是旃陀羅問題について書きたいと思いながら、まとめるのが面倒だったため長らくこの話題を放置していた。最近鶴見晃氏の論文を読んで「ちょっとこれはよくない雰囲気なのではないか」と思い、それはなぜなのかを記述しておきたい。
その論文というのが『印度學佛教學研究』という、日本インド学仏教学学会が発行している論集に収められている『親鸞「浄土和讃」観経意について——善導「観経疏」序分義との連関——」である。この中で鶴見氏は親鸞の浄土和讃の観経意における「耆婆月光ねむごろに 是旃陀羅とはぢしめて 不宜住此と奏してぞ 闍王の逆心いさめける」の「ねむごろ」には粗暴な諫言であるという意味合いと、肯定的で丁寧念入りな諫言という意味合いがあるということを示唆している。
親鸞の『観経註』への書き込みを頼りに論証を行っているが、論述にはかなりの無理がある。まあ、それは置いておくとして、違和感を覚えたのは論文の終盤の記述である。
観経意九首は『観経』の教えを網羅的に確かめるのではなく、非常に明確な視点で九首が構成されている。第一首に「恩徳広大釈迦如来 韋提夫人に勅してぞ 光台現国のそのなかに 安楽世界をえらばしむ」と序分・欣浄縁の光台現国の焦点をあてた和讃がおかれる。韋提希が阿弥陀仏の浄土への往生を選択したことが詠われるこの一首が『観経』の要であるとまず示される。第二〜五首は頻婆娑羅の仙人殺害、阿闍世の逆害、大臣の諫言、韋提希の幽閉が詠われ、禁父縁・禁母縁へと遡る形で王舎城の出来事が詠われる。実は経典の叙述に直接関わるのは以上の和讃のみであり、第六首から第八首はこの経説の意味が確かめられている。すなわち「弥陀釈迦方便して 阿難目連富楼那韋提 達多闍王頻婆娑羅 耆婆月光行雨等」(第六首)等、王舎城の出来事を方便と捉える和讃が続くのである。これらの三首は、前五首に収まる『観経』の経説が、阿弥陀仏の浄土の選択へと我々を導く方便であると讃歎しているのである。そして最後の第九首「定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せむとねがふべし」は、八首の和讃を総じて自力を翻し他力に帰することを勧める教えであると示すのである。したがって、第四首が、差別と排除を表すその経言に我々への方便の導きをききとろうとした和讃であることは明確である。
鶴見氏は親鸞の和讃の観経意から、「王舎城の悲劇」の内容すべてが「方便」であると分析している。つまり、頻婆娑羅の仙人殺しも、阿闍世の逆害も、耆婆月光の差別発言も、すべてが我々の阿弥陀仏の選択へと導く方便だそうだ。
まず「方便」だからといって、何でもかんでもそれが許される訳ではない。仏に帰依するきっかけだからといって全てが肯定されていいということはない。差別がきっかけで仏に帰依することがあっても差別は肯定されるべきではない。悲惨な経験が念仏に遇うきっかけになったとしても、その悲惨な出来事自体は良いことでもなんでもない。是認するべきではないのだ。
仮に「是旃陀羅」という表現が当時の苛烈な差別社会を描写し、これを主題とする文学であったとするなら話は別であるが、『観経』の趣旨はそうではない。松本清張『砂の器』や島崎藤村『破戒』のような作品は、差別を原因とする苦悩や、出来事を描写している点で、差別の現実やその克服を示唆するものではあるが、『観経』はそうではない。
もし親鸞がこの「是旃陀羅」という差別発言を「方便」と言って是認しているならば、親鸞にも差別性があることを認めなければならない。『教行信証』に関しても、差別表現はいくつか存在しているのだから、差別意識について親鸞が完璧であるなどという必要はない。
「是旃陀羅」という発言は方便に含まれるのか
そもそも「是旃陀羅」と耆婆と月光が諫言することは韋提希にとっての方便だと認めることができるのかも謎である。
鶴見氏はこのように述べている。
したがって第四首が、差別と排除を表すその経言に我々への方便の導きを聞き取ろうとした和讃であることは明確である。ここで注意されるのは、親鸞は善導に拠りつつ『観経』に「顕彰隠密の義」を見ていることである。本願を彰すのが隠彰義であるが、方便であるということは粗暴な諫言が韋提希が他力に帰する縁となったことを意味する。
これは明らかな誤読である。この和讃は『観経』の内容を述べたものであって、その内容全てを讃えているわけではない。ましてや、「是旃陀羅」という差別用語が、韋提希にとっての仏縁となったという解釈は乱暴すぎる。この言葉はあくまで阿闍世に対する大臣らの諫言であって、韋提希はこの場面に存在すらしていない。韋提希が「是旃陀羅」という言葉に対して「なんていう差別的な言葉!こんな言葉が使われるような世界嫌だわ!私は差別のない浄土に行きたい!」などという心境が読み取れる経言や場面は存在しない。
