What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

同朋会館のポスターが最悪な件について

まずはこのポスターを見ていただこう。

 これは東本願寺から私のいる寺に送られてきたポスターである。われわれの宗門では本山に御門徒が参詣し、清掃活動を行ったり教えを聞いたりする研修が行われているのだが、これはそのことを宣伝するポスターだ。女性に跪かせ、雑巾をかけさせる写真なのだがこれはどうみても女性に対するジェンダーロールの押し付けである。掃除が女性の仕事だとでもいうのだろうか。

 現代社会では、CM広告やポスターなどにおいて女性に特定の役割を押し付けるような表現があった場合必ず“炎上”がおこる。そのような現状を鑑みると、このポスターは全く適切とはいえないし、そのような批判がどこからもあがらない本山の内部、批判が生じると想像することができない作成の当事者たちに呆れてしまう。ましてや本山には「女性室」というジェンダー問題について対処する部門さえ存在しているというのにこの体たらくである。

 しかも最近では専修学院における狐野秀存による女性差別事件が問題となっているというのに、このようなポスターを作るのは無神経が過ぎるのではないだろうか。

 このポスターには男性が映ってもいいわけだが、なぜかそうではないのだ。「悩み」というものを抱えた存在を表象するのならば青年でもいいし、中年男性でもいい。それにも関わらずここには「跪いて掃除をする女性」のみが映されているのだが、このことについての合理性はどこにあるのだろうか。

 しかし、私はポスター内にもし跪いて雑巾掛けをする男性がいたとしても疑問をもっただろう。「あの日の悩んでいた私に伝えたかった聞法のこころ」とコピーが書かれているのならば、載せるべきは掃除中の写真ではなく聞法のシーンである。掃除と信仰は、禅宗ならともかく少なくとも浄土真宗には結びつきがあまりない。

 私はそもそも「奉仕」という時代遅れの言葉に嫌悪感をもっている。「上山」だの「奉仕」だの、東本願寺は自らを勘違いし過ぎているのではなかろうか。何度かこのような“奉仕”活動に参加したことがあるが、跪いて雑巾掛けをしている横をワイシャツを着た本山職員たちが大した挨拶もせずに通り過ぎていくのはなんなのだろうかと虚しい気持ちになったことを強烈に覚えている。そもそも彼らが着るべきは作務衣である。

 話は逸れるが、私はかねてより宗務役員等の本山勤務者に対して呆れている。先日本山のしんらん交流館に入館したところ受付の職員に一瞥されたのみで挨拶も全くなく、とても不愉快な思いをした。修練という修行もどきの資格取得研修にいったときはものすごく態度の悪い職員に挨拶を無視されたことさえある。

 さて私の考えでは、親鸞の教える仏とは「下の方まで降りてきてくれて一緒に掃除をしてくれるような仏様」である。何もせずに下から上がって来させて、跪いて「女性にだけ」掃除をさせるような仏様ではない。このポスターひとつに、東本願寺の「無意識の差別」がありありと現れているのだ。

 いい機会なので次回は近日中に専修学院における女性差別の問題について論じてみたい。「自覚」の教えがなぜ差別を越えられず、むしろ差別に加担してしまうのかを記事にしてみることとしよう。

大谷派が“是旃陀羅”という言葉を使い続けることへの疑問

 宗門機関紙『真宗』2023年2月号から3月号にかけて書かれていた「解放の教学」という記事について少し疑問に思ったことがあったため久しぶりにブログを更新することにする。執筆者は本廟部出仕・儀式指導研究所研究員の竹橋太という方だったのだが、この方が書いた記事には「意地でも“是旃陀羅”という言葉を教学や儀式から排除したくない」という姿勢がありありと現れていた。感想を端的に述べておこう。どうしたら機関紙にこのような詭弁すれすれの差別記事のようなものを大胆に載せることができるのだろうか。

 最初に「是旃陀羅」の問題についてものすごく簡単に概要を説明しておく。この言葉は『観無量寿経』(以下『観経』)で使用されており、もともとは「チャンダーラ」という被差別階級の人々を指し示すことばである。これは被差別部落の人たちからすると絶え難い言葉であり、宗門内外から儀式での使用を疑問視する声が上がっている。使用をめぐって宗門では現在まで(一応)議論が重ねられてきているが、依然として『観経』の「是旃陀羅」は儀式において読誦されているというのが現状である。

 私はなぜここまで差別性が指摘され続けている「是旃陀羅」という語が依然として宗門内で使われ続けているのかが疑問であった。『真宗』の当該記事ではその使用についての正当性が主張されていたため、それが本当に正しいものなのかこのブログでチェックしてみたいと思う。

「儀式」や「伝統」を盾にした差別の温存

 竹橋太氏は当該記事において以下のように述べている。

仏前での儀式の形は、その経典などが説かれている場に参加するという形になっている。仏や宗祖の前に座り、その教えに耳を傾ける、それが儀式という形で再現されている。だから教えを聞くことに関心がなければ退屈なのである。仮にその関心があったとしても、漢文の音読は大きな壁となる。それなのに音読が守られるのは、実はそれが原典であるという位置付けがあるからである。中国語に訳されたものであっても、それを宗祖がいただいた原典として、そのまま読むことにとって、その経典が説かれた場に、こちらから身を運ぶ。(『真宗』2023年2月号46頁)

 差別語を使用しているにもかかわらず漢訳仏典が儀式で読誦されるのは、その仏典が「宗祖が教えをいただいた原典」であるからだそうだ。これについては了解できる。またこのように書かれていた。

まず儀式という点から考えると、経典など聖典の言葉はそのままいただくものであって、読む、読まないというような議論は基本的に成り立たないように思う。(同上、47頁)

 ここでは「そのままいただくこと」を主張することで「是旃陀羅」を読み上げることの正しさが保たれている。しかし、この主張を踏まえるとなぜこの宗門に「読まない和讃」なるものが存在するのだろうかという疑問が湧く。実際に、親鸞が書いた和讃のなかには儀式では用いられないものが存在しており、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときまう」という和讃がそれである。これは正像末和讃のひとつで、これは「念仏の教えを謗る者は地獄に落ちるぞ」という意味でやや過激な和讃である。声明集のなかでもこの和讃には節符がついていない。

 少なくとも存如(1396-1457)の時代から「コノ讃ヲヒクヘカラズ(読んではいけない)」と伝えられているらしく、おそらく念仏を弾圧した後鳥羽上皇を非難する和讃であるから読んではいけないのではないかと考えることができる(よくわからないので知っている方がいたら教えてください)。

 どちらにせよこれを読み上げることでなんらかの問題が生じるために「ヒクヘカラズ」になっているのであろう。

 そのような事実があるのならば「聖典にあるものは全て“いただかなければならない”」という理屈は通らない。前例があるのだから儀式の観点から言えば、むしろ「是旃陀羅」を排除することは十分に可能なのだ。

