What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「是旃陀羅」を差別語じゃないことにしようとしてない?(『親鸞「浄土和讃」観経意について——善導「観経疏」序分義との連関——』を読んで)

 是旃陀羅問題について書きたいと思いながら、まとめるのが面倒だったため長らくこの話題を放置していた。最近鶴見晃氏の論文を読んで「ちょっとこれはよくない雰囲気なのではないか」と思い、それはなぜなのかを記述しておきたい。

 その論文というのが『印度學佛教學研究』という、日本インド学仏教学学会が発行している論集に収められている『親鸞「浄土和讃」観経意について——善導「観経疏」序分義との連関——」である。この中で鶴見氏は親鸞の浄土和讃の観経意における「耆婆月光ねむごろに 是旃陀羅とはぢしめて 不宜住此と奏してぞ 闍王の逆心いさめける」の「ねむごろ」には粗暴な諫言であるという意味合いと、肯定的で丁寧念入りな諫言という意味合いがあるということを示唆している。

 親鸞の『観経註』への書き込みを頼りに論証を行っているが、論述にはかなりの無理がある。まあ、それは置いておくとして、違和感を覚えたのは論文の終盤の記述である。

観経意九首は『観経』の教えを網羅的に確かめるのではなく、非常に明確な視点で九首が構成されている。第一首に「恩徳広大釈迦如来 韋提夫人に勅してぞ 光台現国のそのなかに 安楽世界をえらばしむ」と序分・欣浄縁の光台現国の焦点をあてた和讃がおかれる。韋提希が阿弥陀仏の浄土への往生を選択したことが詠われるこの一首が『観経』の要であるとまず示される。第二〜五首は頻婆娑羅の仙人殺害、阿闍世の逆害、大臣の諫言、韋提希の幽閉が詠われ、禁父縁・禁母縁へと遡る形で王舎城の出来事が詠われる。実は経典の叙述に直接関わるのは以上の和讃のみであり、第六首から第八首はこの経説の意味が確かめられている。すなわち「弥陀釈迦方便して 阿難目連富楼那韋提 達多闍王頻婆娑羅 耆婆月光行雨等」(第六首)等、王舎城の出来事を方便と捉える和讃が続くのである。これらの三首は、前五首に収まる『観経』の経説が、阿弥陀仏の浄土の選択へと我々を導く方便であると讃歎しているのである。そして最後の第九首「定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せむとねがふべし」は、八首の和讃を総じて自力を翻し他力に帰することを勧める教えであると示すのである。したがって、第四首が、差別と排除を表すその経言に我々への方便の導きをききとろうとした和讃であることは明確である。

 鶴見氏は親鸞の和讃の観経意から、「王舎城の悲劇」の内容すべてが「方便」であると分析している。つまり、頻婆娑羅の仙人殺しも、阿闍世の逆害も、耆婆月光の差別発言も、すべてが我々の阿弥陀仏の選択へと導く方便だそうだ。

 まず「方便」だからといって、何でもかんでもそれが許される訳ではない。仏に帰依するきっかけだからといって全てが肯定されていいということはない。差別がきっかけで仏に帰依することがあっても差別は肯定されるべきではない。悲惨な経験が念仏に遇うきっかけになったとしても、その悲惨な出来事自体は良いことでもなんでもない。是認するべきではないのだ。

 仮に「是旃陀羅」という表現が当時の苛烈な差別社会を描写し、これを主題とする文学であったとするなら話は別であるが、『観経』の趣旨はそうではない。松本清張『砂の器』や島崎藤村『破戒』のような作品は、差別を原因とする苦悩や、出来事を描写している点で、差別の現実やその克服を示唆するものではあるが、『観経』はそうではない。

 もし親鸞がこの「是旃陀羅」という差別発言を「方便」と言って是認しているならば、親鸞にも差別性があることを認めなければならない。『教行信証』に関しても、差別表現はいくつか存在しているのだから、差別意識について親鸞が完璧であるなどという必要はない。

「是旃陀羅」という発言は方便に含まれるのか

 そもそも「是旃陀羅」と耆婆と月光が諫言することは韋提希にとっての方便だと認めることができるのかも謎である。

 鶴見氏はこのように述べている。

したがって第四首が、差別と排除を表すその経言に我々への方便の導きを聞き取ろうとした和讃であることは明確である。ここで注意されるのは、親鸞は善導に拠りつつ『観経』に「顕彰隠密の義」を見ていることである。本願を彰すのが隠彰義であるが、方便であるということは粗暴な諫言が韋提希が他力に帰する縁となったことを意味する。