韋提希が願ったのは「差別のない世界」であるとはいえない。韋提希の苦悩は、夫を殺し自分を幽閉するような子どもをなんで産んでしまったんだろうか、という点にある。それは差別社会に起因するものではないし、仮に差別がなくなった世界でもこの出来事は十分に起こりうる。韋提希の望みはそこにはない。彼女が願った浄土が結果的に差別のない世界だとしても、彼女は「差別のない世界」としての浄土を願った訳ではない。
韋提希の苦悩は「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる」という言葉に現れている通りであって、「差別のない世界に行きたい!」ではない。
大谷派は、『観経』は差別を乗り越えるための経典として設定することでその中での差別用語がそれを乗り越えるために用いられたに過ぎないと主張したいようである。例えば松本清張『砂の器』が差別的な表現を用いたり、差別的な場面を描写していたとしても、それは差別に起因する出来事や事件を克明に描き、差別の暴力性や愚かさを文学として伝えているわけだから、『砂の器』における表現を「差別をおこなっている!」と主張することはできない。それと同様の構図にしたいのだろうが、残念ながら『観経』はインドの差別的意識がそのまま転写されているだけで、それを批判的に描写しているわけではないため、「是旃陀羅」は差別表現そのものだとしか言いようがない。
『観経』における顕彰隠密の義について
最後に鶴見氏は親鸞の「顕彰隠密の義」さえも改変してこう述べている。先の引用と重複するが再度引用しておこう。
ここで注意されるのは、親鸞は善導に拠りつつ『観経』に「顕彰隠密の義」を見ていることである。本願を彰すのが隠彰義であるが、方便であるということは粗暴な諫言が韋提希が他力に帰する縁となったことを意味する。
これは曲解である。親鸞が述べる顕彰隠密の義(おもてに現れている意味と、裏に隠された本当の意味)とは、『観経』と『阿弥陀経』には、浄土往生のための定善・散善、一心不乱の念仏などの行と信心が解かれるが、それぞれは実は『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の誓願へと導くための方便であるというものである。『観経』で言えば釈尊が韋提希に説いたのは瞑想などを含む定善と、日常的な道徳的実践を含む散善が「顕説」であって、おもてに現れている方便であり、念仏による他力回向の教えが「隠密」の義である。
和讃から、耆婆と月光らの「是旃陀羅」という差別発言が方便に含まれると断言するのは安易である。
資料の流れを見てみると、「是旃陀羅」は「ここにいてはいけない」という意味であって差別的な言葉ではないという主張がだんだんと苦しいものになり、「是旃陀羅」は差別や排除を意味する言葉で、それは現実の人間の愚かさや苦悩を表しているという主張が台頭してくるのではないかと感じる。
「是旃陀羅」は人間の三毒を象徴する表現なのだと主張するものもいる。私はすでにこの主張がどれほど愚かなものなのか理解している。なぜなら同和教育や差別表現について教育を受けてきたからだ。文学作品のなかで殺人は良くても差別発言が許されないのは何故かという問いに答えることができる僧侶が一体この宗門に何人いることやら。
差別主義者のままでいいの?
我々のような三部経を重んじる宗教者が取りうる適切な姿勢とはいかなるものか。『観経』という経典は念仏によって救われる凡夫を指し示すものではあるが、その経典の中にある「是旃陀羅」という表現には誤りがあると認めることなのだ。この言葉に苦しみを感じる人がいるならばそれを儀式で読み上げるべきではないし、正当化することもできないと反省すべきなのだ。そして、それを認めても『観経』自体が価値を損ねることはないと自信をもたなければならない。頑なにその表現の正当性を主張し、親鸞の意図すら捻じ曲げてしまうことなどあってはならない。
親鸞の思想に差別を乗り越える力があることは明らかではあるが、表現の面で全く差別性がないということは難しい。現代に至るまで深く差別の問題が追及されており、昨今ではマイクロアグレッシブなど「褒め言葉」に内包される差別性も明らかにされてきている。その状況から鑑みて、800年前の人間が差別的な表現を全くしていないわけがない。