 『観経』が三部経のひとつで和讃よりも「重い」ものであるため当該箇所の不読に抵抗があるという感覚は理解できるが、やはりそれが差別用語であり、読誦することに差別性があるとこれだけ言われている現状を鑑みれば不読が妥当であると思われる。しかも、竹橋氏のいうように儀式が「教え」を聞く場であるのならなおさらである。「教え」を伝える法話の場では絶対このような言葉が注釈なしでそのまま使用されることはないではないか。

阿闍世に母殺しを止まらせたのが「是旃陀羅」だからこれは重要な言葉であるという暴論

 この宗門内で繰り返される暴論のひとつに、「是旃陀羅という言葉によって阿闍世は母親を殺すことをためらったのだからこの言葉には意義がある」というものがある。実際、耆婆・月光という大臣たちが「母親を殺すなんていうのは被差別階級のするようなことだからやめなさい」と阿闍世に語ることで阿闍世に母殺しを思いとどまらせたというエピソードが『観経』にあるからだ。

 確かにこれは事実かもしれないが、だからと言ってこの表現が重要だとは思わない。勉強しない子供を叱る母親が路上生活者を指差して「勉強しなかったあんなふうになるよ」と言っているようなもので、極めて無礼で侮蔑的な表現である。しかし、この宗門ではこの表現に対してさまざまな言説を付け加えることでそれを正当化する差別行為が絶えず行われ続けている。

 そのお手本のような詭弁を、竹橋太氏は『真宗』2023年3月号で披露してくれている。ここにご紹介しよう。

つまり、「是旃陀羅」という言葉がなければ、韋提希の命は救われないし、浄土は説かれなかった。そもそも『観無量寿経』も成立しえないのではないだろうか。(『真宗』2023年3月号、49頁)

 ここで披露されているのは、韋提希を生存させたのが差別用語であって、その差別用語が存在しなければ韋提希は死んでしまい、そして韋提希が生きていなければ浄土の教えが説かれることがなかったのだから、この差別用語の存在こそが『観無量寿経』成立の要であるというめちゃくちゃな論理である。

 私からすると、韋提希が生き残るのかそうでないのかはこの経典の要ではない。韋提希が殺されずに済んだ経緯はどうであれ、息子に夫を殺され、自分自身も殺されかけたが生き残ってしまった韋提希が仏に救いを求め、そして救われたというのが『観無量寿経』という経典の要であって、韋提希が殺されなかったということは物語の本質では全くない。

 「経緯はどうであれ結果的に生き残ってしまった韋提希」の存在が重要なのであって、韋提希殺害を思いとどまらせた言葉がどのようなものであったかはさして問題ではないし、それが差別用語である必然性は全くない。しかもこれは事実をもとにしてはいるものの、ひとつの文学、物語なのだから、この言葉に執着する意味がよくわからない。

 そうであるならば、この殺害を思いとどまらせた言葉そのものを儀式から排除することは『観無量寿経』が説く教えを損なうものではない。少なくとも、この差別用語が『観無量寿経』の成立条件のひとつなどという暴論は述べるべきではない。なぜこのような暴論が『真宗』に載ってしまうのか。同和問題解放推進本部は何も思わないのだろうか。

「階級降下」という虚構

 当該記事ではさらによくわからない言説が弄されている。

ごく最近の議論の中で「是旃陀羅」という言葉について、阿闍世の行為の悪逆性を示すのではなく、階級降下というヴァルナ体制の中の概念で考えるべきであるという指摘をいただいた。筆者も『現代の聖典』第三版の訳「それはチャンダーラのすることです」にあるように阿闍世の行為の悪逆性について述べたものだと考えていた。しかし、指摘のように「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という階級降下の言葉と考えれば、「不宜住此」という月光・耆婆のことばも、「是旃陀羅になるのだから、あなた(阿闍世)はここにいてはいけませんと訳すことで論理的に理解しやすくなる。

 竹橋太氏はこのように、「是旃陀羅」は旃陀羅の悪逆性(是旃陀羅階級のものはこういう悪いことをするというような性質)を示すものではなく、「階級が落とされますよ」という階級降下を示唆する言葉であると述べている。したがって、差別ではないのだといいたいのだろう。

 しかし、これはただの詭弁である。身分制度は原則的に行為による階級の移行を認めないはずだからだ。そうであるならば阿闍世への階級降下の示唆はほぼ無意味で、彼への説得の効果を持たない。したがって「是旃陀羅は階級降下を指し示す」という解釈はやや無理がある。身分制度には階級や地位が「汚れる」という考え方はあっても「降下」はありえない。

 もしかすると、釈尊の「人は生まれによってバラモンになるのではなく、行いによってバラモンになる」という、生まれによる身分制度の否定の思想に基づいて階級降下を示唆することは十分に可能であると反論する者がいるかもしれない。しかし、その場合「是旃陀羅」よりも前に出てくる「汚刹利種」は阿闍世が生まれによって貴族階級であることを前提とした記述であるため、その後の「旃陀羅」が仏教思想的に生まれによるものではなく行為の結果として差し示されていると考えることはできない。

 さらにいえば「是旃陀羅」が階級降下を示すことばであったとしても、それは「母殺しをするようなものが位置するべき階級が旃陀羅である」と主張しているわけであって、阿闍世の行為の暴力性や是旃陀羅への侮蔑性を十分に含んでいる。「階級降下」などというよくわからない詭弁を弄して、この文言の差別性を薄めることなどあってはならない。

 さらに当該記事では「それはチャンダーラのすることです」という翻訳が差別を再生産する恐れがあるため、竹橋氏のいうような「是旃陀羅=階級降下」説をもとに「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という意訳が推奨されている。しかし、珍説に基づいたこのような無茶苦茶な訳を無理につけるのではなく、「それはチャンダーラのすることです」と訳した上で丁寧な脚注を差し込むことによって差別の再生産は抑止されるだろう。むしろその方が差別意識の自覚につながり、学習の機縁となる。

どれだけ解釈を並べ立てても差別用語の使用した時点でそれは差別であるという原則を忘れてはならない

 差別用語を使用する者は弁解のためにさまざまな言説を弄する。「差別するつもりはない」「〜というのが自分の意図であって、他の人に差別だと誤解されてしまった」、国会でよく聞く弁明である。これと同様の弁明を『真宗』に掲載する大谷派は全く差別問題についての見識が深まっていない。

 どれだけ正当化しようと、差別用語を使用した時点でそれは差別なのであるということを自覚しなければならない。言葉自体がすでに差別の歴史を背負い、意味は言葉のなかに沈殿しているのだ。沈殿した意味は使用されるたびに舞い上がり、拡散されていく。使用者がどのような意図で使ったのかということは全く問題ではない。差別の歴史が刻まれた言葉を口にした時点で、意味は他者に伝わり、ひとの心を切り裂くのだ。だから差別用語放送禁止用語というものに注意しなければならないのだ。誤ってそれらが使用された場合、その使用者は差別の自覚を持たない差別者でしかない。その行為が差別的かどうかの基準は主体の意図とは別のところにあるのだ。

