What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

高度経済成長期から更新されない「現代」

今回は2019年1月号の「ともしび」の〈聞〉のコーナーに書かれていた「『現代の聖典』に思う」(花山孝介)について批評したい。しかし、特に新しい考えをいうつもりはない。いつも思っていることを書こうと思う。

 私たちが求める幸せとは、何を根拠にしているのか。考えてみれば私たちは、自己関心の延長上に期待する理想をひたすら追い求めているだけではなかろうか。具体的には、便利さと快適さと合理的な生活の中で、自分だけの満足を求めているに過ぎないのではないだろうか。しかし、どれだけ人間の願望を延長しようとも、人間の思いの領域を出ることはない。 

同朋会運動が盛んだった時期というと、それはちょうど高度経済成長期だったはずだが、それはみんなが経済の成長に沿って欲望と理想の実現に向けて生きていた時代だった。そんな時代だからこそ、上記のような思想は際立ち、人々を感化させてきたのではないだろうか。

しかし、今は事情が異なる。自己関心の延長上に期待する理想をひたすら追い求める人はあまりいない。そんなのは月に行こうとしているZOZOTOWNの社長、それともアメリカ第一主義を叫ぶドナルド・トランプくらいだろうか。殆どの人々の望みの中には、人間の愚かな願望とは言い切れない程のささやかさと切なさがある。『現代の聖典』なんて言いつつ「現代」という時代を考えないのが常識となってしまったが、そろそろ更新するべきだ。

そしてもう一点「人間の願望の延長」ではないような信仰とはどのようなものなのか、私はいつもわからなくなる。それは同朋会運動的な主体的な信仰を本当に意味するのだろうか。特別な信仰を持った人々が、門徒の中でも特別な人間として、学習会や聞法会に偉そうな顔で出席し、時には得度を受けたり教師資格をとったりする。それは「特別な人間でありたい」という極めて人間的な幸福でしかない。親鸞はもっと人間の心を見抜いた鋭い教えを説いている筈である。だからこそ、人間は信心を「いただく」しかないし、それはもはや人間の意識を超えたものでしかないと私は思う。

 

  • 余談

東本願寺日曜講演のタイトルのなかに「衆生滅尽––本当に私たちは人間として生きえているのか––」というものがあった。宗教的脅迫、そんな言葉が頭に浮かんでしまう。「私たち」ではなく、まずは「私」にして頂きたい。