What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

変わったコメントを頂いたので、「人に生まれた意味」について考えてみました。

以下の通り、いつもと少し違うコメントを頂きました。

初めまして、いつも興味深く読ませていただいております。
下記は慶讃テーマのリーフレットの文面です。ご意見をお聞かせいただけましたら幸いです。(ちなみにまだ公開されていないものです)「南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味をたずねていこう 人は、この世に生まれて生きて、納得できる人生であることを願う。けれども、本当の生まれた意味やいきがいは、自分がどのようなものとして生きているのかを知ることなく、また、自分の心の闇について考えることなしに得られるものではない。
 人は、躓き壁に突き当たって生まれた意味や生きる意味を考える。だが「人と」生まれたことの意味を考えるであろうか。「人として」生まれたことが、どれほど大切な意味をもっているのかを人間自身から考えることはできないのである。
 人は生活の中で、生きがいを求めて、心を満たすものを外へ外へと追い求める。そのとき、自分に仏さまから願いがかけられていることには気づかない。
 このことは、親鸞聖人が比叡山を下りられたこと、法然上人と出会われたことと、無関係ではない。
 悲しみや苦しみの連続であっても、そのことが人生を決定づけるものではない。仏の本願に出遇うことで、この世に誕生した意味に目覚め、人生をいただくことが始まる。私たち一人ひとりの誕生の意味を、親鸞聖人の御誕生から考えることである。」

 まだ公開されていないらしいリーフレットの文面が送られてきました。送ってきてくださった方が関係者なのかよくわかりませんし、これを書いた方が本当に「教学研究所所長」なのかもわかりません。コメントくださった方がどういう意図をもっておられるかは不明ですが、ひとまず内容について検討してみたいと思います。

内容の思想性云々以前の問題

 内容について詳細に検討する以前の問題として…この文章からは一切情熱や熱量が感じられません。「いのち!いのち!」と語る諸先生方からは内容に問題はありつつも何かしらの情熱が感じられますし、それなりの筋がみえるものなのですが、この文章にはそれらが欠落しています。それに加えて文章自体も非常に未熟なので、これをこのまま大量に印刷するべきではないでしょう。これじゃただの感想文です。

「いのち」思想から「生きる意味」への転換、そして「時代遅れ」へ

 まず文章に触れる前に、「人生」とか「誕生」についての私の意見を述べさせていただきます。親鸞聖人750回御遠忌のテーマは「今、いのちがあなたを生きている」でした。汎神論的、ロマン主義的なこのスローガンは問題だらけでした。しかし批判を物ともせずに声高に叫ばれていた「いのち」も今やトーンダウンの傾向にあり、代わりに「いのち」ではなく「人生」という言葉に変わってきている感じがします。

 大谷派が発する「人生」という言葉の根にはフランクル『夜と霧』があります。「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」という名言の延長で、「人生」という名詞を乱発しているのではないかと推測しています。この宗門の人たちはあからさまな一神教は嫌うくせに、なぜかユダヤ人の限界状況での信仰をそのまま取り入れちゃってるんですよね。

 「人生には意味がある」という実存主義、しかも自分が人生に期待するのではなく人生の方から問われるという主客のコペルニクス的転回を伴った、超越者ありきの実存主義。「自我を破れ」という赤軍チックなお説教と、仏様という超越者を都合よく混合し、宗教的実存を無理やり形成しようとする傲慢さ。半世紀以上前のトレンドではないでしょうか。私は「生きる意味」とか「人として生まれた意味」なんてものはなくてもいいし、真宗には本質的には不要だとさえ思ってるんですよね。どんなことをしてようが、どんな無意味な過去があろうが、今後どんなことがあろうが念仏して往生することは間違いないということだけが事実なのです(道徳や生活規範を形成しないところに親鸞の宗教的な素晴らしさがあると私は思います)。それ以外のことはそれぞれが縁によって経験することでしかないし、それ以上でも以下でもないと思います。これは決して経験は無意味だと言いたいのではありません。むしろ経験によって肉付けされたお念仏の教えが生きた法話となって人に伝わるのではないかと思います。しかし、自分の経験を絶対的なものとして語るのは筋違いです。最も良くないのは、具体的な経験も語らず、お念仏も語らないこと。これは真宗法話としては認められません。

 さて、自分の誕生の意味や人生の意味、そんな漠然としたものに固執するのは宮沢賢治のような暇人だけです。言葉のみに執着し、具体的な人生の話ができない僧侶は法話の場を去るべきです。

根拠のない区分け、「誕生」と「人生」?

 文中では人生の意味と誕生の意味を区別しているようですが、その根拠もよくわかりません。「なぜ私は人として誕生したのだろうか」と問うことは不必要だと思いますし、カルマや縁による輪廻の結果としか答えようがありません。それにもかかわらず誕生そのものに価値を見出すというのは、「いのち」思想の延長なのではないかと私は思います。「人として生まれてこれたこと、生命の誕生、生を受けることができたことに感謝します!」ということなのでしょうか。そもそも人としての誕生は輪廻の一部に過ぎず、お念仏に出会うことができれば解脱できるのであって、その人生そのものは最後の生であるため尊いと言えますが、誕生したことそれ自体を「人生」と区別して崇め奉ることの意味が私には全くわかりません。お念仏に出会うためには人として誕生しなきゃいけないんだからその誕生という事実をありがたいと思って何が悪い!と思う方もいるかもしれませんが、それは翻って言えることでしかないので仏教的な原則からは外れています。

 敢えて「人生」と「誕生」を区別したとしても、寧ろ誕生そのものよりはお念仏に出会えた人生の方が重要なのではないでしょうか?「親鸞聖人御誕生850年」ということから「誕生」をコンセプトとしたかったのかもしれませんが、練り上げが不十分です。というか、このように長々と論じていて虚しささえ感じます。というのも本来であるならば批判するに値しない、一貫性もコンセプトの確保もできていない文章であるというのが私の率直な感想だからです。拙い意見で申し訳ありませんが以上です。

 誰も傷つけていないように見える、シンプルな、決まりきったことが書かれた文章のどこに問題があるのだろうかと思った方も多いと思います。私から見れば問題だらけです。とにかく僧侶は思考し続けなければならないし、このようなときにこそ「問われ」なければならないのです。言いたいことはたくさんあるけど今回はここまで!

 

 

(初の試み「リクエストご意見」をしたのになんの反応もなくてがっかりですが、今後も「この文章をどう思われますか?」というリクエストの類を受け付けます)