What is Buddhism? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関して批評するブログ。愚痴も入ってますが、ひとつの意見としてみていただけたらと思います。

「縁起」とは単に反実体的なのか?:大江憲成(2018年版『真宗の生活』)

「縁起」の言語はpratiya-samutpadaプラティートヤ・サムウトパーダで、 pratiyaは「〜に縁って、〜に依存して」、samutpadaは「共に生起していること」です。つまり縁起とは、物事がさまざまな事柄、はたらきを「縁」として共に関係しあいながら「起」こっている事実を意味します。

「縁起」とは相互依存関係のことを意味すると、大江憲成氏は述べている。そして、この縁起を敷衍させてこのように述べられている。

しかし縁起は、すべては関係としてあるという事実を語る道理ですので、その道理が知らされるとき、実体的な考えは根拠なきものとなります。

そこではいかなる独断もエゴイズムも虚無主義も成り立ちません。人生は決められないし、決め込む必要もありません。定義づけられないし、意義づける必要もありません。人生は人間の勝手な解釈に当てはまるものではなく、本来私たちの思いを超えて限りなく広く深く、そして豊かなのです。 

 まず、実体的な考え方とは異なるのが「縁起」であるらしい。管見の限りでは「縁起」とは原因を探るための概念である。何かの存在には原因があり、その原因を知るのが「縁起」思想ではないのか?反実体というか、もし何らかの実体のようなものが存在する場合、それには原因があり根源があるから探ってみようというのが「縁起」であり、「定義づけられない」とかそういう存在の宙づりを目指すものではない。

神や運命、差別や排除などもその考え方(実体的な考え)に基づいているのです。 

 この文章は少しどうかと思われる。神、運命、差別、排除が並列されている…。これでは、この大江という人の方が神を信じる宗教を「差別」していることになる。もはや「私は黒人と差別が嫌いです」と言っているのと同じなのではなかろうか。実際に一神教には差別的な面もあるが、神を信じる人にはそれなりの原因が存在するので、それをすべて「誤りである」と言い放つのはどうだろうか。その態度そのものが差別的である。

別の例で考えてみることにする。「私はあなたに暴力を振るわれた!」と怒っている人がいるとしよう。大江氏の理論をそれに当てはめると、『あなたが思っている「暴力」は「暴力」ではない。そのように思い込んでいるだけだ。それは定義づけられないものであって、実体的なものではないから「暴力を振るわれた」という考え方はやめなさい。もっと「豊かな」ものに目を向けなさい』ということになる。これはかなり危ない理論ではないだろうか。

私の言うように原因を探るものが「縁起」であると考えた場合「暴力であるとあなたが認識するのには何か原因があるはずであるから、それを考えよう」ということになり、その原因が究明されることになる。両者を比較して考えると、どちらが差別的なのかは火を見るように明らかである。反実体とかそんな狭い了見で「縁起」を考えた場合、それは差別を生産する。

「反実体」としての縁起も、「問い」と同様に何かと宙づりにしたがる。解答不能で定義不可能であるという態度を決め込み、そしてその領域が「豊かな」ものであると勘違いしている。その冗長な態度が知らないうちに差別を生むということには「無自覚」で「問われない」ままに。

 

大江氏の思想は、何かに固執し頑固になってしまっている人に対しては有効かもしれない。金銭に囚われすぎている人を柔和にし、その価値観から離れさせるのには効果があるかもしれない。しかしながら、大谷派の僧侶が「お金に囚われるのはやめなさい」と言ったところで効果があるとは思えない。実際にお金から離れ、世俗の価値観から離れて暮らしている禅僧のように、価値観からの離脱を実際に体現している人から「お金から離れなさい」と言われるならばその発言には重みがあるが、大谷派僧侶のように世俗的な価値観から離れずに暮らしている人からそのようなことを言われても重みは感じられない。