What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

大谷派が“是旃陀羅”という言葉を使い続けることへの疑問

 宗門機関紙『真宗』2023年2月号から3月号にかけて書かれていた「解放の教学」という記事について少し疑問に思ったことがあったため久しぶりにブログを更新することにする。執筆者は本廟部出仕・儀式指導研究所研究員の竹橋太という方だったのだが、この方が書いた記事には「意地でも“是旃陀羅”という言葉を教学や儀式から排除したくない」という姿勢がありありと現れていた。感想を端的に述べておこう。どうしたら機関紙にこのような詭弁すれすれの差別記事のようなものを大胆に載せることができるのだろうか。

 最初に「是旃陀羅」の問題についてものすごく簡単に概要を説明しておく。この言葉は『観無量寿経』(以下『観経』)で使用されており、もともとは「チャンダーラ」という被差別階級の人々を指し示すことばである。これは被差別部落の人たちからすると絶え難い言葉であり、宗門内外から儀式での使用を疑問視する声が上がっている。使用をめぐって宗門では現在まで(一応)議論が重ねられてきているが、依然として『観経』の「是旃陀羅」は儀式において読誦されているというのが現状である。

 私はなぜここまで差別性が指摘され続けている「是旃陀羅」という語が依然として宗門内で使われ続けているのかが疑問であった。『真宗』の当該記事ではその使用についての正当性が主張されていたため、それが本当に正しいものなのかこのブログでチェックしてみたいと思う。

「儀式」や「伝統」を盾にした差別の温存

 竹橋太氏は当該記事において以下のように述べている。

仏前での儀式の形は、その経典などが説かれている場に参加するという形になっている。仏や宗祖の前に座り、その教えに耳を傾ける、それが儀式という形で再現されている。だから教えを聞くことに関心がなければ退屈なのである。仮にその関心があったとしても、漢文の音読は大きな壁となる。それなのに音読が守られるのは、実はそれが原典であるという位置付けがあるからである。中国語に訳されたものであっても、それを宗祖がいただいた原典として、そのまま読むことにとって、その経典が説かれた場に、こちらから身を運ぶ。(『真宗』2023年2月号46頁)

 差別語を使用しているにもかかわらず漢訳仏典が儀式で読誦されるのは、その仏典が「宗祖が教えをいただいた原典」であるからだそうだ。これについては了解できる。またこのように書かれていた。

まず儀式という点から考えると、経典など聖典の言葉はそのままいただくものであって、読む、読まないというような議論は基本的に成り立たないように思う。(同上、47頁)

 ここでは「そのままいただくこと」を主張することで「是旃陀羅」を読み上げることの正しさが保たれている。しかし、この主張を踏まえるとなぜこの宗門に「読まない和讃」なるものが存在するのだろうかという疑問が湧く。実際に、親鸞が書いた和讃のなかには儀式では用いられないものが存在しており、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときまう」という和讃がそれである。これは正像末和讃のひとつで、これは「念仏の教えを謗る者は地獄に落ちるぞ」という意味でやや過激な和讃である。声明集のなかでもこの和讃には節符がついていない。

 少なくとも存如(1396-1457)の時代から「コノ讃ヲヒクヘカラズ(読んではいけない)」と伝えられているらしく、おそらく念仏を弾圧した後鳥羽上皇を非難する和讃であるから読んではいけないのではないかと考えることができる(よくわからないので知っている方がいたら教えてください)。

 どちらにせよこれを読み上げることでなんらかの問題が生じるために「ヒクヘカラズ」になっているのであろう。

 そのような事実があるのならば「聖典にあるものは全て“いただかなければならない”」という理屈は通らない。前例があるのだから儀式の観点から言えば、むしろ「是旃陀羅」を排除することは十分に可能なのだ。

 『観経』が三部経のひとつで和讃よりも「重い」ものであるため当該箇所の不読に抵抗があるという感覚は理解できるが、やはりそれが差別用語であり、読誦することに差別性があるとこれだけ言われている現状を鑑みれば不読が妥当であると思われる。しかも、竹橋氏のいうように儀式が「教え」を聞く場であるのならなおさらである。「教え」を伝える法話の場では絶対このような言葉が注釈なしでそのまま使用されることはないではないか。

