、セクハラが罪であるという意識は形成されないと私は思います。性差別を「街で困ってる人を見かけたら助けよう」とかそういうレベルで啓蒙するのは、時代遅れもいいところ。

大谷派内でセクハラ被害にあったらどうしたらいい?

同朋会館とかってけっこうセクハラが多いみたいなんですが、こういう相談ってこの女性室にしたらいいんでしょうか?それとももう外部の団体に訴えた方がいいんでしょうかね。去年くらいに問題になった補導の人への給与未払い問題とかも外部のunionに訴えてやっと問題化されたって感じなので、たぶんとりあってもらえません。「同朋」っていつもいってるのにせめて形だけでも相談窓口つくってくれたらいいのに。「解放運動推進本部」とか言っちゃってるけど、どうなんだろう。

数年前から男性坊守が認められるようになりましたが、本来ならば坊守そのものの権利を向上させるべきだと思います。寺院にとって重要な役割を担っているのに選挙権も与えられていないし、なんだかなあって感じです。「女性室」がんばってください!聖教のなかの女性差別的な表現について勉強するよりも(それも大事だけど)、いまの組織の中にある現実の現在進行形でおこっている差別について目を向けてくれ。

「男らしさ」「女らしさ」の押し付けがすべての差別の原因なのか

「男らしさ」や「女らしさ」からの解放だけが、差別の解消につながるのかなあ。男らしさと女らしさの解放に続くのは「人間らしさ」の押し付けじゃないのだろうか。それか「真宗人らしさ」の押し付け。仏像売買の件で先日書いた記事でもそうだったけど、「真宗人として」みたいなものを安易に押し付ける風潮って宗門内で溢れてて、しかもその内容が間違ってたりします。

坊守は有教師よりも下なのか?

例えば「女だからって家事掃除洗濯家事子育てをするのはおかしい」と思っている坊守が教師資格をとる場合、確かにその主張や行動は正しいと思います。でも、私はそこには「坊守」を下に見ている雰囲気も少し感じます。坊守業が劣っているから女は坊守に限定されずにもっと向上できるという図式になってしまうのはどうなのかなと思います。

性別で住職坊守が決められるのがおかしいというのと同じくらい、住職坊守に優劣をつけることもおかしいことなのです。宗門内でジェンダーを語るのなら、それが単に性別だけに関わる問題ではなく、「住職」「坊守」そのものも同時に問題にすべきなのです。

 

追伸:

いつも思うんだけど、行者宿報偈を持ち出す法話とか研修会ってほんと気持ち悪いなあ。ちゃんと吟味して話題にしないと、単なる男の性欲肯定論にしか聞こえないんだが...中年過ぎた男がこれについて話してるとゾッとしちゃう(これって差別ですね)。