私はもはや「問う」ということを大事にするという風潮に飽き飽きしている。何百回、「問いが大事」という話を聞かされたのだろう。「聞法が大事」と法を聞きにきている人に対して乱発する無意味な法話と同じくらい、質量が感じられない。
「問い」「問い」「問い」
名和達宣という教学研究所研究員は「問いが大事」だと述べている。
浄土真宗に帰すれども 真実のこころはありがたし
虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし
という親鸞の和讃を引用しているが、これは別に「問い」ということとは関係ない。我が身が真実のこころ、つまり信心を得た喜びがあるからといって、自分自身に清浄の心があるわけではないという話であって、凡夫の我が身が「問われる」ということを重要視したものではない。
「しばらく疑問を至してついに明証を出だす」というのは、疑問が大事とかそういうことではなく、答えに辿りついた喜びを表現するものであって、「疑問」を絶対化するものでは決してない。
「問い」が大事だとする立場そのものが硬直している
「問い」を絶対化するのなら逆に問おうではないか。「問いを重要視する己自身が問われることはないのか」。
問いが大事、と述べているうちに社会は刻々と変化する。問うてばかりいないで、「虚仮不実の我が身」にかけられた願いを敬う気持ちを表現する道をいい加減開いたらどうだろうか。もう「問い」の無限循環は、民衆には必要ない。私たちは誰に問われるまでもなく、常に迷い、問われ続けて生きているのだから、その苦しみを救おうとなぜ僧侶たちは考えないのだろうか。「問い」という形式的なものを礼賛すること自体になんの意味があるのだろうか。法を説く者は「問い」という形式を内容として語りすぎなのだ。真にそこに価値を見出しているのであれば、「問う」という姿勢を孕んだ内容をもつ話をすればいいだけのことであって、そうであるならば私もそれは素晴らしいことだと思う。
「問い」がただ悪いのではない。「問いが大事」だとばかり語っていて、内容がないことに問題があるのだ。「結局、問いが重要である」と締めくくられる思想に何の意味があるのだろうか。それは出発点であり、その運動において意味のあるものであって、それを着地点とすることに何の意味もない。問うことにおいて開かれる地平があるならば、その地平について語ればいいし、そうでなければ意味がない。
真剣に問いながら歩んでいる者が「問いが大事」とただ語りながら歩むことなど決してないと思うが、それは私だけだろうか。