What is Buddhism? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関して批評するブログ。愚痴も入ってますが、ひとつの意見としてみていただけたらと思います。

初心者と一緒にいれない熟練者とは?プロ門徒?

 先日見ていたインターネット記事にこのようなタイトルのものがあった。

初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性【堀内克彦】 | リレーコラム|浄土真宗の法話案内

 「浄土真宗法話案内」というサイトのなかにあるリレーコラムのページだそうだ。執筆している人も多様で、僧侶だけに限っていない。上に貼り付けてあるタイトルが気になったので読んでみて、少し思うところがあったので記事を書いてみようと思う。今回は別にこの堀内という人を批判しようという意図はない。

  • 「初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性」というタイトルにみる宗門

 コラムの中ではこのように書かれていた。

例えば坐禅であれば初心者と熟練者が混ざっても、ある程度場が成り立ちます。しかし法話会でそれをするのは難しいでしょう。どちらかのレベルに合わせれば片方の満足度が下がります。大げさに言えば小学生と大学生が、一緒に数学の授業を受けるようなものです。

 座禅は確かに極めた人とそうでない人が共にいても、よほどのことがない限りその場が乱れることはないだろう。個人プレイなのだし、我関せずして行うのが座禅なのだからそうあってしかるべきである。したがって、座禅は初心者と熟練者が同居しても空間が成立する。しかし、「法話会でそれをするのは難しいでしょう」と書かれている。

 初心者と熟練者が一緒に教えも聞くことができずに何かサンガだろうか、何が御同朋だろうか。「小学生と大学生が一緒に授業を受けるようなもの」というふうにいわれているが、「自分は大学生の方だ」と思わせる教えに問題があるのではないだろうか。本山の晨朝法話のときにこれ見よがしに最前列に座っている人や、東京によくいるタイプの知識人風の人、法務もしないのに「教師になりたい」と言い出す人、推進員になって自分は他の門徒とは違うんだという空気感をもった人を私はどうも好きになれない(自坊にも推進員の方はいるが、あまり熱血タイプではないし、こちらから「すいませんが」と無理をいってお願いしている....)。

 初心者と熟練者が同じ空間にいれない、っていうのは教えを学問や知識としてしか話してないからなんじゃないだろうか。もしくは「なんとか先生がなんとかといっていた」みたいな宗門の内輪ネタみたいな話の連発だったり。核心をもって「この話は本当にありがたい」という話だったら、初めて聞いた人もいつも聞いている人も一緒に聞ける話なのではないかなと思う。

 選民的な門徒さんも僧侶も「御同朋」の輪を自分で閉じているし、その空間の方が居心地いいんだろうなあ〜。

  • 推進員が「推進」するものとは

 推進員っていったい何を推進しているんだろう....という疑問が浮かぶ。推進員っていうくらいなのだから、真宗の教えを推進して人たちだと思う。つまり教えを推進するというのならそれを広めるってことなのだろうが、推進力をもった推進員をあまり見たことがないような...。「推進員養成」とかいうなら、もっと布教してくれる人を育てて欲しいのだが結局自尊心の高いプロ門徒みたいな人しか生まれてこないのはなぜだろうか。というか「教師」っていうのも結局そうだな....。

  • 余談

「青年教化部門幹事」みたいな名前、私にとってはオウム真理教よりも恐怖....。