 これは明らかな誤読である。この和讃は『観経』の内容を述べたものであって、その内容全てを讃えているわけではない。ましてや、「是旃陀羅」という差別用語が、韋提希にとっての仏縁となったという解釈は乱暴すぎる。この言葉はあくまで阿闍世に対する大臣らの諫言であって、韋提希はこの場面に存在すらしていない。韋提希が「是旃陀羅」という言葉に対して「なんていう差別的な言葉!こんな言葉が使われるような世界嫌だわ!私は差別のない浄土に行きたい!」などという心境が読み取れる経言や場面は存在しない。

 韋提希が願ったのは「差別のない世界」であるとはいえない。韋提希の苦悩は、夫を殺し自分を幽閉するような子どもをなんで産んでしまったんだろうか、という点にある。それは差別社会に起因するものではないし、仮に差別がなくなった世界でもこの出来事は十分に起こりうる。韋提希の望みはそこにはない。彼女が願った浄土が結果的に差別のない世界だとしても、彼女は「差別のない世界」としての浄土を願った訳ではない。

 韋提希の苦悩は「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる」という言葉に現れている通りであって、「差別のない世界に行きたい!」ではない。

 大谷派は、『観経』は差別を乗り越えるための経典として設定することでその中での差別用語がそれを乗り越えるために用いられたに過ぎないと主張したいようである。例えば松本清張『砂の器』が差別的な表現を用いたり、差別的な場面を描写していたとしても、それは差別に起因する出来事や事件を克明に描き、差別の暴力性や愚かさを文学として伝えているわけだから、『砂の器』における表現を「差別をおこなっている!」と主張することはできない。それと同様の構図にしたいのだろうが、残念ながら『観経』はインドの差別的意識がそのまま転写されているだけで、それを批判的に描写しているわけではないため、「是旃陀羅」は差別表現そのものだとしか言いようがない。

『観経』における顕彰隠密の義について

 最後に鶴見氏は親鸞の「顕彰隠密の義」さえも改変してこう述べている。先の引用と重複するが再度引用しておこう。

ここで注意されるのは、親鸞は善導に拠りつつ『観経』に「顕彰隠密の義」を見ていることである。本願を彰すのが隠彰義であるが、方便であるということは粗暴な諫言が韋提希が他力に帰する縁となったことを意味する。

 これは曲解である。親鸞が述べる顕彰隠密の義(おもてに現れている意味と、裏に隠された本当の意味)とは、『観経』と『阿弥陀経』には、浄土往生のための定善・散善、一心不乱の念仏などの行と信心が解かれるが、それぞれは実は『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の誓願へと導くための方便であるというものである。『観経』で言えば釈尊が韋提希に説いたのは瞑想などを含む定善と、日常的な道徳的実践を含む散善が「顕説」であって、おもてに現れている方便であり、念仏による他力回向の教えが「隠密」の義である。

 和讃から、耆婆と月光らの「是旃陀羅」という差別発言が方便に含まれると断言するのは安易である。

 資料の流れを見てみると、「是旃陀羅」は「ここにいてはいけない」という意味であって差別的な言葉ではないという主張がだんだんと苦しいものになり、「是旃陀羅」は差別や排除を意味する言葉で、それは現実の人間の愚かさや苦悩を表しているという主張が台頭してくるのではないかと感じる。

 「是旃陀羅」は人間の三毒を象徴する表現なのだと主張するものもいる。私はすでにこの主張がどれほど愚かなものなのか理解している。なぜなら同和教育や差別表現について教育を受けてきたからだ。文学作品のなかで殺人は良くても差別発言が許されないのは何故かという問いに答えることができる僧侶が一体この宗門に何人いることやら。

差別主義者のままでいいの?

 我々のような三部経を重んじる宗教者が取りうる適切な姿勢とはいかなるものか。『観経』という経典は念仏によって救われる凡夫を指し示すものではあるが、その経典の中にある「是旃陀羅」という表現には誤りがあると認めることなのだ。この言葉に苦しみを感じる人がいるならばそれを儀式で読み上げるべきではないし、正当化することもできないと反省すべきなのだ。そして、それを認めても『観経』自体が価値を損ねることはないと自信をもたなければならない。頑なにその表現の正当性を主張し、親鸞の意図すら捻じ曲げてしまうことなどあってはならない。

 親鸞の思想に差別を乗り越える力があることは明らかではあるが、表現の面で全く差別性がないということは難しい。現代に至るまで深く差別の問題が追及されており、昨今ではマイクロアグレッシブなど「褒め言葉」に内包される差別性も明らかにされてきている。その状況から鑑みて、800年前の人間が差別的な表現を全くしていないわけがない。

 

今話題の専修学院学院長の佐野明弘さんって京都大学出身なんですか?

