田中顕昭という方の法話だそうだが、この法話のキーワードは「“たい・たら・ぶり”は往生のさまたげになる」だそうだ。
「たい」は「ああしたい、こうしたい、ああなりたい、こうなりたい」。「たら」というのは「あの時こうだったら、あの時こうでなかったら」。「ぶり」は「判ったふりをして、つもりになって生活をしている」ということ。往生とは、今を生きるということです。今をいただいた時、はじめて未来がきまる。この身このままをいただく。人生を充実しなくてはとか、人生に意味を持たせようとかというのは、今を受け取ってない証拠だと思うのです。充実は往生にしかない。「たい・たら・ぶり」を教えられていく、気づかされていくということが、聞法(もんぽう ※)の場にちゃんとあるのです。
と書かれていた。理想や期待、欺瞞は「往生の妨げ」になるらしい。「往生とは今を生きること」であり、「たい・たら・ぶり」は「今を生きることの妨げ」になるらしい。
・往生とは今を生きることなのか?
往生とは「今を生きること」なのだろうか。往生することが現世において定まることが重要なのであり、決して「今を生きること」が往生を指すものであるとは思えない。「この身このままをいただく」ことができずに、いただけない自分を抱えた自分自身がそれでも往生が定まっているということが重要なのではないだろうか。
・人間の意志が往生の妨げになるのだろうか?
確かに悟りの境地を目指すならば、人間の邪な意志や理想はその妨げになるかもしれない。しかし、それは浄土真宗における「往生の妨げ」だろうか?そんな意識を持ちながらも念仏すれば往生が定まるというのが親鸞の教えであり、それは「念仏者は無碍の一道なり」という歎異抄の言葉が示すところのものでもある。神や魔界さえも妨げにならないのだから、「たい・たら・ぶり」が往生のさまたげになるわけがない。
教えから念仏が抜け落ちてしまうと人間の意識に問題が集中してしまう。念仏の超越性を欠けばそれは浄土真宗でもなければ、浄土門でもない。それは人間が自分の意志によって自らを克服するような宗教なき人間中心的な世界観でしかないのである。
これは自己啓発となんらかわりがない。振り返って考えると、お念仏の教えを話してくれる法話はそこまで多くないように思われる。自覚という「意識」、問いという「意識」…どこまでも人間の意識でどうにかしようとする話ばかりである。「どうにもならない」から念仏が絶対的に必要なのではないのだろうか。
・以下、余談
真宗会館のこの法話の全文を読もうとしたら、「ログインして続きを読む」と書かれていた。なぜ会員にならなければ読めないのだろうか?開かれた空間として聞法の場があるのならばこんな登録など必要ないはずだが…??