What is Buddhism? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関して批評するブログ。愚痴も入ってますが、ひとつの意見としてみていただけたらと思います。

弱さを弱さとして認めることができる教え(中山善雄氏が書いた『ともしび』[2018年8月号掲載]について)

「ただのいちゃもんつけのブログだろ」って思われるのは癪だから(思われてもなんの問題もないのですが)、今日は初めて「これはよかった」と思える文章について書こうと思う(批判とは否定とは違うのだから)。それは中山善雄という人が書いた文章だった。

www.higashihonganji.or.jp

 

 幼少時、家の事情があり、住んでいた町から隣村の幼稚園までバスで通っていた。元々気後れする気質でもあり、私はその幼稚園にうまく馴染むことができなかった。ある時、大人の目がない中で、何人かの子に囲まれて乱暴されたことがある。子どもにはよくあることなのであろうが、私は幼稚園に行くことを畏れるようになった。それでも居場所を得るために、周囲に何とか合わせ、流れについていこうとし始めたのが、その頃であった。
 年齢を重ねる中でそのことは忘れていった。しかし、他者の眼差しを畏れ、弱い者・暗い者と思われないために装う中で、いつの間にか「強い者・できる者でなければならない」という価値観(ものさし)が身についていった。その結果、人から暴力を振るわれることはなくとも、私自身のものさしが私を監視し、裁くようになったのである。
 自分がもっている「こうあるべき」「こうありたい」という思いは、畏れの中で自ら内に取り込んでいった世間の観念であるにもかかわらず、それを自分の確かな主体として自明視していた。ある時期から、その生き方が虚偽であることは感覚し始めていたものの、自我意識の中で作られた「私」は、限りなく「私」を確固なものとし、支配権を広げることを主張する。その妄執に、私は手もなく翻弄されていった。
 そのなかで道標となったのは、他ならない、自分が一番嫌悪していた、自分の弱さと脆さである。強く自分を固めようとしても、そうあることができないためらいが残り、小さなことに悩む、割り切れない自分の心がある。それが「こうあるべき」と自ら抑圧する私に、「それでいいのか」「本当にそうなのか」と微かに問いかけてきていた。
 自らの弱さを、自分の生き方への問いかけとして聞くようになったのは、ある人から「本当の主体性は、うずくまってしまうような弱さの中にいきづいている」という言葉をかけていただいたことから始まった。そこには人間の弱さを限りなく尊ぶ眼差しがあった。その眼差しを受けて自分の弱さが、弱い自分を嫌悪する私を痛む問いかけの声となり、その中で、記憶から消し去っていた幼い頃の光景と、強弱で裁く世界に悲しさを感じていた自分の心が少しずつ蘇ってきたのである。
 親鸞は、「門余」という言葉を掲げ、「余はすなわち本願一乗海なり」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』三四一頁) と記している。この「余」は、私的な解釈であるが、「聖道門」という「こうあるべき」という観念の中で、人が抱える「余り」の感覚、すなわち「割り切れなさ」でもあろう。そこに「本願」が宿るということであろうか。どれほど自己軽蔑の中で弱さや悲しみを消そうとしても、それゆえにこそ、その身を痛み、自己を回復せしめようとする確かな呼びかけがそこにある。
 私たちが余計なものとして軽蔑し見捨ててしまう割り切れなさ・弱さにこそ、本願の兆し・主体の根拠を見出していく眼差しを仰ぎ、弱さは弱さのままに安んじて生きていける世界を明らかにしていきたい。

 以上が全文である。 いじめられ、弱かった自分を隠し「弱い自分」と思われないために「こうあるべき」という基準を設け生きてきたという。自分自身の弱さや痛みを隠し、人に悟られないように生きてきたが、それを消そうとしてもそこには「割り切れなさ」が残っている。そして、その痛みにこそ本願の呼びかけが響き、「弱さは弱さのままに安んじて生きていける世界」が重要であると彼は述べている。

 確かにそうだ。この文章のいいところは、自分の辛い経験をただ単に本願との出会いとして安易に結びつけるのではなく、実体験を交えながら弱さを弱さとして認めることのできる視点を保っている点である。病んだ経験を一足飛びに「仏と出会う契機!」のようなものとしてしまうとリアルさが全くないし(もはや神秘思想でマゾヒズム)、痛みや弱さへの寄り添いを一切感じない話になってしまうが、中山氏の話においては「弱さ」への細かな洞察が伺える。

 辛さを「辛い」と言えることは大変重要なことだと思う。「弱さ」を「弱さ」として認めることのできる視点はとても大事だと思う。それもいえず、それを覆い隠そうとして「信心」「信仰」「本願」「自覚」という言葉を乱発する話には一切魅力を感じないが、これは体験を交えた良いエッセイだった。

 かといって「自分の苦しさを認めろ」「辛くありませんか?」みたいな類の話はものすごく嫌いだ。苦しみの認知をあたかも条件のようにして設定するのは全く苦しみというものを理解しているとは思えない。どうやったら痛みを痛みとして感じ、それを隠さずに生きていけるのか(隠して生きていくのは辛いことだから)ということの方が大事なのだ。順番を間違えている人がこの宗門にはたくさんいる。この文章にはそのような意味で暖かさや誠実さが感じられた。教養主義的な鬱陶しさもなければ、仏教以外の文学や音楽を紹介して押し付ける気持ち悪さもなくて、「宗教的」な素晴らしい文章だと私は思う。仏教以外の文学や音楽に関する記述って「俺って仏教だけじゃなくて、世界が広いんだぜ」みたいな小賢しさを感じるし、そもそもお前の趣味なんてどうでもいいから、むしろあんまり聞いたことのない様なお釈迦様のエピソードでも教えてくれよ、という気持ちになる(私は長年ヘヴィ・メタルのファンだが、絶対にそのことは教えと結び付けない。結びつきそうな歌詞があったとしても絶対に結びつけたくない)。

 

 ただし、この記事には「主体の根拠」や「本当の主体性」といった中途半端な哲学用語が混ざっている点が少し残念だった。この話の場合これらはあまり必要ないように思われる。