 以前非公開希望のコメントで「佐野明弘さんは京都大学出身なのでしょうか」という質問をいただきまして、私は知りませんけれども知人のなかには「彼は京大出身だからね」と確かに言っている人はいます。

 こういった謎のコメントをいただいたのですから一応検索して調べてみたんですけれども、専修学院のホームページや著作物の紹介文にも一言も「京都大学卒業」とは書かれていないようです。

 しかし過去のこのポスターには「京都大学で哲学を学び」という経歴が書かれてあります。 

 あとこのポスターもそうですね。

 佐野明弘さんが京都大学出身かどうかはわかりませんが、「京都大学で哲学を学んだ」そうです。卒業したのか、単に聴講生(正規の学生ではないが講義に出席する人)なのか、ここでは判断ができませんね。(正規の学生ではなく聴講生や単位履修生だったことをこういうふうに表現してしまっているのだとしたら、ちょっとアウトですね)

 結局のところ「京都大学で哲学を学び」という経歴が「京都大学に入学した」あるいは「京都大学を卒業した」ということを指すのかはわかりません。まあ、「京都大学で哲学を学んだ」と書かれてあれば受け取る側は彼を京大出身だと認識するでしょうね。

 専修学院のホームページに載っている経歴には一切「京都大学」とは書かれていません。ほんとうに京都大学に入学、あるいは卒業という輝かしい経歴をお持ちなら書けばいいと思うんですが、なぜなんでしょうか。

 コメントをくれた方には申し訳ないのですが、「佐野明弘さんは京都大学出身なのでしょうか」という質問に対する明確な答えは見つけることができませんでした!ごめんね!

困った時にだけキリスト教の常識を持ち込んでくる大谷派〜「是旃陀羅」問題〜

 是旃陀羅についての大谷派が出したテキストへの批判を書くのに時間がかかっているのだが、最近読んだ『教化研究』171・172号(2024年6月30日)を読んでみたところ、また是旃陀羅問題についての大谷派のトンデモ言説が載っていたため、みなさんにご紹介したいと思い筆を取った次第。

大谷派が抱える経典の「不読」「削除」問題

 現在、大谷派が抱える是旃陀羅問題は大きく二つのチャプターに分けることができる。一つは「“是旃陀羅”という言葉はそもそも差別語ではない」という最新の言説によるものであり、もう一つは「“是旃陀羅”という言葉は経典から削除すべきではない、儀式で不読すべきではない」という言説による。

 この二つの言説は本山を守る御用的なそれであるという点で質的に一致しているものの、後者の議論は「“是旃陀羅”という言葉は差別語である」という前提のもとで議論されているため、前者の主張と表面上食い違うことになる。このようにすでにちぐはぐな状況で議論が同時並行で行われているという時点で、本山では地に足がついた着実な議論や研鑽が積まれていないように思われるのだが....。

 さて「不読」、「削除」はいくつかの“詭弁”によって否定されている。その理由は整理すると以下の通りである。

① 問題のある箇所を儀式の上で読まない、あるいは削除してしまうということは差別問題をなかったことにしてしまうから逆に良くないから、という詭弁(「是旃陀羅」という言葉は差別性をもった言葉なので儀式では用いることは致しません、という注釈やアナウンスがあればそのようなことには絶対ならないし、むしろ無神経にそのままずっと使い続ける方が「なかったことにしてしまう」のになぜかこの理由が言われ続けている)

② 日本の戦時下において国の命令によって、国の都合のいいように経文が削除されたりした経緯があり、時代社会の情勢に教団や教学を対応させ過ぎるのは間違った行いだからという詭弁。例えば名和達宣という研究員の記事にはこのように書かれている。

 戦時下の真宗教団は、天皇イデオロギーに呑み込まれてしまい、国家におもねって聖教の特定の文言を「不拝読」としたり、改変の指示を出したりした。そのことは、社会的な問題につながる聖教の言葉を仏教徒としていかに受け止めるべきか、という本稿の主題(信心の課題)からすれば、厳しく批判すべき、由々しき事態である。しかし見方を変えれば、そこで選び取られた判断は、当時における“正しさ”を追求した結果であったとも言えるのではないか。

