What is Buddhism? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関して批評するブログ。愚痴も入ってますが、ひとつの意見としてみていただけたらと思います。

大谷派への批判的私論

今回は私自身が思う真宗について書いてみる。真宗それ自体というか、大谷派のもつ真宗観に対する批判ではあるが、特定のテキストに対してではなく雰囲気に対する批判を私見を交えて行いたい。

私が出会う僧侶のなかにたまに「真宗って、もう普通の宗教じゃないっていうか、宗教を超えた思想みたいなものだと思うんだよね」と言う人がいたりする。のめり込み傾向にある人ほどこういう言い方をする場合が多い。皆さんの周りにもいるのではないだろうかと思うし、もしかしたら皆さん自身がそうなのかもしれない。

単に神のような超越者をただ敬うのは単なる妄信的な「宗教」で、真宗はそのような意味では「宗教ではない」とか、同朋会運動系の人ならいかにも言いそうだ。現に彼は「門徒のおばあさんが何も意味もなくナマンダブって唱えてるのに違和感を覚える」などとのたまっていたし、私は「念仏唱えてる人を尊く思えないなんて、こいつほんとに坊さんなの?」と思っていたが、議論していても無駄だし、こう言う感性の輩は死ぬまで治らないという経験則をもっているので黙っておいた。

そのおばあさんをバカにする気持ちを育んでいるのは、「自覚」の教えだ。「自分を知る」だの「自分の思いを超える」だの、ほとんど自己啓発みたいなことを目的にしている人からすれば念仏はその目的のための手段でしかなく、件のおばあさんのようにただ念仏しているだけに見える人を「目的のない人」とみなしてしまうのだろう。(私から見れば「自覚」「思いがひっくり返される」と何十年も継続して話してる僧侶の方がよっぽど進歩もないし、「自我の転倒」を感じない)

私は真宗は「宗教」だと思うし、「宗教」をそもそも悪いものとは思っていない。宗教そのものへの否定的な価値づけはいかにも近代的で、もはや知識や価値観の停滞感を示すだけであるし、じゃあ宗教的であるのが嫌なら法事も儀式も全部やめちゃえば?と思う。そう、同朋会運動を声高に叫ぶ人は宗教的儀式を全てやめて、教えと自覚に徹していればいいのだ。本山や谷大で自覚自覚いってるやつは、自分がいまいるその場所がどうやってなりたっているのかを考え直した方がいい。

「法事は供養ではなく、法を聞くためのご縁」とよく言うが、法話ちょっとしてもらうためだけに数万円もお布施を包ませるのはいかがなものだろうか。それほど立派な法話をしてくれるのならともかく。

自覚が大事と言う人にとって、仏様も念仏も手段なのだろうか?そう思うのならどうか他の手段を見つけていただきたいとしか言うことが見つからない。結果的に自覚のような心境が起こるのならまだしも、それだけを目的とした宗教や思想ってまったく魅力がないし、それだけのことならブラック企業のスローガンと質的に同じじゃないか。宗教的なものの引力って、自覚とかそんなものじゃないだろう。いろんな宗教が起ったり、消えたりするものの、「宗教」そのものがなくならないのは何故かということを考えたことをある人がこの宗門のなかにいるのだろうか。

「宗教的であること」ということを今一度考え直すべきではありませんか。真宗がどんな「宗教」なのか、ということを誰も理解できていない気がするし、それがわからない限り他の宗教と競って布教なんて無理だろう。こっから先はただの愚痴だけど、このあいだ宗門関係の論文誌を読んでいたけれど、「教学」の言葉の意味の変遷とかほんと内向きすぎてどうでもいいし(宗門の中でもマイナーだと思う)、親鸞の教えに近づいてもいなければ(近代教学一生懸命読むより親鸞そのものを読んでくれというお願いは間違っているのでしょうか、仏典の大谷派が出してる現代語訳少なすぎません?)、現代社会からも遠ざかっている。

追伸:

清沢満之を宗教的に崇め奉っているのに、なぜミニマム・ポッシブル実践していないのか私には理解しがたい。真宗は学問ではない、実践だの言うのなら尚のことだと思う。