What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

昼寝をやめさせようとする宮城顗

先日届いた「真宗の生活」にはこんなことが書いてあった。

自分の死、この私が死ぬということを知らされたら、一日足りとて、それこそごろごろと昼寝はしていられません。たとえ一瞬でも、かけがえのない一瞬になります。初めて自分のいのちを大事に、自分というものが本当に生きたと言えるものがどこにあるかということが問われてきます。(宮城顗)

真宗ってこんな教えなんでしたっけ。自分のいのちを大事にしろ、ダラダラして昼寝をせずに一瞬を大切にしろとかいうのが真宗なら、もう真宗なんて必要ない。小学校で道徳の授業を受けていればいいんじゃないかな。宮城顗って、実際にそんな褒められるような倫理観をお持ちだったかしら....はてさて。まあそれはおいておきましょう。

宮城顗には「命」「命」で、もはや「命のためなら死ねる」ってほどの極端さがある。自分の思いを超えた命に生かされているっていう論理にも嫌悪感があって、そういうのって「命」に人間が左右されてしまうことになってしまうのではないだろうか。「命」があるから大事とか、人間の尊厳はそんなところにはない。みんな名前をもって、具体性の中で生き、昼寝する日もあれば必死で生きる日もある、泣いたり怠けたり、いろんなことを背負って生きている。それが「命」というものだと私は思う。

宮城顗のいう昼寝もしない、一瞬たりとも時間を無駄にしないような生活が本当に尊いのか。お念仏はどこにいったんだ、お念仏は。「昼寝をしない」だの、それが親鸞の教えなのだろうか。じゃあ水商売や不規則な生活をしなければならない仕事の人は?真面目に生きることも許されない人は?人殺しをしてきたような人が聞いて涙を流したのが法然親鸞の教えだったのではないのか。「人生の一瞬一瞬を大切にしましょう」なんていう教えで一体誰が救われるのだろうか。

ちなみに「真宗の生活」に掲載されていたのは宮城顗の『浄土真宗の教え』という本の一部分の抜粋だったが、出てくる名前は釈尊親鸞でもなく、武満徹や田中美知太郎だった。教養のある人しか知らないような現代音楽家ギリシャ哲学研究者の言葉ばかりで、申し訳程度に曇鸞がでているが、もはや意味不明であった。こういうスノビズムとか、啓蒙主義とか飽き飽きだ。