 その意味においては、時代社会の情勢に教団・教学を対応させようとするがあまり、ともすれば超えてはならない一線を超えてしまうという、現今の宗門にも通底する、きわめてアクチュアルな問題であると言えよう。(『教化研究』171・172号318頁)

 これは最悪の詭弁である。天皇イデオロギー支配とマイノリティ差別の問題を同一の次元で語り、それに対応することは「超えてはならない一線を超えてしまう」ことらしい。このような発想に行き着いてしまう根本には、差別問題に対してそれが天皇イデオロギーと同様に「外側から押し付けられたもの」という認識を持っているからである。これは解放同盟から差別性を指摘されたことに対して全く頷くことができていない、受け入れることができていない本山の態度を表しているのではなかろうか。

 しかも、このような発言が是とされてしまえば結局今行われている差別問題学習などはほとんど無意味であると言っているようなものである。

 そして、①と②に加えて今回問題にしたいのは「聖典」という概念についてである。議論を先取りして述べると、わたしたちにとっての“聖典”とは一言一句全て原型のままとどめなければならないようなものなのだろうか。それは果たして親鸞のいう仏教なのだろうか。

“「聖典」なのだから、修正してはいけない”という信仰

 名和達宣氏は『教化研究』において、キリスト教の例を引用して以下のように述べている。

 キリスト教では、397年のカルタゴ教会会議において、現在あるようなかたちで旧約聖書(39巻)・新約聖書(27巻)が「聖典canon)」として認定され、現在に至っている。そして聖書中に見られる差別表現に関しては、近代以降も原典(正典)としてのヘブライ語旧約・ギリシャ語新約の聖書は固定されたまま、包含的言語による翻訳というかたちで対応がなされている。それゆえキリスト教教団においては、テキスト自体の言葉を「削除する」とか「読まない」といった手の入れ方は一切しないと、宗教学者の小原克博氏(同志社大学神学部教授、現・学長)は指摘している。それは「同時にそれを超えていけ」というメッセージを聞き取るからであり、またそもそも「正典」たる聖書を、時代ごとの価値判断で不必要とするような議論自体があってはならないためであるという

【中略】

 現今の経典の読誦をめぐる議論において、この──キリスト教の「正典(canon)」に相当する──「正依の聖教」という重大な視点を外してはならないであろう。無論、「聖典と人権」の問題を考えるにあたり、人権の尊重という基本を決して外してはならない。その上で、仏教徒として超えてはならない分限を見定めることの必要性を強く感じる。そして今、私たちが真になさなければならないことは、教団の歴史的罪責を担いつつ、経典の言葉を一人一人の身上において「仏説」として聞き開いていくことではないか(『教化研究』171・172号319頁)

 少々長い引用になったが、ここで言われていることを宗門の現状に照らし合わせて要約してしまうと「キリスト教が聖書を改変しないのと同じように我々仏教徒も時代ごとの価値観に合わせて経典に手を加えてはいけない。是旃陀羅という言葉を削除したり不読にすることは仏教徒としては分限を超えた行いである」ということである。

 さて、ここでの問題は二点である。

キリスト教における聖書という概念と、仏教における経典の概念は同一のものであるのかどうか

②時代ごとの価値判断を仏教経典に持ち込んではいけないのかどうか。言い換えると、仏教とは超-歴史的なものなのかどうか。

キリスト教の言語観と仏教の言語観はもちろん同じではない

 キリスト教の聖書、それは言い換えれば神の言葉であり、「存在」ともいうべきものである。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。【中略】言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書かれてあるように、言葉は神であり、存在そのものであり、創造の起源と考えられている。

 だから、聖書の言葉はおいそれと削ったりできるものではないし、意図的に読み飛ばすことなどあってはならないのかもしれない。時代の風潮に合わせた聖書の改変は神やあらゆる存在を傷つけることになるだろう。

 それに比べて、仏教における言語とは何だろうか。例えば「指月の喩え」にあるように言語とは本質的なものではない。ひとつの伝達手段であって、言語それ自体への固執は戒められるべきある。ただひとつ「南無阿弥陀仏」という言葉だけが特別なのである。