 部落差別、ハンセン病差別の問題について長年学びながら、なぜいまだに宗門がそれを理解できていないのか、私には本当に理解できない。恥ずかしい限りである。

 本山はひとの文章は細かくチェックして、何度も意味のわからない書き直しをさせるくせに、なぜ今回はこのような文章を掲載してしまったんだろうか。これを問題ないと判断した本山関係者たちの神経を疑ってしまう。全国水平社設立の節目、宗門では立教改宗の節目の年でもあるのになぜこのような無神経な文章を掲載してしまったのだろう。

 現在も、同和問題についての学習会が各地で行われ、各講師たちは詭弁を弄し、大谷派の方針を正当化し続けている。このような状況を許していいのだろうか。「これは差別表現である」という前提からまず初めて議論するべきであり、それができていないからこの宗門はだめなのだ。しかもその状況を「学び続ける姿勢」などという嘘で正当化し続けている。どう考えても許し難い。

 さて、本ブログを参考になさっている方は是非各学習会で講師に疑問を投げかけ、大いに議論していただけると有り難い。この問題について肯定的な解説をする講師、「学び続けることが大事」というわけのわからない言い訳をし続ける講師、「是旃陀羅」が特異な問題であり他の差別と比較することができないと言って言い逃れする講師、彼らは全員本山の御用学者たちである。なかには「不読にすることで安易に解決をはかってはならない」という講師もいるが、私から言わせれば不読を決めた上でさらに何ができるのかを考えるべきである。詭弁を用いて結局はなにもせず、内向きの学習会を行うだけの状況を良しとしている意味がわからない。

自力考(中島岳志『思いがけず利他』感想)

 気がつけばブログを一年間も放置していた。とりわけ忙しかったわけではないが相対的にいのち主義や日和見の差別発言などが大きく減り、機関紙もなんとなく思想的なことよりかは歴史的な記述が多くなったように感じ、特にネタにするようなものがなかったというのが原因である。

 最近大谷派でよくみかける中島岳志氏の『思いがけず利他』という本を読んだ。今現在利他について研究しているようで、この著書の中にはさまざまな角度からみた利他が論じられていた。そのなかに親鸞の思想も組み込まれていたのだが、少し疑問に思った箇所があったためここで記事にしておきたいと思う。

他力は自力の延長線上にあるのか

 中島岳志は『思いがけず利他』の最後の方で以下のように述べている。

 「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。大切なのは、自力の限りを尽くすこと。自分で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そうして、自己の絶対的な無力に出会います。

 重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。  

 つまり、他力は自力を尽くさないと出会えない次元だそうだ。ゴロゴロしている人間には出会う資格もないし、他力に出会えるのは自力を尽くした人間に限られるらしい。私はそうは思わないが、多くの“善人”たちはどこか「他力に甘えるな」と言いたげに見えてしまう。

 問題を整理して考えたい。思考を区切って考察していく。

自力とはいわゆる一般的な努力なのか

 わたしが違和感を覚え、議論の積み重ねの障害と考えていることのひとつに「自力イコール一般的な努力」という等式がある。議論の整理のために、ここで一旦「自力」についての親鸞のことばをひとつみてみることにする。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息より)

 親鸞は手紙にこのように残している。自分の身をたのみ、自分のはからいの心で浄土へ往生しようとすることを自力と言う。そして、そこにはさまざまな善根、善いとされる行いが含まれる。その中には一般的にイメージされるような修行も含まれると同時に、親を養ったり年長者を敬う、知識を深めるといった道徳的・世俗的な行いも含まれる。

 そう考えるならば、自力には私たちが通常行うような「努力」が含まれると考えて差し支えなさそうだ。私の違和感はひとつ解消された。しかし、一般的な努力が含まれる三福のような善行を自力と呼んだ場合、中島がいうように「自力を尽くさなければ他力に出会うことはできない」というような言い方は親鸞の思想に沿うものたり得るのだろうか。

 というのも親鸞は悪人が往生できる教えを説くからである。道徳的な行為である諸々の善行が自力だとして、それを尽くさなければ他力に出会えないなどという考え方は親鸞には存在しない。もしそうであるならば親鸞の教えは、ありとあらゆる善い行為を尽くした後で他力に救われる、という極めて道徳的で浅い「善人」の思想になってしまうのではないだろうか。親鸞の教えは悪人が他力に出会える教えであって、極論をいえば悪人を善人にする教えではない。

 三願転入はじゃあどうなるんだ、という疑問を持つ人がいるだろう。それはこの続きを読んでから考えてほしい。 

近代の実存主義から逃れることができていない大谷派

 社会やひとのせいにせず努力しろ、という主張を努力主義とでも呼んでおこう。最近は「どんな状況にも負けず社会のせいにせず頑張れ」と叫ぶ努力主義への批判と「でも頑張るのはいいこと」という二つの立場が共存しているように見える。なぜそう見えるのかというと、努力主義に対する批判は社会的構造を整備しようとする方向に目線が向いており、また後者の方は、与えられた環境・社会構造を生かして頑張りましょうという姿勢なのだから、両者は人間の努力は構造に支配されているという点で思想的に一致している。

 それを前提とした場合、中島が言う「自力を尽くす」「頑張れるだけ頑張る」という主張も別段おかしい話ではないように思われる。しかし、努力というものは構造によって左右されるという話であるなら、努力の先にしか他力が存在しないという主張は極めて残酷だ。人間存在が構造から全く自由な実存であるならば話は別だが、現実はそうではない。

 自力の努力は用意された環境、構造というものに激しく左右される。親鸞は「その構造の中で頑張れ、自力を尽くせ」とは言わない。ただ「努力だの親孝行だの勉強だの金だの、そういうことで人間を評価して比べて競わせて狂わせる、そのくだらない構造とは関係なく他力が往生へと導く」と言うだろう。それは構造の中の弱者を救う思想だ。

自力=努力という図式を壊す

 自力の行は社会構造に大きく左右される。これは私の主張ではない。仏教の歴史観から考えればこの考え方は当然である。東南アジアの僧侶に憧れて日本の僧侶がいますぐ街中で托鉢だけで食料を賄おうとしてもそれは無理だ、なぜなら社会が托鉢に慣れていないからである。

 そうであるならば、もはや「自力」は個人の頑張りや努力云々ではなく「自力を行う領域」である「社会」を問題にするキーワードであり、親鸞はそれを「万行諸善の仮門」(化身土巻)と呼ぶだろう。

 何が言いたいかと言うと「努力を尽くした限界の先に存在する他力」という話ではなく、「善行や自力を可能にしたり、または悪行を生み出したりしてしまうような社会やそれが形成する倫理観の外に存在する他力」という話ではないかと私は思う。

 社会の価値観、道徳、倫理、そういったもののなかで存在している時点で私たちは「万行諸善の仮門」に入っているし、「自力の人」なのだ。そのなかで排除されていても「排除されている」という形式で存在している。ゴロゴロしているような人も、中島岳志のような大学教員から見れば大した努力もしてないように見える人も「自力」の価値観のなかで右往左往して生きているのだ。「自力を尽くしていない人」なんていうのは最初から存在しない。「自力」というものを軸にして生きざるを得ない社会構造のなかにすでに皆んな投げ入れられているのだ。だから、その構造に左右されない救いの力が仏の救済力、願力、他力なのではないかと私は思う。自力の外に他力が存在する、というのはこのような意味で理解するべきなのではないだろうか。

