What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

母性と仏について:『花すみれ』を読んで思うこと

 ジェンダー問題にも積極的に取り組みたい姿勢を見せる本山だが、それがただのパフォーマンスなのかどうかは日頃の行いによって判断される。その上で言わせてもらえば、未だに本山はジェンダーに関するリテラシーを著しく欠いている。まだ発展途上なのかもしれないが、それなら尚更批判しておかなければなるまい。

 というのも、先日『花すみれ』という真宗大谷派大谷婦人会なるところが発行している冊子を初めて真面目に読むと不自然な点があったからだ。「お母さん」というワードが際立って用いられ、その母性が仏と重ね合わせられている。このような喩えは時として必要かもしれないが、婦人会の冊子で定型式のように用いられていることを問題ではないとは言えない。

 子供を見守る母親と仏さまを重ね合わせる話はわかりやすいけれど、実際の母親は阿弥陀如来ではない。悩みながら進む凡夫の一人であるはずの母親を阿弥陀如来とすることで、彼女らは「他者」という位置付けを帯びることになりはしないか。この母親像、母性神話は捏造された幻想である。外見上は比喩にみえていても、これは暗黙のうちに母親に大変な理想像を押し付けている。暗黙とは言わず「母親はこうあるべきである」という偏見を直接的に押し付ける法話や文章を見ることも少なくはない。これを問題ではないというのなら、差別についての学習会を一万回開いても意味はない。

 しかも、女性が主体的に作っている冊子であるというのも考えものである。「女性である私が傷ついていないから問題ない」という間違った論理によってこの母性神話が保護され続ける可能性がかなり高い。というか婦人会主体の冊子でこの母性言説を流布していること自体、差別性を十分に意識した上での行いだと思われても仕方なかろう。

 「親様」という表現はきらいではないけれど、それが全てではないことを理解しておくべきだろう。虐待されて育った人にとって親を仏様と重ね合わされるのは想像を超える苦痛であるはずだ。今や毒親といった問題も語られるなかで、母親と仏を同一視する風潮は社会と不釣り合いになりつつあるのだ。「そこまできにする必要はない」と思うかもしれないが、私は誰かが傷つく可能性がある法話を避けたいし、その危険をおかしてまで親と仏を結びつける必然性を感じない。

 親様としての阿弥陀は、家父長的なイデオロギーでも「ありえる」ということも一言添えておこう。近代教学、現代と親鸞とかいいつつ、われわれは本当に江戸時代を乗り越えたのだろうか。