What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「批判」嫌いの人たちにその意味を教えてあげましょう

 今回大谷派機関紙『真宗』7月号の楠信生氏の文章に当ブログへの「応答」が確認されたので、返答のつもりで記事を書きます。特に名指しされたわけではないのですが、どうみてもそのようにしか思えなかったので(とっても嬉しいです!)。ついでに、批判イコール悪いことと思い込んでいる人たちがどのような言説を備えているのかを知ることができるいい文章だったので、それを使って当ブログのいう「批判」の意義をはっきりさせておこうと思います(それにしても「問い」はよくて「批判」はダメっていうのがいまいちまだ理解できません)。

当ブログは「承認欲求にまみれた」、凡夫の自覚なき者だそうだ

 文章を抜粋しておきましょう。ちなみに以下の文章はコロナウイルスについての言及の後に不自然に挿入されています。

 現代の精神的課題として「承認欲求にまみれた現代社会」ということが言われる。この現実は、真宗の教えを聞くことが極めて難しい「我」の時代をも意味している。我執の問題は、人類の始まりからある問題であるが、巧妙な我執の芝居に自己が翻弄されているのが現代である。つまり、我執と批判的精神の同居である。

 親鸞聖人は、厳しい原典批判をされている。経典の新旧訳の校合はもとより、諸論釈によって仏意を明らかにするためにお聖教の厳しい読み方をされる。それでも、七高僧の読み方などを批判されることはない。親鸞聖人は高僧方によって教えられ気づかされたことに恩徳を感じ、讃嘆するのみである。

 批判的検証が重視される現代の研究方法の中で重要なことは、検証の過程の批判的精神が何をよりどころにしているかということである。そこに「承認欲求にまみれた現代社会」と批判的検証との関係性の問題がある。

 単に批判と親鸞のことを言うのではなく、なぜかここには「承認欲求にまみれた現代社会」という陳腐な社会学もどきの言葉が挿入されている。SNSネイティブではない世代の方(おじさん)は、SNS全般を「承認欲求」の一言で片付けたがる傾向があるんですよね。私若者でもなんでもないのですが当ブログもそのように見えたのだろうし、最近覚えた「承認欲求」という言葉を使いたかったんでしょう。ところで、あの例のパンフレットよりも全然文章がちゃんとしていて驚きました、意味のない言葉の羅列よりも自分を守ることに必死な文章のほうがよっぽど美しく瑞々しく感じます!

 一言いっておくと、「承認欲求にまみれた」なんていう話題を持ち出すなら、なぜそのような欲求が生じてしまうのか分析するところまでいかないと意味がありません。買い物依存症の人間に依存は馬鹿らしい行為だし、今すぐ買い物をやめましょうと忠告するくらいの無意味さです。もしくは、承認欲求という言葉を使って人のやってることに対して病名のようなレッテルを貼って安心するという「欲求にまみれた」行為にも見えるのであまり褒められたことではありません。

親鸞と批判の問題

 楠曰く親鸞聖人は七高僧を批判するのではなく「教えに気付かされたことに恩徳を感じ讃嘆するのみ」…確かに七高僧に対しては確かにそうかもしれませんが、親鸞は批判的精神の塊だと私は思っています。仲間が処刑され、恩師も自分自身も流罪になったような人間が自己を問うだけで思想を完結させるとは到底思えないし、「主上臣下、法に背く」という言葉さえあります。化身土末巻は仏教全体に対する批判的作業の凝縮といってもいいでしょう。七高僧に対しても「会通」という作業においては恩徳を感じ讃嘆しているかもしれないが、時代的な制約などから生じる非本質的な部分を捨象している点から言えば親鸞七高僧を諸手を挙げて全面的に肯定しているというわけではなく、暗に行われる批判作業を表に出さずに七高僧からエッセンスと言えるような要素を抽出しているに過ぎないのであって、批判的作業を行っていないとは言えないのではないでしょうか?