阿闍世に母殺しを止まらせたのが「是旃陀羅」だからこれは重要な言葉であるという暴論

 この宗門内で繰り返される暴論のひとつに、「是旃陀羅という言葉によって阿闍世は母親を殺すことをためらったのだからこの言葉には意義がある」というものがある。実際、耆婆・月光という大臣たちが「母親を殺すなんていうのは被差別階級のするようなことだからやめなさい」と阿闍世に語ることで阿闍世に母殺しを思いとどまらせたというエピソードが『観経』にあるからだ。

 確かにこれは事実かもしれないが、だからと言ってこの表現が重要だとは思わない。勉強しない子供を叱る母親が路上生活者を指差して「勉強しなかったあんなふうになるよ」と言っているようなもので、極めて無礼で侮蔑的な表現である。しかし、この宗門ではこの表現に対してさまざまな言説を付け加えることでそれを正当化する差別行為が絶えず行われ続けている。

 そのお手本のような詭弁を、竹橋太氏は『真宗』2023年3月号で披露してくれている。ここにご紹介しよう。

つまり、「是旃陀羅」という言葉がなければ、韋提希の命は救われないし、浄土は説かれなかった。そもそも『観無量寿経』も成立しえないのではないだろうか。(『真宗』2023年3月号、49頁)

 ここで披露されているのは、韋提希を生存させたのが差別用語であって、その差別用語が存在しなければ韋提希は死んでしまい、そして韋提希が生きていなければ浄土の教えが説かれることがなかったのだから、この差別用語の存在こそが『観無量寿経』成立の要であるというめちゃくちゃな論理である。

 私からすると、韋提希が生き残るのかそうでないのかはこの経典の要ではない。韋提希が殺されずに済んだ経緯はどうであれ、息子に夫を殺され、自分自身も殺されかけたが生き残ってしまった韋提希が仏に救いを求め、そして救われたというのが『観無量寿経』という経典の要であって、韋提希が殺されなかったということは物語の本質では全くない。

 「経緯はどうであれ結果的に生き残ってしまった韋提希」の存在が重要なのであって、韋提希殺害を思いとどまらせた言葉がどのようなものであったかはさして問題ではないし、それが差別用語である必然性は全くない。しかもこれは事実をもとにしてはいるものの、ひとつの文学、物語なのだから、この言葉に執着する意味がよくわからない。

 そうであるならば、この殺害を思いとどまらせた言葉そのものを儀式から排除することは『観無量寿経』が説く教えを損なうものではない。少なくとも、この差別用語が『観無量寿経』の成立条件のひとつなどという暴論は述べるべきではない。なぜこのような暴論が『真宗』に載ってしまうのか。同和問題解放推進本部は何も思わないのだろうか。

「階級降下」という虚構

 当該記事ではさらによくわからない言説が弄されている。

ごく最近の議論の中で「是旃陀羅」という言葉について、阿闍世の行為の悪逆性を示すのではなく、階級降下というヴァルナ体制の中の概念で考えるべきであるという指摘をいただいた。筆者も『現代の聖典』第三版の訳「それはチャンダーラのすることです」にあるように阿闍世の行為の悪逆性について述べたものだと考えていた。しかし、指摘のように「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という階級降下の言葉と考えれば、「不宜住此」という月光・耆婆のことばも、「是旃陀羅になるのだから、あなた(阿闍世)はここにいてはいけませんと訳すことで論理的に理解しやすくなる。

 竹橋太氏はこのように、「是旃陀羅」は旃陀羅の悪逆性(是旃陀羅階級のものはこういう悪いことをするというような性質)を示すものではなく、「階級が落とされますよ」という階級降下を示唆する言葉であると述べている。したがって、差別ではないのだといいたいのだろう。

 しかし、これはただの詭弁である。身分制度は原則的に行為による階級の移行を認めないはずだからだ。そうであるならば阿闍世への階級降下の示唆はほぼ無意味で、彼への説得の効果を持たない。したがって「是旃陀羅は階級降下を指し示す」という解釈はやや無理がある。身分制度には階級や地位が「汚れる」という考え方はあっても「降下」はありえない。

