今回は2018年の『今日のことば』の九月である。担当者は、伊東恵深(同朋大学准教授、三重教区西弘寺住職)。
まことの信心の人をば諸仏とひとしと申すなり
これは、親鸞が弟子からの質問に答えるために書いた文章である。阿弥陀如来の本願によって信心を得た者は、諸仏と等しいということを意味している。そして、筆者は「この信心とは何か」という問いを発するが、それは「仏様から戴いた眼」だと述べている。これは竹部勝之進という詩人の作品からの引用であるが、私はこの引用に疑問をもっている。
ここに、「まことの信心」とは仏さまの眼を頂戴することであり、それは私自身のありのままの姿を知らされることである、と歌われています。
つまり、信心によって「私自身のありのままの姿を知る」ことが重要だそうだ。そして、彼はさらに続けてこのように述べている。
阿弥陀さまの教えによって、いま現在の自分に不平や不足を感ずることなく、このままでよい、このままで尊い、という身の事実に気づかされることでしょう。
私はこのような考え方に嫌悪感がある。たしかに信心を得ることで視野が広まることがあるかもしれないが、このような自己肯定あるいは現状肯定はやや的外れな気がする。しかも凡夫は凡夫であるので、「このままで尊い」ということはありえないし「このままでよい」ということもない。これはどうやら仏の救済の絶対性が近代以降の人権主義と癒着していると考えられる。いじめられている人に「このままでいいんだよ」と慰めるような自尊教育として正しいかもしれないが、それは仏教ではない。
信心を得たと言っても、別に私自身が尊い者である必要はないのである。私自身は尊くなくても、そこに仏から回向された信心があればいいのであって、それは決して私自身の肯定には繋がらない。むしろ念仏、南無阿弥陀仏を大切にする真宗では、尊いのは如来ではないだろうか。それを尊く思う気持ちの方が私は大事だと思うのだが....。
要するに私が言いたいのは、凡夫であるということを良いこととして受け取るのはやややり過ぎの感があるということなのだ。凡夫であること、それは別段素晴らしいことではない。私たちが感じるべきなのは、凡夫であるけれど他力が注がれているということへの喜びなのであって、煩悩がありがたいということではない。尊ぶ対象を間違えてはならない。