What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

親鸞と鬼神ー芹沢俊介は宗門に必要だろうかー

 先日は三橋尚信氏のとんでもない誤読について指摘し、思いの外すぐに反応があったので驚きました。まさか当ブログの指摘により真宗会館の動画が編集されるとは思いませんでした。つまり、私が思っている以上にこの批評ブログは影響力を持っているということですね。

(件の過去記事はこちら↓)
  今回は真宗大谷派難波別院が発行している新聞「南御堂」の2021年5月号の評論家芹沢俊介が書いた記事について批評します。

 私たちが所属する大谷派、残念なことに仏教を専門に学んでない社会学者や思想家、有名人やお医者さんが大好きで、僧侶の話よりも彼らから話を聞きたがるのです。臨床現場にいる僧侶を蔑ろにするどころか、学問さえも捨て去ろうとする態度に恐怖すら覚えます。

 まあ、それはそれでいい面もあるかもしれませんが、専門外の彼らによる親鸞思想の表面的な解釈が批判されることなく各メディアによって垂れ流されているのは大変危険です。吉本隆明と名前が並ぶことが多い芹沢ですが、親鸞に対する理解度は天と地ほどの差があります。

 今回取り上げる芹沢俊介親鸞解釈はかなり“個性的”でした。

親鸞の『論語』から引用についての芹沢の間違った解釈

 芹沢は『教行信証』化身土巻の最後にある『論語』からの引用文に注目して以下のように述べています。

 親鸞は、念仏者としての原則論を述べている。礼拝し、仕える対象は弥陀一人、その他国王であろうと、父母であろうと帰依の対象ではない。むろん、鬼神も、である。ーーだが、こうした原則論だけでは、事態の収拾は困難となっていた。

 有効な手立てを見つけ出せないまま、最後にたどり着いたのが、『論語』に現れている、孔子のとった態度、鬼神の退け方であった。

 「季路問わく、『鬼神に事えんか』と、子の曰く、『事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや』」

 と。これが化身土の巻本文の結びの言葉となっているのである。

 親鸞の『論語』の引用は、かなり省略があるので、その全体を正確に書き抜いてみる

 「季路鬼神に事えむことを問う、子曰く、未だ人に事うる能わず、焉ぞ能く鬼に事えむ。曰く、敢て死を問う、曰く未だ生を知らず、焉ぞ死を知らむ。」(先進第十一)

 (私訳:弟子の季路が師に訊ねた。どのようにすれば鬼神にお仕えすることができるのでしょう。孔子は答えた。お前も知るように、私を用いようとした国は未だない。だから王への仕え方をよく知らないのだ、そんな私にどうして王を超越している鬼神への仕え方を問うのか。では、もう一つ、と季路は重ねて訊ねた。先生、死とは何でしょうか。孔子は答えた。私は生のことさえまだよくわからないでいるのだよ。そんな私がどうして死について語れようか)。

 これが孔子の鬼神の遠ざけ方であった。すなわち「敬して、これを遠ざけた」のである。何度読んでも、見事だなあ、と感嘆してしまう。おそらく『論語』に親しんでいた親鸞は、この孔子の態度を好ましく思っていたに違いない。どんなに即効性、直接性に欠けていようと、これ以上の適切な遠ざけ方はないであろうと思っていたに違いない。

 これが芹沢の主張です。

 芹沢の主張によると親鸞は『論語』を省略しながら引用していて、その『論語』に記されている孔子の鬼神に対する態度を好ましく思っていたということになりますが残念ながらこれらの解釈全てが間違いなので訂正しておきます。

親鸞は『論語』を“省略”して引用しているわけではない

 『教行信証』を読み進めていくと、読み解くセンス、作法というものがだんだんと培われていきます。芹沢はしっかりと精読できていたのでしょうか。

 『教行信証』をしっかりと精読したことがあるものなら誰でも、親鸞の読み替えに鼻が効くようになってきます。例えば「須」を「もちいる」と読んでいる場合は「ここは絶対“須らく”を“須いる”に読み替えているな」とかそういうことに気がつくようになります。

 しかし、芹沢は『論語』とは異なる親鸞の引用を見て、それを「読替え」ではなく「省略」と理解しているようです。これは明らかな無知です。聖教を読み慣れていない人間の所業でしょう。またパターン云々以前に『教行信証』の文脈を考えれば親鸞の引用は明らかに「省略」ではないことがわかるのです。

