What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

真宗を非学問化してしまった罪

 以下のようなコメントを頂きました。組織論や金銭に関する話題についてはコメントがあるものの、思想的な問題はなぜかうけが悪いのでこのようなコメントを頂くととても嬉しいです。

「また多くの大谷派僧侶のように、無量寿を「いのち」と解釈しているようですが、無量光と無量寿は本来、阿弥陀仏の教えの空間性と時間性を表現する言葉であるということを理解しなければなりません。」 このご意見に賛成です。現今の大谷派では、情緒的、恣意的、感動的な言説にあふれています。そんなに感動が好きなら、映画館にでもこもっていればいいのに。 今いのちがあなたを生きている・・・・大先生の解説を聞いてもさっぱり分かりません。文学芸術表現なら許されましょうが、この表現はどう見ても、梵我一如のバラモン教への先祖帰りでしょうと、意見を述べたことがありますが多くの住職には私が何を問題にしているのかも分からないようでした。龍樹菩薩にボーッと生きてんじゃないよってしかられますね。 人としてうまれたことの意味をたずねていこう・・・・大丈夫ですか?顕彰穏密の心得があるならいいのですが、真面目にストレートにぶつかっていったら事故を起こします。究極に意味分別を離れよという仏教の伝統と正面衝突です。正面衝突を避けようとまた珍解釈が顕れないといいのですが。 真宗聖典蛸壺主義がこうさせているように思えます。聖典だけでは解しかねることを言語明瞭意味不明の言説で無理矢理曲解しているように見えます。真宗の偉い先生の言葉は正直申し上げて、その論旨には全く理解が追いつきません。どの単語も前後の言葉から独立して意味上の関連性が全く見えないのです。自己とか主体とか絶対とか無限とか罪悪とかいのちとか闇とか唐突にあらわれて消えていくようです。 阿含経典のような、明晰で平明で素直な表現で真宗を語れないものでしょうか。

  このコメントにもあるように、この宗門は「仏教」という一つの伝統的な思想を全く重んじていません。情緒的、恣意的、感動的な言葉で人を揺さぶらせようという気持ちしかないので、それを理論で補強しようという気はまったくありません。むしろそのような作業をしてしまうと自分の言ってることがいかに下らないことであるのかが露顕してしまうので無意識的に避けているのでしょう。そういう輩は最後には「真宗は学問ではない」とか、「哲学ではない」とか宣ってありがたい言葉を連発し始めるんです。

 「聖典だけでは解しかねることを言語明瞭意味不明の言説で無理矢理曲解しているように見えます。真宗のえらい先生の言葉は正直申し上げて、その論旨には全く理解が追いつきません。どの単語も前後の言葉から独立して意味上の関連性が全く見えないのです」という意見には全面的に賛成です。この状況を生み出している元凶の一つが聖典で引用されている経典の方へ目を向けずに、逆に聖典から近代教学を参照している点です。仏教の伝統的な体系を無視して編み上げられた近代教学は法話のネタにはできても学問的な理解の助けにはなりません。

 親鸞が言っていることは親鸞自身言葉からしか引き出せないはずなのに、それを清沢満之や曽我量深の言葉で変換させて、さらにはもっと現代の人間の言葉まで引きずり出してくるからわけがわからなくなり、挙げ句の果てに「これは仏教ですか?」と言いたくなるような合成獣が出来上がってしまうのです。しっかりと文脈を把握した上でなら近代教学も重要かもしれませんが、そうじゃない方がどうやら多いようですね。近代教学を研究していますっていう人がいたりしますが私からすれば「????」って感じです。ひとつの時代の表象でしかありませんし、それは真宗学というより表象研究です。

 仏教全体のシステムを無視して湧出した言葉はよりどころなく浮かんでは消える、その明滅を繰り返すしかありません。造語まで作って哲学者の真似事をしようとする者もいます。その最たる例が東京のたけ....おっと失礼しました。親鸞の言葉そのものを掬い出して、明らかにしてくれる人が一人でもこの世にいれば私にはそれで十分なんですが、なかなかいないものですね。