 そして、親鸞が経典を読み替えながら『教行信証』を書いている事実を踏まえると、大谷派がここまで詭弁を弄してまで「是旃陀羅」という言葉に固執している現状は理解しがたいものがある。親鸞はさまざまな経典を読み替え、その作業によって仏教の本質を明らかにしたと言えるため、「経典の改変をしてはならない」という原則は親鸞にさえ当てはまらないし、ましてやキリスト教の聖書観まで持ち出してそのような原則を打ち立てることは間違っているのではないだろうか。ましてや「正依」とされている三部経はオリジナルの原典ですらなく、すでに翻訳されたものであるという時点で、キリスト教と同じ文脈で語るのはやや乱暴な気がする。

 もちろん、めちゃくちゃな書き換えによって読み替えや改変を行うことはナンセンスだが、正しい解釈に基づくものであれば「儀式では読誦しない」という注釈と鉤括弧つきの表現に変えることくらいは行ってもいいのではないだろうか。それが人を傷つける言葉であるならばなおのことである。

 超歴史的な立場を気取り、現実の問題に取り組もうとせず、ましてやキリスト教まで持ち出して仏教を語ることこそ仏教徒として超えてはならない分限をすでに超えているのではないだろうか。

どんどん痛々しくなっていく大谷派の是栴陀羅問題

 最近では「是旃陀羅」という言葉は差別表現ではない、という言説が流布し始めているが、そうであるならば今までの是旃陀羅の学習は何だったのだろうか。差別用語でなければ、法名に使っても差し支えないということになるのではないだろうか。今後の本山の発信に注目せざるをえない。

是栴陀羅に関して準備中

去年か一昨年くらいから活発化している本山の「是旃陀羅は差別発言じゃないよ」キャンペーンに辟易しているので、最大限の批判を行いたいと思います。

本山はテキストまで作っちゃってる状態で言い逃れもできないでしょうから、こっちは焦らず批判の準備をしております。

何かコメントがある方はここに書き込んでいただけると幸いです。

明らかに本山がおかしくなってきている。教学はアカデミックであるかどうか以前に、倫理的に狂った次元にまで陥ってしまっている。

宗祖もさぞお悲しみのことでしょう。

同朋会館のポスターが最悪な件について

まずはこのポスターを見ていただこう。

 これは東本願寺から私のいる寺に送られてきたポスターである。われわれの宗門では本山に御門徒が参詣し、清掃活動を行ったり教えを聞いたりする研修が行われているのだが、これはそのことを宣伝するポスターだ。女性に跪かせ、雑巾をかけさせる写真なのだがこれはどうみても女性に対するジェンダーロールの押し付けである。掃除が女性の仕事だとでもいうのだろうか。

 現代社会では、CM広告やポスターなどにおいて女性に特定の役割を押し付けるような表現があった場合必ず“炎上”がおこる。そのような現状を鑑みると、このポスターは全く適切とはいえないし、そのような批判がどこからもあがらない本山の内部、批判が生じると想像することができない作成の当事者たちに呆れてしまう。ましてや本山には「女性室」というジェンダー問題について対処する部門さえ存在しているというのにこの体たらくである。

 しかも最近では専修学院における狐野秀存による女性差別事件が問題となっているというのに、このようなポスターを作るのは無神経が過ぎるのではないだろうか。

 このポスターには男性が映ってもいいわけだが、なぜかそうではないのだ。「悩み」というものを抱えた存在を表象するのならば青年でもいいし、中年男性でもいい。それにも関わらずここには「跪いて掃除をする女性」のみが映されているのだが、このことについての合理性はどこにあるのだろうか。

 しかし、私はポスター内にもし跪いて雑巾掛けをする男性がいたとしても疑問をもっただろう。「あの日の悩んでいた私に伝えたかった聞法のこころ」とコピーが書かれているのならば、載せるべきは掃除中の写真ではなく聞法のシーンである。掃除と信仰は、禅宗ならともかく少なくとも浄土真宗には結びつきがあまりない。

 私はそもそも「奉仕」という時代遅れの言葉に嫌悪感をもっている。「上山」だの「奉仕」だの、東本願寺は自らを勘違いし過ぎているのではなかろうか。何度かこのような“奉仕”活動に参加したことがあるが、跪いて雑巾掛けをしている横をワイシャツを着た本山職員たちが大した挨拶もせずに通り過ぎていくのはなんなのだろうかと虚しい気持ちになったことを強烈に覚えている。そもそも彼らが着るべきは作務衣である。

