What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

凡夫と自己責任

 先日届いた彼岸用の冊子を読んでいると、少し気になることが浮上した。凡夫であることの自覚と自己責任は同じなのかという問題である。現代では冷徹な自己責任論が幅を利かせ、当然他方でそれに反対する言説も多く生まれている。自覚と自己責任が同一であるわけはないはずだが、常に両者は混同されて語られているのは、きっと誰もそれを意識していないからなのではないだろうか。

 これは恥ずべき姿勢である。私が自覚に対して持つ嫌悪感の一つの要因となっているのが、この混同である。ところで、このことを考えるきっかけとなったのは次の文章だった。

今から半世紀前に亡くなったある涙の深いお同行の、

「お寺の石段は、涙のかわかんうちにのぼらんば、そして仏法にうたれんば、自分で自分を責めたら暗うなるけど、仏法によってわが身を責めれば、宿業の底に明るい世界がまっとっとばってんな…」 

という言葉が思い起こされハッとしました。

  書いたのは長崎教区の藤井映という方で、その人自身は特に言葉をそこまで深めることはしていないのだが、私はこの「自分で自分を責めたら暗くなる」ことと「仏法によってわが身を責める」ことの違いが気になった。

 

・順序の間違い

 この世の中は自己責任の呪いで満ちている。人のせいにしてはいけないし、自分がしたことの責任を負わなければならない。仏教もある意味では自己責任論のような側面を持っているけれど、それは社会から個人に課される暴力的な支配ではない。この点を履き違えてはいけない。

 自覚を条件として叫ぶ方々の中にはその自覚の因が自分の精神的な潜在性にあるとお思いの方もいらっしゃるようだが、それは間違いである。なぜ自覚が可能になったのか、なぜ凡夫である自己を受け入れるようになったのかということを考えない限り、浄土真宗は刑務所と同じである。「仏法によってわが身を責めれば、宿業の底に明るい世界がまっとっとばってんな」という同行の言葉を時間的な流れで理解してはならない。ここに書かれているのは順序ではないし、順序が仮にあるとしたら文章とは逆の順序である。

 「真宗に出会って、心が病んでしまう程悩んだ」と武勇伝のようにして自覚体験を語り、真宗とは厳しい教えであると述べる方もいるが、これもまた自己責任論と同一の根を持っている。心が病むようにして自覚を強いるのはどう考えても暴力かつカルトな宗教である。心を病むほど自覚の経験をした人がそれを良いこととして語るという時点で矛盾しか感じない。

 修道院の前で何十日間も罵声を浴びせられ、愚かな自分を認めることを求められる中世のキリスト教徒でさえ、目の前に修道院があるからこそ試練を乗り越えることができる。

 

・仏法によってわが身を責める

 このことは仏法の存在があって初めて実現される。「明るい世界」が実在性をもつことによってしか実現されない。罪を認める前にこの「明るい世界」の存在を実感しなければ、罪を自覚することなど不可能なのだ。自己責任論とは自分がやったことの責任を自らが引き受けるというものだが、仏教はそれと等しいわけではない。自分のしたことの責任を取れるようになるにはどうすればいいのか、そしてその因果の根本的には煩悩というものがあり、それは必ずしも自分の意識のみによって克服できるようなものではないということ、そして浄土に往生することは自己責任とは全く別のものであるということ(むしろこの全く別のものによって自己は責任を負えるようになっていく)、また自分が責任を負うべきものとそうではないものの区別の仕方(負うべきではない責任を請け負うのは虚妄である)を仏教は教えてくれるのではないだろうか。

 自分で自分を責めるのではなく、仏法によってわが身を責める、という言葉の深さをもっと考えたいと思う。このコントラストによって知れることはとてもたくさんあるのではないだろうか。