What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「先生」という隠語としての延塚知道:2018年度『お彼岸』冊子(「出遇い」寺林彰則)

久しぶりにブログを書いてみよう!今回は『お彼岸』冊子を読んでみることにします。こういう冊子がくると、ほんとうに批評しがいがありますし、内容がよければ注文して門徒さんたちにも配りたいなあと常々思っています。でも、今回はあんまりよくなかったなあ....。

春彼岸の季節になると、決まって先生との出遇いを思い出します。何年経っても忘れることができません。「君は、周りに人がいても楽しくないのだろう。一人でも生きていることが楽しくも嬉しくもないのだろう。それは親鸞聖人の仏教でなければ絶対に治らない病気だ」。私の闇を照らし出す言葉でした。 

と書かれていました。書いたのは寺林彰則という人だそうだが、この人の文章自体を考察する前にこの「先生」について考えてみます。「先生」とは書いているけれど、この「先生」の名前は終始明かされることがない。しかし以下のように書かれている。

 後にそれが仏教との出遇いであることを先生は、松原祐善先生との出遇いをとおして教えてくださいました。先生ご自身は松原先生から「善いところも悪いところも丸ごとあんた自身じゃないかね。どうして丸ごとの自分を愛せない者が、周りの人を愛することができますか」と声を掛けられたことが決定的だったと語ります。

松原祐善とのこの対話を何度も繰り返しているのは、この宗派にはひとりしかいないんじゃないでしょうか。もちろん、延塚知道です。なぜ「先生」とだけ書いて延塚知道の名前を出さないのか疑問ですね。この冊子に書かれている文章そのものが、宗門の人間であれば誰でもわかる隠語で構成されています。このように隠語を使う必要性は?意図は?意味は?考えれば考えるほど不気味であるし、そのことに気を取られて文章を読む気さえ起こらない。でも、まあ推測できるのは、延塚先生は生きている人だから名前を出さないことにしたのでしょうか。でも、この話自体が宗門内では周知の話なのだから、そのような懸念があるならばこの話をそもそも載せない方がいいような気がしてきます。

でもでも、まだ少し物足りないので延塚知道(松原祐善)のことばを少し批判してみよう。

丸ごとの自分を愛せない者が、周りの人を愛することができますか 

これはいったいどういうことだろうか。自己愛と博愛が仏教のテーマなのだろうか。自分を愛し、人を愛さなければ人は救われないのだろうか。自分も愛せず、人も愛せない者にこそ仏が救いを与えてくれるのではないだろうか。

周りに人がいても楽しめないことは病ではないし、一人でいることを嬉しいと思えないことも問題にはならない。そう「問題にはならない」と言ってくれるのが親鸞聖人の仏教なのではないだろうか。周りの人を愛することができる人が必ずしも自分自身を愛しているわけではない。自分を愛せなくても人を愛することは可能だし、愛はそもそも煩悩であるというのにそれを積極的なものとして語ることはいかがなものだろうか。

ポンプ小屋の話も、松原祐善の話も、その話の評価云々は保留するとして、その話をするのは延塚知道一代で十分だと思います(この時代に一浪して京都の私立大学に通ってる時点で同年代の人たちより裕福なはずですが「貧乏で」「苦労して」死にたかったそう・・・立派なご苦労をなさっている方です)。そして、若者は自分が経験したことをもっと突き詰めて考えるべきではないでしょうか。先生との出会いの話を語る場で、先生が語っていた先生の先生との話をそのまま転用するのは本当にいただけない。自我が破られるような、私自身が問われるような経験が大事と本山ではしきりに言われているが、この寺林さんという執筆者は専修学院の指導補であったのなら、もっと自分自身の話をするべきです。

でも、このようなことが起こってしまう雰囲気が大谷派には蔓延しているんでしょうね。それは「師と出遇う」というスローガンを掲げ、偏っていることに起因していて、とりあえず師匠のエピソードがあればいいやみたいな雰囲気があるんですよね。先生、先生、私の師匠は誰々で、っていう構造って危険ではないですか?「私の先生は〇〇です」って言ってる人は皆んな何故か偉そうだし、宗門で少なからず有名な人の名前しか出さないところが気にくわない。