 話は逸れるが、私はかねてより宗務役員等の本山勤務者に対して呆れている。先日本山のしんらん交流館に入館したところ受付の職員に一瞥されたのみで挨拶も全くなく、とても不愉快な思いをした。修練という修行もどきの資格取得研修にいったときはものすごく態度の悪い職員に挨拶を無視されたことさえある。

 さて私の考えでは、親鸞の教える仏とは「下の方まで降りてきてくれて一緒に掃除をしてくれるような仏様」である。何もせずに下から上がって来させて、跪いて「女性にだけ」掃除をさせるような仏様ではない。このポスターひとつに、東本願寺の「無意識の差別」がありありと現れているのだ。

 いい機会なので次回は近日中に専修学院における女性差別の問題について論じてみたい。「自覚」の教えがなぜ差別を越えられず、むしろ差別に加担してしまうのかを記事にしてみることとしよう。

大谷派が“是旃陀羅”という言葉を使い続けることへの疑問

 宗門機関紙『真宗』2023年2月号から3月号にかけて書かれていた「解放の教学」という記事について少し疑問に思ったことがあったため久しぶりにブログを更新することにする。執筆者は本廟部出仕・儀式指導研究所研究員の竹橋太という方だったのだが、この方が書いた記事には「意地でも“是旃陀羅”という言葉を教学や儀式から排除したくない」という姿勢がありありと現れていた。感想を端的に述べておこう。どうしたら機関紙にこのような詭弁すれすれの差別記事のようなものを大胆に載せることができるのだろうか。

 最初に「是旃陀羅」の問題についてものすごく簡単に概要を説明しておく。この言葉は『観無量寿経』(以下『観経』)で使用されており、もともとは「チャンダーラ」という被差別階級の人々を指し示すことばである。これは被差別部落の人たちからすると絶え難い言葉であり、宗門内外から儀式での使用を疑問視する声が上がっている。使用をめぐって宗門では現在まで(一応)議論が重ねられてきているが、依然として『観経』の「是旃陀羅」は儀式において読誦されているというのが現状である。

 私はなぜここまで差別性が指摘され続けている「是旃陀羅」という語が依然として宗門内で使われ続けているのかが疑問であった。『真宗』の当該記事ではその使用についての正当性が主張されていたため、それが本当に正しいものなのかこのブログでチェックしてみたいと思う。

「儀式」や「伝統」を盾にした差別の温存

 竹橋太氏は当該記事において以下のように述べている。

仏前での儀式の形は、その経典などが説かれている場に参加するという形になっている。仏や宗祖の前に座り、その教えに耳を傾ける、それが儀式という形で再現されている。だから教えを聞くことに関心がなければ退屈なのである。仮にその関心があったとしても、漢文の音読は大きな壁となる。それなのに音読が守られるのは、実はそれが原典であるという位置付けがあるからである。中国語に訳されたものであっても、それを宗祖がいただいた原典として、そのまま読むことにとって、その経典が説かれた場に、こちらから身を運ぶ。(『真宗』2023年2月号46頁)

 差別語を使用しているにもかかわらず漢訳仏典が儀式で読誦されるのは、その仏典が「宗祖が教えをいただいた原典」であるからだそうだ。これについては了解できる。またこのように書かれていた。

まず儀式という点から考えると、経典など聖典の言葉はそのままいただくものであって、読む、読まないというような議論は基本的に成り立たないように思う。(同上、47頁)

 ここでは「そのままいただくこと」を主張することで「是旃陀羅」を読み上げることの正しさが保たれている。しかし、この主張を踏まえるとなぜこの宗門に「読まない和讃」なるものが存在するのだろうかという疑問が湧く。実際に、親鸞が書いた和讃のなかには儀式では用いられないものが存在しており、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときまう」という和讃がそれである。これは正像末和讃のひとつで、これは「念仏の教えを謗る者は地獄に落ちるぞ」という意味でやや過激な和讃である。声明集のなかでもこの和讃には節符がついていない。

 少なくとも存如(1396-1457)の時代から「コノ讃ヲヒクヘカラズ(読んではいけない)」と伝えられているらしく、おそらく念仏を弾圧した後鳥羽上皇を非難する和讃であるから読んではいけないのではないかと考えることができる(よくわからないので知っている方がいたら教えてください)。