 そもそも批判とは何なのでしょうか。もともとの意味から言えば、それは認識や学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすることです。例えば仏教を批判する、ということは仏教的な認識が成り立つ条件やその教えの構成要素や構造などを研究することに他なりません。親鸞は仏教的な時代認識に則り、経論釈の中から末法以外の時代や社会だからこそ可能となるような構成要素をしっかりと認識し、捨象することで末法の時代にも凡夫を救済する真の仏教を論じ実践した点から言えばまさに批判者であるといえます。一方、自分の言説の成立条件や自分がどのような思想的位置にあるかも理解せずに「いのち」と叫んだり、自己愛を語ったりし、自己に対する真の批判もできないような人たちがこの宗門にはたくさんいるようです。自分の教えが普遍的で純粋だと思っている人は、今一度自分がどのような思想的基盤に立脚しているかを確かめるべきなのではないでしょうか。

 例えば香月院レベルの研究者ともなれば、彼は江戸時代という時代的制約を背負っていることからいくつか批判するべき点はあっても、その研究内容にはそれ以上の価値があります。そして、彼の研究が素晴らしいものであったとしても、彼の残した研究を素晴らしい形で受けつぐためには全肯定でそれを受容するのではなく批判を行いながらそれを行うということが非常に重要なのではないでしょうか?それもわからず七高僧親鸞を持ち出し、一面的な解釈によって批判作業を軽んじるなどあってはならないことです。批判もせずにどんどんどんどん「恩徳」という言葉でごまかしながらいろんな思想を受け入れてたら、しまいには法華経みたいなことになってしまいますよ?

 暁烏敏清沢満之も同様です。彼らを批判のふるいにかけなければ、全くの全体主義者として扱うのか、あるいは戦中思想を無批判に受け入れて彼らを礼賛し、同じことを繰り返すかのどちらかになってしまいます。そうではなく、全体主義的な発想を注意深く取り除きながら現代にも通用するような彼らの思想や信仰を明らかにしなければならないのでは?

 そしてこれらは以上のような僧侶に当てはまる稀な例であって、それ以外の方で批判をくぐり抜けた上で有用な思想や特異な信仰を持っている人はごく僅かだということもお忘れなきように。

 結局「問いは素晴らしい」「批判はよくない」っていうのは同根なんですよ。形式にしか目を向けずその内容を欠いたままになっている。しかも、それらは「応答」という形式すら欠いている。問われたら応答し、批判されたら答えるのが義務だと思います。米田富さんに対しても「批判はよくない」とおっしゃるつもりでしょうか?

ゾッとするほどのコロナ不況に対する冷徹さ

 氏の文章にはこのようなことも書かれていました。

つまり、寺院の側から見ると直葬家族葬が、これまでの寺と檀家という既成秩序の崩壊を予想させる危機である。しかし、世間からすると常日頃の信頼関係を築けていない僧侶の葬儀の折の無配慮さに、諸宗の祖の願いを失っているのではないかという危機感を抱いていたと言えるだろう。 

 葬儀の問題については以前私もそれぞれの僧侶の努力不足と書いたことがありますが、本山側の人がこれをいうのは間違っています(ここは文章自体がめちゃくちゃなので意訳するしかありません)。例えば葬儀の簡略化は都市圏に顕著な問題ですが、果たして都市圏の布教を本山が本当に力を入れて努力したのだろうか?と私は問いたいです。都市圏に多くの大谷派の寺院を作るなどしていれば、あるいは東京の僻地練馬などに教務所を作らなければ状況は変わっていたかもしれない。やるべきこともせずに既得権益だけを守るような制度によって自由な開教を許さなかったことが今日の仏教離れの要因となっているのではないかとも私は思いますし、仮にそうでなくてもそれくらいの自己批判をして当たり前なのではないでしょうか。本山の中枢にいながら、解決策も提示せずに偉そうに「僧侶の無配慮さ」なんてよく言えたものだなと呆れるばかりです。