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真宗大谷派関連のテキストや配布物に関してコメントするブログ。僧籍を持ったサラリーマンです。

小谷への応答にはなっていない:「往生と成仏」考、廣瀬惺(『ともしび』第781号2017年11月)

今回は、『ともしび』に掲載されていた廣瀬惺(元同朋大学教授)の“「往生と成仏」考”を読んでみる。

まず、このように書かれている。

まず、一つ目の動機といたしまして、私にとってはこちらの方が完全な動機なのですが、ある意味で曽我量深先生のご生涯のテーマであったといただくことができます「往生と成仏」ということを、明らかにしたいということがございました。九十六年間の曽我先生のご生涯は、「往生と成仏」という問題につきまして、単なる学問としてではなく、ご自身に納得される事柄としていただかれますことが、一貫していたと言えるかと思うわけでございます。 

これが廣瀬の動機である。その動機は曽我量深の生涯を貫く問題であり、また廣瀬も晩年の曽我のこのようなテーマに基づいた講演を聞いたため、この「往生と成仏」を主題に据えたという。真宗お得意の「単なる学問としてではなく、ご自身に納得される事柄」という記述には飽き飽きするが(それが非-知的なものであるならば、それが非-知であるということを学問的に証明されなければならない事柄だからである)、この点はまあ多めに見ておくとして、彼の文章を追っていこう。

先にあげられた曽我はこのように言っているという。

曽我先生は、日頃から、宗教の表現というのは簡潔でなければならないとおっしゃっていました。ですから、「往生と成仏」ということにつきましても先生ご自身は、きわめて簡潔に「往生は心にあり、成仏は身にあり」とお示しくださっています。

曽我によると「往生」は心、「成仏」 は身に関わる問題であるという。そこで、曽我の言葉が引用されている。

往生は心にある、というならば、すなわちわれらは、真実信心を頂いたときに、如来の心の光明をもって照らし護って下さるというのでありまするが、その心光摂護ということは、すなわち往生ということではなかろうかと。(「往生と成仏」『曽我量深選集』第12巻、弥生書房、193頁) 

ここにおいて、「往生は心にある」と言えるのだそうだ。この部分についての分析を行って欲しいところだが、廣瀬はそれをせずに、親鸞の言葉へと移行する。この不十分さには問題があるが、今回は気にしないことにしよう。

第二の動機はいうまでもなく、小谷信千代への応答である。

 

冒頭はこれくらいで、本題に入っていくことにする。

廣瀬は親鸞によって引用された『選択集』の文に注目している。

 ひとつは『選択集』の巻頭、本文の始まる前におかれました、真宗の旗印とも言えるお言葉です。

   南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす(『教行信証』「行巻」聖典189頁)

 

それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門をさしおきて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生るることを得、仏の本願に依るがゆえに

(『教行信証』「行巻」聖典189頁) 

この二つの文が重要であるという。つまり、重要なのは「念仏」である。

この「念仏」について廣瀬は以下のように述べている。

特に大事なのは、「それ速やかに生死を離れんと欲わば」という冒頭の言葉だと思います。それ以降の言葉を一言で申しますなら、「念仏申せ」ということでしょう。「速やかに」とは、「即座に」ということですね。間をおいてではないわけです。迷いを越えた生活、迷いを越えて生きる生活を即座に開くのが真宗であり、南無阿弥陀仏の仏法であるということでございましょう。

廣瀬はここで念仏と往生の関係性について論じている。念仏すれば即座に悟りを開くことができるらしい。念仏による救済を説くというのは悪くはないが、これはやや言い過ぎである。 これでは、念仏者がそのまま悟った者として措定されてしまう。悟った者においては全てが正しいが、念仏者はこれと全く同じ存在であるとは言い難い。そして、往生とは「浄土への往生」であるが、この場合には念仏者は浄土に存在していることになる。これは穢土を浄土としてとらえさせることになりかねない。

小谷のように死後往生を述べるのには反対であるが、その全く逆のことにも私は賛成できない。現世で浄土に往生する、という廣瀬の言い分も極端すぎる。

そもそも念仏者、私自身も念仏を唱える者の一員であるが、実感として迷いを越えたと思ったことは一度もない。周りを見ていてもそうである。迷いを越えて生きる生活は、凡夫には不可能ではないだろうか。

「即得往生」に関しては、小谷信千代が「即」というのは時間的な瞬間性を意味するのではなく「位に即く」という意味であることを示しているが、私はこの点に関しては賛成だ。しかしながら、小谷信千代は「死後」を強調するあまり、「位に即く」という現世での次元の出来事を重要視できずにいる。私たちにとっては経験不可能な「往生」よりも、「往生が定まる」という経験の方が重要なのではないだろうか。親鸞が強調したのはまさにその部分であり、「往生」そのものよりも「往生が定まる」ということなのである。

そして、廣瀬惺がいうようなこの世での往生も誤解であり、曲解である。念仏すればすぐに迷いを越えた生活などできるわけがないのである。迷いを越えた者がいるのなら、この場に連れてきてもらいたいものだ。

 

小谷によって提起されたこの問題に関しては、話題になっているだけで誰も解決の糸口を見出せてはいない。ほとんどの者が問題の本質を見失い、ただ「現世往生だ、現世往生だ」と叫んで反論している。大谷派的な教育を受ければ誰でもそうなるのだが、議論することもできないような人間を生み出すのは「教育」ではなく「洗脳」である。