 どちらにせよこれを読み上げることでなんらかの問題が生じるために「ヒクヘカラズ」になっているのであろう。

 そのような事実があるのならば「聖典にあるものは全て“いただかなければならない”」という理屈は通らない。前例があるのだから儀式の観点から言えば、むしろ「是旃陀羅」を排除することは十分に可能なのだ。

 『観経』が三部経のひとつで和讃よりも「重い」ものであるため当該箇所の不読に抵抗があるという感覚は理解できるが、やはりそれが差別用語であり、読誦することに差別性があるとこれだけ言われている現状を鑑みれば不読が妥当であると思われる。しかも、竹橋氏のいうように儀式が「教え」を聞く場であるのならなおさらである。「教え」を伝える法話の場では絶対このような言葉が注釈なしでそのまま使用されることはないではないか。

阿闍世に母殺しを止まらせたのが「是旃陀羅」だからこれは重要な言葉であるという暴論

 この宗門内で繰り返される暴論のひとつに、「是旃陀羅という言葉によって阿闍世は母親を殺すことをためらったのだからこの言葉には意義がある」というものがある。実際、耆婆・月光という大臣たちが「母親を殺すなんていうのは被差別階級のするようなことだからやめなさい」と阿闍世に語ることで阿闍世に母殺しを思いとどまらせたというエピソードが『観経』にあるからだ。

 確かにこれは事実かもしれないが、だからと言ってこの表現が重要だとは思わない。勉強しない子供を叱る母親が路上生活者を指差して「勉強しなかったあんなふうになるよ」と言っているようなもので、極めて無礼で侮蔑的な表現である。しかし、この宗門ではこの表現に対してさまざまな言説を付け加えることでそれを正当化する差別行為が絶えず行われ続けている。

 そのお手本のような詭弁を、竹橋太氏は『真宗』2023年3月号で披露してくれている。ここにご紹介しよう。

つまり、「是旃陀羅」という言葉がなければ、韋提希の命は救われないし、浄土は説かれなかった。そもそも『観無量寿経』も成立しえないのではないだろうか。(『真宗』2023年3月号、49頁)

 ここで披露されているのは、韋提希を生存させたのが差別用語であって、その差別用語が存在しなければ韋提希は死んでしまい、そして韋提希が生きていなければ浄土の教えが説かれることがなかったのだから、この差別用語の存在こそが『観無量寿経』成立の要であるというめちゃくちゃな論理である。

 私からすると、韋提希が生き残るのかそうでないのかはこの経典の要ではない。韋提希が殺されずに済んだ経緯はどうであれ、息子に夫を殺され、自分自身も殺されかけたが生き残ってしまった韋提希が仏に救いを求め、そして救われたというのが『観無量寿経』という経典の要であって、韋提希が殺されなかったということは物語の本質では全くない。

 「経緯はどうであれ結果的に生き残ってしまった韋提希」の存在が重要なのであって、韋提希殺害を思いとどまらせた言葉がどのようなものであったかはさして問題ではないし、それが差別用語である必然性は全くない。しかもこれは事実をもとにしてはいるものの、ひとつの文学、物語なのだから、この言葉に執着する意味がよくわからない。

 そうであるならば、この殺害を思いとどまらせた言葉そのものを儀式から排除することは『観無量寿経』が説く教えを損なうものではない。少なくとも、この差別用語が『観無量寿経』の成立条件のひとつなどという暴論は述べるべきではない。なぜこのような暴論が『真宗』に載ってしまうのか。同和問題解放推進本部は何も思わないのだろうか。

「階級降下」という虚構

 当該記事ではさらによくわからない言説が弄されている。

ごく最近の議論の中で「是旃陀羅」という言葉について、阿闍世の行為の悪逆性を示すのではなく、階級降下というヴァルナ体制の中の概念で考えるべきであるという指摘をいただいた。筆者も『現代の聖典』第三版の訳「それはチャンダーラのすることです」にあるように阿闍世の行為の悪逆性について述べたものだと考えていた。しかし、指摘のように「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という階級降下の言葉と考えれば、「不宜住此」という月光・耆婆のことばも、「是旃陀羅になるのだから、あなた(阿闍世)はここにいてはいけませんと訳すことで論理的に理解しやすくなる。

 竹橋太氏はこのように、「是旃陀羅」は旃陀羅の悪逆性(是旃陀羅階級のものはこういう悪いことをするというような性質)を示すものではなく、「階級が落とされますよ」という階級降下を示唆する言葉であると述べている。したがって、差別ではないのだといいたいのだろう。