思想と大谷派

 フランクルについての記事でも言及したが、大谷派実存主義的な思想が大好きだ。どんな構造のなかでも努力して信仰していく!という姿勢である。安易に他力に甘えず、自力を尽くして己の愚かさを自覚した先にのみ他力との出会いがあると意気込む。

 戦後に輸入された実存主義的な考え方を「先生の教え」として伝承し続け、しかもそれらは「実存主義」ではなく「先生方のありがたい教え」となった。学問的なラベリングを失い、自分の思想がどこから来たものなのかも、どう言う批判があるものなのかも自覚せず「〜先生の教え」といってずっと受け継がれている。だから議論が進まないし、批判も起こらない。

 そしてそれが親鸞の思想とは全く異なる方向に向かっているというのがなにより問題である。自力諸善を尽くした先にしか他力はない?それなら自力をつくせる善人にしか、倫理的な振る舞いができる善人にしか結局は他力が開かれてこないことになる。

 しかもその「善人たち」もどうせ大して自力を尽くしているわけでもなかろう。「自力」を尽くした立派な人間が大谷派の中のどこに存在するというのだろうか。私は全く見たことがない。中島岳志も、もしご自分を「自力を尽くした人」だと思っているのだとしたらそれは傲慢だ。もしご自分の主張に沿うならば、もっと自力を尽くして自ら親鸞の思想を読み込んでから言及するべきだ。

自己と他者の共通点

 今回は機関紙『真宗』9月号の「求生」というコラムに掲載されていた難波教行氏の「共通点」という文章と2017年の『ともしび』に掲載されていた松林至氏の「セカイ系という風潮のなかで」という文章を批評する。

 難波教行氏は、事象の「共通点」を見つけることは個別的な苦悩などを捨象してしまうのではないか、共通点を論じることに留まってはいけない、ということを主張している。私はこれに対して大いに賛成の立場である。

 しかし、氏の文章では結局は抽象化された「共通点」だけでは見ることができない人の苦悩を見るべきだ、という点が強調されており、抽象化が果たす役割が見過ごされすぎなのではないかと感じた。

 確かに、いのちや人権などの言葉は上滑りして個々人の現実的な苦悩とは乖離することがある。「基本的人権の尊重」という言葉がまさにそうである。

 しかしなぜ私が、この文章に違和感を覚えるのかと言うと、この宗門は「差別問題」を考えるときには常に個別的なものばかり扱っているように思うからである。抽象化を悪ととらえ、それを疎外するあまり部落差別やハンセン病差別を「個別的」に扱うことに止まり、自らの組織が抱える女性差別パワーハラスメントなど様々に存在する他の差別に目を向けることができてないのではないかと思うからである。

 研修会には、部落差別やハンセン病差別を「特別な差別」「いわれのない差別」と強調し、他の差別と比較することは許されないと主張する研修スタッフが現れるが、「そもそもいわれのある差別なんか存在するのか?」といつも感じる。そのように差別に程度を設けること自体差別なのではないか。「たいした差別ではない」という姿勢が結局は差別全般を助長してきたのだ。

 私の考えを先んじて述べておくと、抽象化すること(共通点を見いだすこと)や個別的なもの、具体的な他者といったもの、これら全てを私たちの思考の中で相互に連関させることが重要であり、個別的なものを最終的に深く理解するためには抽象化を絶対に省いてはならない、ということである。

 以下では、二つの文章を批評する形で私たちがどのようにして個人の苦悩を理解するべきなのかを少し書いておきたい。

「共通点」を見出すこと

 難波教行氏はこのように述べる。

 先日、ある研修会に参加した。相模原障害者施設殺傷事件と京都ALS患者嘱託殺人事件をテーマとしたものだった。ところが、招聘された講師––––介助者として長年働いてこられたその方は、二つの事件について述べるよりも、障害のある人と関わる日常を語ることに多くの時間を費やされた。

 講演後、会場から質問があった。「二つの事件に共通する点はなんでしょうか」と。すると講師の先生は、しばらくの沈黙の後、次のように応えられた。

「事件の共通点を探すよりも、個別の状況を大切にしたいと感じています。」

こうも言われた。

「言葉によってとらわれないことが大切ではないでしょうか。実態と合わない言葉を使うことよりも、私たち自身がそれぞれを状況を経験し、どう感じるかが重要だと思います。」 

 ある研修会でのやりとりだそうだ。そして、このやり取りを通じた考えを難波氏は以下のように述べる。

講師の応答によって私が問われたのは、事件の“共通点”を論じることで、そこにある苦悩までわかったつもりになってはいなかっただろうか、ということだった。もちろん、共通点を考えることがいけないわけではない。大切な意味はきっとある。しかし、共通点の分析にとどまるならば、個別の人生を生きる一人ひとりを分類し、目の前にいる人を「人」としてみないことになりかねない。 

 だそうだ。確かに相模原事件に関しては、被害者一人一人が名前を持っている個的な存在で、その苦しみや悲しみを知ることが重要だということを事件後よく耳にした。だから、難波氏は共通点を探ることの大切さを知りながらも、それが一人一人の存在を蔑ろにするものであるから気をつけるべきだと述べている。

 しかし、私は「共通点を探ること」なしに個別的な存在を理解することができるのだろうかと感じる。この研修会のあり方を肯定すれば、実際に障害者の苦悩に直接的に寄り添うことだけが正解で、この事件から他の事件との類似性を見出すことは個別的状況を蔑ろにしてしまうからやめたほうがいいということになってしまわないだろうか。

 少なくとも、このような文章が出てしまうと、各研修会では共通点を探すこと自体がナンセンスなものとして位置付けられ、そのような分析的な視座が抜け落ちてしまう。何かを質問すれば「それはよくない」と言われて終わるだけだ。

 ではその「共通点を探ること」なしに、私たちは直接的に個別的な事象を理解したり、直接的に具体的な他者を理解することができるのだろうかというのが私の問いである。また、個別的な苦しみにのみ眼差しを向けることは、却って個別的な苦しみに触れることの妨げにはなりはしないだろうか。

抽象と具体/個別と構造

 差別に関する問題に取り組むとき、私たちは「共通点を探る」というある種の抽象化をやめるべきだろうか。あるひとつの差別問題、「〜という所に住んでいる〜さんが〜ということにとても苦しんでいる」という事例に接した時その人の苦しみに寄り添うことは重要だけれども、そこからその事象を分析したり、他の差別との類似点などがなければ「可哀想な一人の人がそこにいる」という事実しか認識できない。