 もしかすると、釈尊の「人は生まれによってバラモンになるのではなく、行いによってバラモンになる」という、生まれによる身分制度の否定の思想に基づいて階級降下を示唆することは十分に可能であると反論する者がいるかもしれない。しかし、その場合「是旃陀羅」よりも前に出てくる「汚刹利種」は阿闍世が生まれによって貴族階級であることを前提とした記述であるため、その後の「旃陀羅」が仏教思想的に生まれによるものではなく行為の結果として差し示されていると考えることはできない。

 さらにいえば「是旃陀羅」が階級降下を示すことばであったとしても、それは「母殺しをするようなものが位置するべき階級が旃陀羅である」と主張しているわけであって、阿闍世の行為の暴力性や是旃陀羅への侮蔑性を十分に含んでいる。「階級降下」などというよくわからない詭弁を弄して、この文言の差別性を薄めることなどあってはならない。

 さらに当該記事では「それはチャンダーラのすることです」という翻訳が差別を再生産する恐れがあるため、竹橋氏のいうような「是旃陀羅=階級降下」説をもとに「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という意訳が推奨されている。しかし、珍説に基づいたこのような無茶苦茶な訳を無理につけるのではなく、「それはチャンダーラのすることです」と訳した上で丁寧な脚注を差し込むことによって差別の再生産は抑止されるだろう。むしろその方が差別意識の自覚につながり、学習の機縁となる。

どれだけ解釈を並べ立てても差別用語の使用した時点でそれは差別であるという原則を忘れてはならない

 差別用語を使用する者は弁解のためにさまざまな言説を弄する。「差別するつもりはない」「〜というのが自分の意図であって、他の人に差別だと誤解されてしまった」、国会でよく聞く弁明である。これと同様の弁明を『真宗』に掲載する大谷派は全く差別問題についての見識が深まっていない。

 どれだけ正当化しようと、差別用語を使用した時点でそれは差別なのであるということを自覚しなければならない。言葉自体がすでに差別の歴史を背負い、意味は言葉のなかに沈殿しているのだ。沈殿した意味は使用されるたびに舞い上がり、拡散されていく。使用者がどのような意図で使ったのかということは全く問題ではない。差別の歴史が刻まれた言葉を口にした時点で、意味は他者に伝わり、ひとの心を切り裂くのだ。だから差別用語放送禁止用語というものに注意しなければならないのだ。誤ってそれらが使用された場合、その使用者は差別の自覚を持たない差別者でしかない。その行為が差別的かどうかの基準は主体の意図とは別のところにあるのだ。

 部落差別、ハンセン病差別の問題について長年学びながら、なぜいまだに宗門がそれを理解できていないのか、私には本当に理解できない。恥ずかしい限りである。

 本山はひとの文章は細かくチェックして、何度も意味のわからない書き直しをさせるくせに、なぜ今回はこのような文章を掲載してしまったんだろうか。これを問題ないと判断した本山関係者たちの神経を疑ってしまう。全国水平社設立の節目、宗門では立教改宗の節目の年でもあるのになぜこのような無神経な文章を掲載してしまったのだろう。

 現在も、同和問題についての学習会が各地で行われ、各講師たちは詭弁を弄し、大谷派の方針を正当化し続けている。このような状況を許していいのだろうか。「これは差別表現である」という前提からまず初めて議論するべきであり、それができていないからこの宗門はだめなのだ。しかもその状況を「学び続ける姿勢」などという嘘で正当化し続けている。どう考えても許し難い。

 さて、本ブログを参考になさっている方は是非各学習会で講師に疑問を投げかけ、大いに議論していただけると有り難い。この問題について肯定的な解説をする講師、「学び続けることが大事」というわけのわからない言い訳をし続ける講師、「是旃陀羅」が特異な問題であり他の差別と比較することができないと言って言い逃れする講師、彼らは全員本山の御用学者たちである。なかには「不読にすることで安易に解決をはかってはならない」という講師もいるが、私から言わせれば不読を決めた上でさらに何ができるのかを考えるべきである。詭弁を用いて結局はなにもせず、内向きの学習会を行うだけの状況を良しとしている意味がわからない。