What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「問う」とは「それを問題とみなす」という意味なのだが

 『真宗』2019年4月号に「それぞれの往生際」というコラムがあった。

 人は様々な死の迎え方をしてきた。『往生際の日本史ー人はいかに死を迎えてきたのか』(小山聡子、春秋社、2019年)には、現代にまで影響を与え続けている「末法」という仏教的な歴史観を生きた源信恵信尼徳川家康宮沢賢治など、古代から近代に至る歴史上の人物の多様な「往生際」が描かれている。そこで人々が自身の終末期と、「地獄」に象徴される死後の世界への恐れに向かい合う様子は、あるいはその「往生際の悪さ」は、自身の死に方を考えることが時代を超えて「後生の一大事」であったことを教えている。

 往生際はずっと問題となってきた。善導の『観念法門』然り、仏教は臨終行儀を事細かに設定し、それが浄土往生にとっての最重要課題とされてきた。このコラムでは戦時中は「死二方用意」という臨終のあり方の強制があり、また現代では死刑制度がそれと同質であると語られている。そのような命の終わらせ方に対して、この御手洗隆明という研究員の方は以下のように述べている。

 この問題に限らず、大災害や「死」など、私はいつ当事者になるかわからない。その時に備えようとするが、全く間に合っていない。それでも「間に合わないというところにたてば、常に向き合っていける」「問いを持ち続けて生きていくことで自分が成長する」と先人の声が聞こえる。往生際まで問い続け、想い続ける生き方もあるようだ。

 往生際まで問い続けるということに重要性を見出しているようであるが、私にはよくわからない。 臨終の話から、臨終の準備には間に合わないからそれまでのプロセスが重要という話にシフトしているのだろうか。「問い」の絶対化についてはこれまでも別の記事で言及したが、「問い」とは「問題とみなす」という意味ではないだろうか。問題ではないことをわざわざ問題にする、ということは人間の迷いの一つである。だから「問い」を持ちなさい、というのはあまり人の救いに繋がるとは言い難いし、そろそろ私としてはなんらかの「答え」を示してもらいたい。

 この「臨終」に関して親鸞が与えうる答えは一つである、「そのことを問題にするな」。問うことは確かに大切だし心がけておいて悪いものではないが、「それは問題ではないんだよ」という問いを停止させる声が人を救うこともあるのではないだろうか。親鸞の思想には「自分が成長する」とかそういう教育的配慮ではなく、もっと暖かみある優しさを感じるのは私だけなのだろうか。