 しかし、その事実を抽象化することで他の問題との類似点や構造上の類似などがわかり、「この差別の問題は私たちが所属する組織にも存在している」「私自身の思考にそれと類似するものがないか」「実際に障害者を差別したという経験はないが、もし自分の周りにいたら差別が生じてしまうだろうという“潜在的な差別”の構造がここにある」など、いろいろなことがわかるようになる。

 そもそも、差別とは個人的な暴力に限らず、構造的な暴力の問題でもある。相模原障害者施設殺傷事件とは植松聖という殺人犯が最初から存在しなかったら済んだ話なのかといえば全くそういうことではない。彼のような思想を持つに至らせるような社会的な構造が存在しているのが問題なのではないだろうか。個人的な苦悩は、抽象化の作業で浮かび上がるような「構造」を原因としている場合もあるのだ。

 この構造を浮かび上がらせるためには、比較や分類などの分析作業が必要となる。ユダヤ人の他に障害者や同性愛者を大量に殺害したホロコーストや、または他の障害者差別の事例、障害者強制不妊手術の問題などいろいろな事例などとあわせて思考することで、何が問題なのかを浮かび上がらせることができるのだ。

 具体的なものにより接近していくためには、抽象化されたものとの往還運動が絶対的に必要となる。極端に抽象化させて全ての事象を「同じ」と言ってしまうのではなく、抽象と具体を行き来することで「類似した構造が存在する」ということは別に具体性や個別性を損なうものではない。「同じ」ではなく「類似」なのである。

 共通点を探ること、にネガティブなイメージを植え付けてしまうと、人々はさらに分析的な視座を捨て、「直接当事者と話すことで生まれる共感」といった安易な経験主義に陥ってしまう。そもそも植松聖自身が障害者施設で直接的に当事者に接していたにも関わらず起こってしまったという一面を持つこの事件自身が、それぞれの個人の経験や感覚に頼るだけに任せていても障害者に対する差別はなくなることはないということを証明しているのではないのか。

 私たちは抽象化を捨てたところで、ではそれで直接的に他者を正しく理解できるのかといえば、そうではない。

「わかる」とは何か

 続いて、松林至氏の文章を見てみよう。

 私は仏法を「抽象的な話」として聞き、それでいて「きわめて身近な問題」とペタッとくっつけていないか。「十方衆生」と「この私」があまりにも簡単にくっつけば、その間の具体的な他者はごっそり抜け落ちていく。時代の風潮はそういった私の聞き方の問題を教えている。「身近な問題」しかわからないのではない。あらゆることが、「私」を問い返してくるような他者が存在しないところで「わかってしまう」という問題を思う。親鸞聖人は

 

   「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり(『尊号真像銘文』聖典五二一頁) 

 

 とおっしゃった。他者のことをわかりきった一人称で語るのでもなく、まったく切り離したものにもしない「われら」という在り方はどういうものなのか。 仏法は他者不在のセカイ系ではない。それは、聞いた仏法を使って他者と関わるからではない。「私」を立場にする限りどこまでいっても他者とつながれないという気づきが聞法によって与えられる、からだと思う。いつでも「私」というところで「わかって」いく在り方を知らさんとする如来の呼びかけを聞く。共に「十方衆生よ」と呼びかけられた者として、他者との世界が開かれてくるのが聞法であると私は教えていただいている

 

 ここでは、抽象化された話が安易に身近な問題に結び付けられることで、簡単に他者を理解したつもりになってしまう事態が危惧されている。これも「わかった気になってはいけない」という戒めの文章だ。

 “「聞いた仏法を使って他者と関わるのではなく」「他者とつながることができない」という気づきを得るのが聞法だ”という主張はよくわからない。他者の他者性を認識するために仏法があるのだろうか。それは具体的にどのような仏法だろうか。

 例えば、阿闍世が救われた話を聞くとする。阿闍世が父親を殺し、母を虐げ、それを悔やみ、のちに救われたと言う話を聞いて「阿闍世の苦しみをいったいどうやって理解したらいいのか、阿闍世という他者の苦悩はなかなか知り得ない」という解釈が正しいのだろうか。私はそうは思わない。阿闍世の中に自己を見出し、阿闍世の救いの中に自己の救いを見出さなければこの経典の存在理由は消滅してしまう。

 安易に人種や民族、出身や階層、性別や年齢で人を判断し、あれこれ思考することは差別へと繋がる。しかし、具体的な内容は異なるにしても「苦」というものを共有することはできるし、そして共通の苦があるからこそ救いも共有することもできるのではないのだろうか。場合によれば分かち合うこと自体が救いとなることもある。

 他者を100%理解することなどできないし、そうすることも必要ない。ただ私たちは他者を「わかる」のではなく、他者と共有することが求められているのではないだろうか。それは内容の相互了解ではなく、ただ誰かが自分の経験を「語る」という行為によって生じる場合もあれば、相互的なコミュニケーションによって生じる場合もあるし、沈黙のなかで生まれる場合もあるのだ。また、直接的な交流ではなくてもなんらかの媒体を通してそれをすることもできる。

 わたしたちは「わかる」ことを基準に他者と関わることを目指さなくてもいいのだ。

 仏法に触れて、他者と苦しみを分かち合うことを阻害するのはやめるべきだ。「自己への問い」の迷いの森に進ませようとする大谷派は、聞法においても「他者をわかった気になるな」と通せんぼしてくる。

抽象化してもいいのでは?

 最初から「わかったような気になるな」といって抽象化を阻んだり、他者や衆生などの言葉を弄するのではなく、「差別はよくない」という前提をしっかりと保持しつついろんな意見を尊重しながら議論し、差別の構造や社会的状況を見抜き、その上で個人の苦しさや大変さを共有できるような研修会であって欲しいのだ。

 抽象化から得られる共通点を通して、わたしたちは差別の構造に触れ、それを元とした苦しみを理解することができるし、また苦しみの共通点を見出すことで他者の苦しみの中に自己の苦しみを見出して苦しみを共有し、また共に救われることもできる。「わからない」ということから始めようとか、簡単にはわからないということから始めるのではなく、「気がついたことがあります」「ここで誰かに聞いてもらえれば共有できるのではないかと思います」ということから始まって、いろいろと思考が交錯していくような場がサンガをつくっていくことが大切なのではないだろうか。

 他者の他者性を論じることは安易に人をまとめ上げていくことにストップをかけるという役割はあるものの、他者の他者性だけを強調するわけではない。一旦思考を全体主義から解体した後、他者たちが別の何かを共有するかたちでつながっていくことを目指すものではないかと私は感じる。これはとても仏教に通ずるものがあると感じるのは私だけだろうか。

しかし差別の問題や人権の問題は“苦しみ”の理解を軸とするべきだろうか

 わたしは苦しみの「共有」と言ったが、これもまた違うのかもしれない。差別の問題に関して常々思うのが、当事者への感情移入は必要なのだろうか。人は理解・同情や共感の範疇を超えたものを排除する。私たちに必要なのは、自分が共感できないような人や心のうちを知り得ない人、属性が全く異なる人にも人権があることを知り、差別は絶対に許されることではないということを自覚するべきだ。

