What is Buddhisme? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関してコメントするブログ。僧籍を持ったサラリーマンです。

ものすごく冷徹な教え:平原晃宗、東本願寺 真宗会館『サンガ』vol. 149. :親鸞さんの仏教

『今日のことば』や『真宗の生活』に少し飽きてきたので、今回は真宗会館が発行している『サンガ』の記事を問題にしていこうと思う。

この雑誌自体、真宗とはなんの関係もない流行りの芸能人や学者が記事を載せているため、たんなる金の無駄遣いにしか思えないし、そもそも東京の教務所が発行している物をなぜ全国の寺院に配布しているのかも謎である。だから、この『サンガ』そのものに対しても私はとても懐疑的である。

ともあれ、今回はその中の記事『親鸞さんの仏教』という箇所を批評していこうと思う。執筆者は平原晃宗(京都府、正蓮寺)という人。

まずこう書かれている。

お釈迦様は、私たち人間が住む娑婆世界を「五濁」という五つの濁りで表現します。その中に「命濁」があり、この内容を親鸞聖人は「中夭」と指摘します。 

 聖典における該当箇所を脚注として明記しておいてほしいものだが、まあこの点に関しては妥当である。寿命が短くなることを「命濁」とも「中夭」とも言うのだから。平原は以下のように述べている。

親鸞聖人が尊敬された中国の善導大師は、命濁について「多く殺害を行じて、恩養に慈しみなし」 と述べます。

命が濁る、つまり寿命が短くなるということの原因は、「殺害」を行うことである。殺害とは自分を育んだものに対する反逆なのである。 

このような文脈において、平原氏は「いのちは様々なつながりの中で共存している」とか「いのちを成り立たせている因」を大切にしなければならないと述べている。しかし、これは本当に可能なことだろうか?

確かに親鸞正像末和讃 のなかで「中夭」について述べているが、しかしそれは中夭を正して、人々を啓蒙するためではない。「正像末和讃」は、仏教的な歴史観である正法、像法、末法という時代区分に従って、「末法」の時代の有様を述べているのであって、それがダメだとか良いとかいう評価を行う以前に末法の時代における事実として提示しているに過ぎない。平原氏はこの「中夭」に陥る事態を正面から避けるために「自分を育んでいるものへの感謝」という姿勢を示しているが、それは正法の時代においてしか可能ではなく、末法では無理なのである。

そして、親鸞の思想において最も重要なのは念仏の救済によって「中夭」ということを無効化する点にある。親鸞は現世利益和讃において以下のように述べている。

南無阿弥陀仏をとなふれば

この世の利益きはもなし

流転輪廻のつみきえて

定業中夭のぞこりぬ 

これは、南無阿弥陀仏を唱えれば「中夭」であっても関係ない、関係なく救われるということを述べているのである。われわれは心がけていても自分を育む環境すべてに恩を報いることなどできない。生きているだけで環境を汚し、行動はすべて裏表の効果をうむのである。これは一人一人の心がけというよりは、社会的な構造上仕方のないことなのである。平原氏のように言われても、ちゃんと実践できる人はひとりもいない。末法の時代に生きる人々はもれなく濁り、「中夭」なのである。

親鸞は、そのような濁りのなかであってもその中でお念仏に出会えば救われると述べてくれているのである。「中夭」などを解消できない時代に生きる人々に念仏という救いの道を示しているのである。これが親鸞の教えにおいて最も重要な点なのだ。平原氏はこれを全く理解せずに、実践できもしないのに「中夭」の解消を啓蒙しているのである。それがしたくてもできない人間存在の悲しみを彼は理解していない。 

そして、親鸞の思想抜きにしても平原氏の考え方には問題がある。「中夭」、つまり早死にの原因は「恩への感謝の不足」であるという考え方をそのまま鵜呑みにしている点である。それでは、早くして亡くなった者は恩知らずであることの報いを受けたということになってしまう。ニュースで小学生が殺されたとかそういう事件がたびたび報道されるが、平原氏にとってはこの小学生たちは「恩知らず」ということになってしまうのである。これは若くして亡くなった人への冒涜である。平原氏にとっては「そこまで考えていなかった、そういうつもりではなかった」と言えるかもしれないが、仏教者としてはそれを考えないで一体他に何を考えているのだろうかという感じしかしない。要するに全く配慮が足りていないし、早く亡くなった方へのリスペクトが悉く欠けている。彼は偉そうに現代人を啓蒙する以前に、もっと社会を知り、配慮のある教えを学ぶべきである。そもそも彼は親鸞の和讃自体を全く正しく読んでいない。