What is Buddhisme? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関してコメントするブログ。僧籍を持ったサラリーマンです。

「問い」がそんなに大事なの?:名和達宣『真宗』10月号、教研たより

私は、もはや「問う」ということを大事にするという風潮に飽き飽きしている。何百回、「問いが大事」という話を聞かされたのだろう。

名和達宣という教学研究所研究員は「問いが大事」だと述べている。「答え」よりも「問い」が大事であると。

浄土真宗に帰すれども 真実のこころはありがたし

虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし 

という親鸞の和讃を引用しているが、これは別に「問い」ということとは関係ない。我が身が真実のこころ、つまり信心を得た喜びがあるからといって、自分自身に清浄の心があるわけではないという話であって、凡夫の我が身が「問われる」ということを重要視したものではない。

「しばらく疑問を至してついに明証を出だす」というのは、疑問が大事とかそういうことではなく、答えに辿りついた喜びを表現するものであって、「疑問」を絶対化するものでは決してない。

「問い」を絶対化するのなら逆に問おうではないか。「問いを重要視する己自身が問われることはないのか」。

問いが大事、と述べているうちに社会は刻々と変化する。問うてばかりいないで、「虚仮不実の我が身」にかけられた願いを敬う気持ちを表現する道をいい加減開いたらどうだろうか。もう「問い」の無限循環は、民衆には必要ない。私たちは誰に問われるまでもなく、常に迷い、問われ続けて生きているのだから、その苦しみを救おうとなぜ僧侶たちは考えないのだろうか。