 孔子の『論語』にはこう書いてあります。

季路、鬼神に事えんことを問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。

 漢文ではこうです。

季路問事鬼神 子曰能事 焉能事鬼

 先に記した芹沢俊介の私訳という名の謎解釈は傍におくとして…この文では、まず季路という孔子の弟子が孔子に対して「鬼神に仕える方法」を聞いています。そして孔子は問いに対して「まだ日常生活の中で最も親しい人にさえ誠心をもって仕えることが十分にできていないのに、どうして鬼神に仕える資格があるだろうか」と述べ、まずは現実世界の人間に仕えることが大事であって、さらにその先にあるのが鬼神なのだということを示しているのです。

 それに対し、親鸞は…

季路問事鬼神 子曰能事 焉能事鬼神

  と明らかに「省略」ではなく「読替え」を行なっています。「未」が「不」に代わり、「人」の位置が変わっています(「鬼」と「鬼神」の差異はないと思われます)。これはなぜでしょうか。これによって親鸞は何をしめしているのでしょうか?

親鸞は厳格に人と鬼神の紐帯を切断している

 ご存知のように『教行信証』化身土巻には、さんざん鬼神を奉るような外道の宗教についての言及・批判が並べ立てられています。そしてその大団円に、「儒教」の言葉を引用することで締めくくりを行なっているのです。したがって『論語』からの引用文の読解の鍵となるのは化身土巻全体の俯瞰なのです。それに対し芹沢の読みは化身土巻の文脈を全く無視した読解であると言えます。

 『論語』が、人にさえ十分に仕えたものが鬼神に仕えるようなことができる筈がない、と述べることで、鬼神への奉仕の保留と人に仕えることの道徳を説く一方で、

 親鸞は「仕えることはできない(不能事)」「人がどうして鬼神に仕えることができるだろうか(人焉能事鬼神)」と述べることで、鬼神と人間の関係を完全に切り離しているのです。(文脈から考えて「鬼神に仕えるな」と解釈する方が正しいかもしれません)

 芹沢は親鸞が「孔子の鬼神への態度を好ましく思っていた」などという馬鹿馬鹿しいことを言っていますが、全くの逆です。こんな発言は、紙面を割いて即刻撤回すべきです。

 そもそも芹沢の「親鸞は鬼神を敬して、遠ざけた」などという主張は鬼神の肯定に繋がりますし、こんな危険な思想は即刻宗門内から排除していただきたい。こんな思想がまかり通るならなんでもOKになってしまうのでは??

 この『論語』にまつわる解釈は、教学上でも周知のことです。山部・赤沼大先生も示しているのですから、古典的な解釈であるとも言えるでしょう。しっかりと教学を学んだものなら誰でも知っていることだと思います。それなのに、こんな素人の珍妙な解釈を新聞に掲載するという行為は『教行信証』と、それを必死で読み解いてきた人たちへの冒涜です。この宗門にはもっと、深い知識を大切にしていただきたいものです。難波別院にはこれに対して不思議に思った人がいなかったということでしょうか?

 昔は特定の人しか読むことのできなかった『教行信証』…読者の制限はこんな誤読を危惧してのことだったのだなあとしみじみ思ってしまいます。今や誰でも読むことができる書物となってしまいましたが、その弊害の最たるものが今回の解釈ですね。連載だそうですので、続きが楽しみです。

 私たち僧侶自身が、自らの手で学問を捨て去り、親鸞の意図からどんどん離れていく、それはとても恐ろしいことだと思います。

 鬼神と人間の関係を考えて、「鬼神は人間の心、自分自身だ」とか「鬼神にすがらざるをえない愚かな我々」とかというような解釈をする方もいますが…場合によってはそう認めることができることもありますが、『教行信証』化身土巻の趣旨は「何が仏教で何が仏教ではないか」を明らかにすることであって、人間の朧げな実存的信仰の内容を記述することではありません。したがって、そのような両義的な解釈は正当ではありません。

 親鸞は厳密に「仏教は鬼神につかえない」という線引きをし、曖昧になっていた「仏教」の定式化を図っているのです。そして果たして私たちは仏教徒なのかどうか、宗派をあげて自らに問いかけなければいけません。立教開宗の法要も開かれることですから、親鸞が立てた「仏教」を完全に理解する必要があるんですが、そもそものスローガンからし大谷派は「非仏教」となってしまっているような気が。