親鸞と鬼神ー芹沢俊介は宗門に必要だろうかー

 先日は三橋尚信氏のとんでもない誤読について指摘し、思いの外すぐに反応があったので驚きました。まさか当ブログの指摘により真宗会館の動画が編集されるとは思いませんでした。つまり、私が思っている以上にこの批評ブログは影響力を持っているということですね。

(件の過去記事はこちら↓)
  今回は真宗大谷派難波別院が発行している新聞「南御堂」の2021年5月号の評論家芹沢俊介が書いた記事について批評します。

 私たちが所属する大谷派、残念なことに仏教を専門に学んでない社会学者や思想家、有名人やお医者さんが大好きで、僧侶の話よりも彼らから話を聞きたがるのです。臨床現場にいる僧侶を蔑ろにするどころか、学問さえも捨て去ろうとする態度に恐怖すら覚えます。

 まあ、それはそれでいい面もあるかもしれませんが、専門外の彼らによる親鸞思想の表面的な解釈が批判されることなく各メディアによって垂れ流されているのは大変危険です。吉本隆明と名前が並ぶことが多い芹沢ですが、親鸞に対する理解度は天と地ほどの差があります。

 今回取り上げる芹沢俊介親鸞解釈はかなり“個性的”でした。

親鸞の『論語』から引用についての芹沢の間違った解釈

 芹沢は『教行信証』化身土巻の最後にある『論語』からの引用文に注目して以下のように述べています。

 親鸞は、念仏者としての原則論を述べている。礼拝し、仕える対象は弥陀一人、その他国王であろうと、父母であろうと帰依の対象ではない。むろん、鬼神も、である。ーーだが、こうした原則論だけでは、事態の収拾は困難となっていた。

 有効な手立てを見つけ出せないまま、最後にたどり着いたのが、『論語』に現れている、孔子のとった態度、鬼神の退け方であった。

 「季路問わく、『鬼神に事えんか』と、子の曰く、『事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや』」

 と。これが化身土の巻本文の結びの言葉となっているのである。

 親鸞の『論語』の引用は、かなり省略があるので、その全体を正確に書き抜いてみる

 「季路鬼神に事えむことを問う、子曰く、未だ人に事うる能わず、焉ぞ能く鬼に事えむ。曰く、敢て死を問う、曰く未だ生を知らず、焉ぞ死を知らむ。」(先進第十一)

 (私訳:弟子の季路が師に訊ねた。どのようにすれば鬼神にお仕えすることができるのでしょう。孔子は答えた。お前も知るように、私を用いようとした国は未だない。だから王への仕え方をよく知らないのだ、そんな私にどうして王を超越している鬼神への仕え方を問うのか。では、もう一つ、と季路は重ねて訊ねた。先生、死とは何でしょうか。孔子は答えた。私は生のことさえまだよくわからないでいるのだよ。そんな私がどうして死について語れようか)。

 これが孔子の鬼神の遠ざけ方であった。すなわち「敬して、これを遠ざけた」のである。何度読んでも、見事だなあ、と感嘆してしまう。おそらく『論語』に親しんでいた親鸞は、この孔子の態度を好ましく思っていたに違いない。どんなに即効性、直接性に欠けていようと、これ以上の適切な遠ざけ方はないであろうと思っていたに違いない。

 これが芹沢の主張です。

 芹沢の主張によると親鸞は『論語』を省略しながら引用していて、その『論語』に記されている孔子の鬼神に対する態度を好ましく思っていたということになりますが残念ながらこれらの解釈全てが間違いなので訂正しておきます。

親鸞は『論語』を“省略”して引用しているわけではない

 『教行信証』を読み進めていくと、読み解くセンス、作法というものがだんだんと培われていきます。芹沢はしっかりと精読できていたのでしょうか。

 『教行信証』をしっかりと精読したことがあるものなら誰でも、親鸞の読み替えに鼻が効くようになってきます。例えば「須」を「もちいる」と読んでいる場合は「ここは絶対“須らく”を“須いる”に読み替えているな」とかそういうことに気がつくようになります。

 しかし、芹沢は『論語』とは異なる親鸞の引用を見て、それを「読替え」ではなく「省略」と理解しているようです。これは明らかな無知です。聖教を読み慣れていない人間の所業でしょう。またパターン云々以前に『教行信証』の文脈を考えれば親鸞の引用は明らかに「省略」ではないことがわかるのです。

 孔子の『論語』にはこう書いてあります。

季路、鬼神に事えんことを問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。

 漢文ではこうです。

季路問事鬼神 子曰能事 焉能事鬼

 先に記した芹沢俊介の私訳という名の謎解釈は傍におくとして…この文では、まず季路という孔子の弟子が孔子に対して「鬼神に仕える方法」を聞いています。そして孔子は問いに対して「まだ日常生活の中で最も親しい人にさえ誠心をもって仕えることが十分にできていないのに、どうして鬼神に仕える資格があるだろうか」と述べ、まずは現実世界の人間に仕えることが大事であって、さらにその先にあるのが鬼神なのだということを示しているのです。

 それに対し、親鸞は…

季路問事鬼神 子曰能事 焉能事鬼神

  と明らかに「省略」ではなく「読替え」を行なっています。「未」が「不」に代わり、「人」の位置が変わっています(「鬼」と「鬼神」の差異はないと思われます)。これはなぜでしょうか。これによって親鸞は何をしめしているのでしょうか?

親鸞は厳格に人と鬼神の紐帯を切断している

 ご存知のように『教行信証』化身土巻には、さんざん鬼神を奉るような外道の宗教についての言及・批判が並べ立てられています。そしてその大団円に、「儒教」の言葉を引用することで締めくくりを行なっているのです。したがって『論語』からの引用文の読解の鍵となるのは化身土巻全体の俯瞰なのです。それに対し芹沢の読みは化身土巻の文脈を全く無視した読解であると言えます。

 『論語』が、人にさえ十分に仕えたものが鬼神に仕えるようなことができる筈がない、と述べることで、鬼神への奉仕の保留と人に仕えることの道徳を説く一方で、

 親鸞は「仕えることはできない(不能事)」「人がどうして鬼神に仕えることができるだろうか(人焉能事鬼神)」と述べることで、鬼神と人間の関係を完全に切り離しているのです。(文脈から考えて「鬼神に仕えるな」と解釈する方が正しいかもしれません)

 芹沢は親鸞が「孔子の鬼神への態度を好ましく思っていた」などという馬鹿馬鹿しいことを言っていますが、全くの逆です。こんな発言は、紙面を割いて即刻撤回すべきです。

 そもそも芹沢の「親鸞は鬼神を敬して、遠ざけた」などという主張は鬼神の肯定に繋がりますし、こんな危険な思想は即刻宗門内から排除していただきたい。こんな思想がまかり通るならなんでもOKになってしまうのでは??

