What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

楠信生という教学研究所の所長について:その②

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北海道教区の若手僧侶の育成機関・北海道教学研究所長や、教学研究所の教化伝道研修第2期研修長などを経て8月に就任。「教学研究所は大学の研究所とは違う。常にご門徒の存在を感じながら研究を発展させてほしい」と願う。

「教学研究所は大学の研究所とは違う」と断言してもいいのだろうか。それならば、そこでの成果は学問的価値を持たないと言っているようなものである。そもそも「門徒の存在を感じながら研究を発展させる」というのは聞こえはいいが、私はそれでは困る。本山に税金を払っている末寺としては、お金をもらっている以上は学問的成果をあげてほしいのである。むしろ大学の研究機関ばりにやってもらわなければ困る。

ここで行われているのは現在の文科省が大学に対して行なっている政策と同様のことである。研究ではなく即物的な知識が重要とされ、教員たちは研究することよりも研修に追われているという日本のダメな風潮をそのまま取り込み、「門徒とともにある」という言葉で取り繕っているようにしか見えない。

「人材」に目に見える成果が求められる時代でもあるが、「真宗が言う『役に立つ』は例えば、自分の言いたいことを明確な言葉にできない人の力になるよう教えを伝えることだと思う。成果を求めるような上昇志向の中で生きると、陰の部分をつくってしまう」と考えている。

 「成果を求めるような上昇志向の中で生きると、陰の部分をつくってしまう」?そうだろうか。成果を出さないのであれば、研究に関して支払われるべき対価も必要ない。給料が発生する「研究所」ならば、きっちりと成果を上げてもらいたいのだが、最初からこのような姿勢では何も進まない。科学的進歩が環境破壊を生むとかそういう「陰」はわかるのだが、ここで言われている「陰」とは一体なんだろうか。

親鸞の教えが思想的にも優れており、差別性やナショナリズムを退け、さらに人々にも救いを与えることができる思想であるということは学問的なものなしには証明しえない。それこそ、そういうことに気を配って構築された言葉が必要となるのではなかろうか。

そんなもの必要ない、ただ「自己を問う」のが真宗だと考える人もいるかもしれないが、その傲慢さが常に差別的言説を生産してきたということは大谷派僧侶ならば誰でもわかることである。それを知的な作業によって克服し、人々に伝えるのが教学研究所の役割だと私は思っているし、そうでなければ意味がない。「念仏者になる」、「自己を問う」、「門徒とともにある」とかそういうことはそれぞれ僧侶が一人ずつ努力することであり、わざわざ研究所など作って行うことではない。

そしてこのように書かれている。

仲野氏に一貫していたのは、「学者ではなく、念仏者を育てる」ことだったとし、「私もその姿勢を大切にしたい」と語る。

 楠氏の師であるのが仲野氏だそうだが、その師に一貫する姿勢が「学者ではなく、念仏者を育てる」ことだそうだ。そして、その姿勢を引き継ぐのが楠氏だという。私は凡夫が「念仏者を育てる」ことを目論むなど傲慢なことだと思うし、念仏者の育成によって役職に基づいて給料が支払われるシステムなど存在してはいけないと思う。念仏者を育てるようなことができるのは、釈迦如来、諸仏のみである。「人を作り上げる」というような目論見は今の政権がいう「人づくり改革」のようなものにしか思えない。「念仏者を育てる」以前に、ひとりの僧侶として念仏者になることが重要であり、またそれは肩書きなどなくても実践できることではないのだろうか。