 この『論語』にまつわる解釈は、教学上でも周知のことです。山部・赤沼大先生も示しているのですから、古典的な解釈であるとも言えるでしょう。しっかりと教学を学んだものなら誰でも知っていることだと思います。それなのに、こんな素人の珍妙な解釈を新聞に掲載するという行為は『教行信証』と、それを必死で読み解いてきた人たちへの冒涜です。この宗門にはもっと、深い知識を大切にしていただきたいものです。難波別院にはこれに対して不思議に思った人がいなかったということでしょうか?

 昔は特定の人しか読むことのできなかった『教行信証』…読者の制限はこんな誤読を危惧してのことだったのだなあとしみじみ思ってしまいます。今や誰でも読むことができる書物となってしまいましたが、その弊害の最たるものが今回の解釈ですね。連載だそうですので、続きが楽しみです。

 私たち僧侶自身が、自らの手で学問を捨て去り、親鸞の意図からどんどん離れていく、それはとても恐ろしいことだと思います。

 鬼神と人間の関係を考えて、「鬼神は人間の心、自分自身だ」とか「鬼神にすがらざるをえない愚かな我々」とかというような解釈をする方もいますが…場合によってはそう認めることができることもありますが、『教行信証』化身土巻の趣旨は「何が仏教で何が仏教ではないか」を明らかにすることであって、人間の朧げな実存的信仰の内容を記述することではありません。したがって、そのような両義的な解釈は正当ではありません。

 親鸞は厳密に「仏教は鬼神につかえない」という線引きをし、曖昧になっていた「仏教」の定式化を図っているのです。そして果たして私たちは仏教徒なのかどうか、宗派をあげて自らに問いかけなければいけません。立教開宗の法要も開かれることですから、親鸞が立てた「仏教」を完全に理解する必要があるんですが、そもそものスローガンからし大谷派は「非仏教」となってしまっているような気が。

大谷派と『夜と霧』〜歴史的悲劇は「自己啓発」に変わってしまった

 私は長年、フランクルの『夜と霧』に言及する僧侶の話に違和感を抱いてきた。

先日新聞の記事でこのような文章を目にした。「近日驚いたが、今日の意識の高いビジネスマン向けの書き手には、名高いフランクルの『夜と霧』ですら、ナチス絶滅収容所を生き延びた著者の『“強さ”に学ぶ自己啓発本』として扱われるらしい」。歴史学者の與那覇潤という方の文章だが、ここには歴史に刻まされた悲劇すら自己啓発に変えてしまう現代人に対する皮肉が込められている。

 この視点が、大谷派においてフランクルを持ち出すことは果たして正しいことなのだろうかという、忘れかけていたかつての私の疑問を呼び覚ましてくれた。だから、今度はしっかりとこの違和感を言語化し問題の輪郭を描いておきたい。思いつきで綴った乱文だが、興味があれば読んでいただきたい。

 大半の僧侶からすると「何を言っているの?」という感想しかないかもしれないが、わかる人がわかってくれたらそれでいい。この文章は「問われている者」にしか通じない文章なのだから。

態度価値、意志の自由…?

 『夜と霧』はナチス強制収容所を生き延びたユダヤ精神科医ヴィクトール・フランクルによって書かれた名著で、『アンネの日記』と並んで、ナチス政権下のユダヤ人迫害を知る上では欠かせない書物でもある。またそれ以上に、現代では先述したような“生存”のための「自己啓発本」のようなものとしても注目を集め続けているらしい。

 フランクルは、人間が「意志の自由」「意味への意志」「人生の意味」を有するという人間観のもとで、患者において無意味と化してしまった事物や行為を意味の世界へと再編成させることで精神疾患を治療するという「ロゴセラピー」を提唱している。

 彼は、意味を見出すことができる価値のあるものを三つのカテゴリーに分類している。「創造価値」(職業や趣味等での活動に含まれる価値)、「体験価値」(自然や芸術の鑑賞に含まれる価値)、「態度価値」(その都度の状況に向かって何らかの態度をとること、またその勇気に含まれる価値)である。

 大谷派ではとりわけ「態度価値」というものが取り上げられる。絶望的な状況であっても「意志の自由」が保証されているわけであるからその状況に「どのように向き合うか」ということは選択可能であり、そのことには重要な意味がある…と、しばしば僧侶たちは声高らかに発信している。また「意味」というものは自分自身が主体的に探し出すものではなく、「人生」そのものが自分自身に対して期待するものであるという趣旨のフランクルの思想も、大谷派おきまりの「自我が破られる」、「“わたし”中心ではない」といったフレーズとミックスして多用されている。

 さて、かなり乱暴ではあるがさらっとフランクルの思想に触れてみた。では、以上の要約から導き出される問題点とは何だろうか。

意志の自由は存在しない

 さて、フランクルが原則として掲げる「意志の自由」は果たして仏教的には正しいといえるだろうか?また、意志の自由を前提として語られる「態度価値」というものは真なるものといえるのだろうか?

 私は「意志の自由」に同意できない。意志が絶対的に自由なものであるなら、意志という実体を認めなければならなくなるが、仏教では実体という概念は認められないからだ。全ては因縁でつながっているのだから、意志がそれらから独立して存在することはありえない。

 ALS患者の安楽死の問題を考えると、このような主張を裏付けることができると私は考えている。安楽死を「意志」するALS患者のその意志というものは、決して自由のなかで生じたものではない。安楽死という選択が行われるのは、この世の中があまりにもALS患者にとっては生き難いもので溢れているからである。病者の生きづらい世の中で、病んだ者は「安楽死の方が良い」という考えを持つに至るのは当然のことだ。

 もし、ALS患者が自らが生きる意味を見出せるような社会の中ならば、安楽死という選択は生まれない可能性が高い。1月の同朋新聞の記事で教学研究所の難波研究員が書いていたように、患者が自己に準拠して意志しているのではなく、社会の方がALS患者の意志を形成しているのである。このように考えると、とても「意志の自由」や「態度価値」といったものは認めることができない。

 もちろん、ただ状況に流されるのではなく仏や神という超越者との強力な縁によって意志が変わる場合もあるが、その場合意志は独立などしていない。また超越者との関係も、そこにたどり着くまでの縁が重ならなければならない。すべては「縁」との関係で変化しているに過ぎない。独立した実体的な意志が決定することに価値をおく、これは仏教的には外道的な幻想ではないのだろうか?

フランクルの言う「人生」

 この宗門の人々は、フランクルユダヤであるという前提をいとも簡単に無視してしまう。なぜかはしらない。無知なのかもしれない。ユダヤ人のユダヤ性、これは決して無視してはならない。真宗門徒真宗性は過剰に強調するのに、ユダヤ人のユダヤ性には注目しないようだ。

 2020年9月10日のアメリカの“Tablet”というマガジンに掲載されていた文章が面白かったので翻訳して引用しておきたい。拙訳で申し訳ない。

www.tabletmag.com

“If there is a meaning in life at all, then there must be a meaning in suffering,” Frankl writes in Man’s Search for Meaning. “Without suffering and death human life cannot be complete.” Frankl sees the agonies we endure as what the Talmud calls yisurin shel ahava, the punishments of love, tests imposed by God to bring us closer to righteousness. And so the human being has what Frankl calls “the chance of achieving something through his own suffering.”

 

「人生に意味があるのなら、苦しみにも意味があるに違いない」、フランクルは『夜と霧』に書いている。「苦難と死がなければ、人生は完結することができない」。私たちが耐える苦しみを、タルムードが言うところの「イシュリン・シェル・アハバー」という愛の罰、私たちが正義に近づくために神によって与えられた試練だ、とフランクルは理解している。だから、人間は「自身の苦難を通して何かを得る機会」とフランクルが呼ぶものを有するのである。

 フランクルは人生における苦難を「神からの罰」と解釈することで、そこに意味を見出そうとしている。つまり彼の思想において、意味の付与には絶対的に神が関与している。神抜きには語ることができないフランクルの思想を、僧侶たちはそのまま引用し迷走し続けている。

 走り続ければいいと思う。津波地震の被害、過酷な状況にあった人たちを前にして、「人生の意味」を投げかけ偉そうな説教を並べればいいではないか。

全てに意味を持たせることは正しいことなのか

 一神教の世界でも、すべての困難や障害に意味を付与することを躊躇う人ももちろんいる。こどもの死や、伝染病など、人間が被る悲しい出来事を安易に神に結びつけるべきではないのだ。ましてや強制収容は神とは全く関係のない、ただただ愚かな人間の所業である。仏教的に考えるならばなおのことだ。

 だから、人生における出来事にすべて意味を見出す必要などないし、その必要性を提示することは時として暴力でもある。意味のあることもあるが、そうでないこともある。それをしっかりと線引きしておかなければならない。「無駄なことなどないんだ」という安易なフレーズをみんな好きになってしまう誘惑はわかるが、そこは冷静に立ち止まって思想的なことを考えなければならない。なんだか良いことをいっている感じの言葉からわれわれは卒業すべきだ。

フランクルの武勇伝

 フランクルは、人生に絶望した者たちが死んでいったと記した。そして、自分が人生に期待するのではなく人生が自分に何を期待しているのかを問うことが大事だと述べた。生き残れるかどうかの線引きは、この主客の転倒にあるようだが、はたして「生き残る」ことそのものが正しいことなのだろうか。生き残れたからなんだと言うのだろうか。「生き残った者」の有様が全ての真理なのだろうか。私はそうは思わない。

 大乗仏教の趣旨からすれば、わたしたち僧侶は生き残った者の強さに学ぶのではなく、生き残れなかった人たちの心を大切にしなければならない。そして「生き残った者」を手放しに礼賛し英雄化することも馬鹿げている。彼らは彼らで、ただ単に「生き残りました」では済まされないような心境やトラウマを抱えざるを得ないからである。実際に生き残れたか否か、それは当事者にとっては生きるか死ぬかの境目なので大きな問題ではあるが、第三者のわれわれがその線引きにおいて本質的なものを見いだすことができるかどうかはわからないのだ。

 フランクルへの安易な言及は、「どんな過酷な状況でも、考え方を変えれば生きていけるじゃないか」というメッセージの発信にもつながる。個人の意志云々だけで自殺が止められると考えている人がいるのなら、その人はあまりにも無知だ。

 「でもフランクルは生き残ったじゃないか、その生存の事実はこの思想が人に希望を与えたことを証明している」という人もいるかもしれない。しかし、フランクルの生存が果たして彼の思想によるものなのかどうかということを証明するものは何もない。収容所にいた日数、収容所それぞれの違い、本人の置かれた境遇、性格、身体的要素など、すべて関係しているはずだ。ましてやフランクルアウシュヴィッツという最悪の収容所にいたのはわずか2、3日ほどだという話もある。

“自分中心で物事を見ていた”の連発にそろそろ飽きた

 同朋新聞読んでもちょっとした法話を聞いても、全部「自分中心で物事を見ていた…」「自分が問うのではなく自分が問われる」「自我から解放…」というフレーズばかりで飽きてしまった。この状況がもう何十年も続いている。戦時中はみんな個体という自己を奪われ、全体主義の中に吸収されてしまい“自分中心”のあり方を奪われてしまったというのに。自己中心的なあり方を云々、こればかり連発されてしまうとさすがに恐怖を感じてくる。

 自己中心だとかいうけれど、もはや現代では国家や資本の流れによって生み出された思考や欲望が問題となっている。問題とすべきは、自己に準拠していない欲望に振り回され、傷ついている人間主体の方なのに、大谷派はいまの時代でも延々と「自己中心」「自我の殻をやぶる」だの、鬼の首を取ったようにして偉そうに宣っている。自己中心的ではない欲望に振り回されていることこそ、われわれが問わなければならない問題なのではないだろうか。

 大谷派の思想的なトレンドはずっと20世紀のままだ。何よりフランクルをずっと引用し続けること自体が時代遅れだ。

 むしろ今時は「自分を大切にするとはどういうことか」ということを伝えた方が人々は耳を傾けてくるのではないのだろうか、と私は思ったりもする。資本主義社会が作った欲望に振り回されずに、自分を大切にするとはどういうことか、そういうことを考えるべきではないのか。もちろん誰かのいうような「良いところも悪いところもあなた自身、自分を丸ごと愛せないものが他人を愛することはできない」などというお説教とは違ったアプローチで、である。

何から何まで最悪な真宗会館の動画(その後の対応)

 再度、この動画について記事を書いてみたいと思います

https://www.youtube.com/watch?v=fZzRQOhG8uM&feature=emb_err_woyt

 この動画、前回はブログに貼り付けできるようになっているのに、現在では「他のウェブサイトでの再生は動画の所有者によって無効にされています」と表示されてしまい、youtubeでしか再生できなくなっています。真宗会館は動画をブログで批判されないようにするための小細工を仕込むようになりました。なんと小賢しい…。

 前回の記事では、三橋尚伸という方が「そくばくの業」を「束縛の業」と勘違いしていることについて指摘しました。

 そして、その後しばらくの間この真宗会館の動画が閲覧不可能だったのですが、つい先日から再生できるようになりました。なにか不自然だな〜と思って再度視聴してみると、「束縛の業」について語っている箇所が丸ごと切り取られているのです。

 ホワイトボードには28分ごろまでは書かれていなかった「束縛の業」という字が、29分頃に急にポンと現れているのです。歎異抄の解説をしている箇所は綺麗に切り取られているんです。

 訂正や謝罪もなしにこのようなことを平気な顔でやっている神経を疑います。責任者は誰なのでしょうか?間違っていたことをしっかりと認め、「不適切な解説があったことをお詫びします」と一言断りをいれるべきではないんでしょうか。

 自らの過ちも認めず、最初からなかったかのように振る舞うとは…本当に真宗の教えを伝える団体のすることなのでしょうか。挙げ句の果てには、冒頭に書いたようにyoutube以外では再生できないような設定にしてしまう小細工を仕込むという体たらく。教化活動を旨とするのであればどんな媒体にも掲載できるようにするのが筋だと私は思うのですが違うのでしょうか?

こんなことでは首都圏の教化活動は任せられません。