 しかし、これはただの詭弁である。身分制度は原則的に行為による階級の移行を認めないはずだからだ。そうであるならば阿闍世への階級降下の示唆はほぼ無意味で、彼への説得の効果を持たない。したがって「是旃陀羅は階級降下を指し示す」という解釈はやや無理がある。身分制度には階級や地位が「汚れる」という考え方はあっても「降下」はありえない。

 もしかすると、釈尊の「人は生まれによってバラモンになるのではなく、行いによってバラモンになる」という、生まれによる身分制度の否定の思想に基づいて階級降下を示唆することは十分に可能であると反論する者がいるかもしれない。しかし、その場合「是旃陀羅」よりも前に出てくる「汚刹利種」は阿闍世が生まれによって貴族階級であることを前提とした記述であるため、その後の「旃陀羅」が仏教思想的に生まれによるものではなく行為の結果として差し示されていると考えることはできない。

 さらにいえば「是旃陀羅」が階級降下を示すことばであったとしても、それは「母殺しをするようなものが位置するべき階級が旃陀羅である」と主張しているわけであって、阿闍世の行為の暴力性や是旃陀羅への侮蔑性を十分に含んでいる。「階級降下」などというよくわからない詭弁を弄して、この文言の差別性を薄めることなどあってはならない。

 さらに当該記事では「それはチャンダーラのすることです」という翻訳が差別を再生産する恐れがあるため、竹橋氏のいうような「是旃陀羅=階級降下」説をもとに「母を殺すようなものは旃陀羅に落とされます」という意訳が推奨されている。しかし、珍説に基づいたこのような無茶苦茶な訳を無理につけるのではなく、「それはチャンダーラのすることです」と訳した上で丁寧な脚注を差し込むことによって差別の再生産は抑止されるだろう。むしろその方が差別意識の自覚につながり、学習の機縁となる。

どれだけ解釈を並べ立てても差別用語の使用した時点でそれは差別であるという原則を忘れてはならない

 差別用語を使用する者は弁解のためにさまざまな言説を弄する。「差別するつもりはない」「〜というのが自分の意図であって、他の人に差別だと誤解されてしまった」、国会でよく聞く弁明である。これと同様の弁明を『真宗』に掲載する大谷派は全く差別問題についての見識が深まっていない。

 どれだけ正当化しようと、差別用語を使用した時点でそれは差別なのであるということを自覚しなければならない。言葉自体がすでに差別の歴史を背負い、意味は言葉のなかに沈殿しているのだ。沈殿した意味は使用されるたびに舞い上がり、拡散されていく。使用者がどのような意図で使ったのかということは全く問題ではない。差別の歴史が刻まれた言葉を口にした時点で、意味は他者に伝わり、ひとの心を切り裂くのだ。だから差別用語放送禁止用語というものに注意しなければならないのだ。誤ってそれらが使用された場合、その使用者は差別の自覚を持たない差別者でしかない。その行為が差別的かどうかの基準は主体の意図とは別のところにあるのだ。

 部落差別、ハンセン病差別の問題について長年学びながら、なぜいまだに宗門がそれを理解できていないのか、私には本当に理解できない。恥ずかしい限りである。

 本山はひとの文章は細かくチェックして、何度も意味のわからない書き直しをさせるくせに、なぜ今回はこのような文章を掲載してしまったんだろうか。これを問題ないと判断した本山関係者たちの神経を疑ってしまう。全国水平社設立の節目、宗門では立教改宗の節目の年でもあるのになぜこのような無神経な文章を掲載してしまったのだろう。

 現在も、同和問題についての学習会が各地で行われ、各講師たちは詭弁を弄し、大谷派の方針を正当化し続けている。このような状況を許していいのだろうか。「これは差別表現である」という前提からまず初めて議論するべきであり、それができていないからこの宗門はだめなのだ。しかもその状況を「学び続ける姿勢」などという嘘で正当化し続けている。どう考えても許し難い。

 さて、本ブログを参考になさっている方は是非各学習会で講師に疑問を投げかけ、大いに議論していただけると有り難い。この問題について肯定的な解説をする講師、「学び続けることが大事」というわけのわからない言い訳をし続ける講師、「是旃陀羅」が特異な問題であり他の差別と比較することができないと言って言い逃れする講師、彼らは全員本山の御用学者たちである。なかには「不読にすることで安易に解決をはかってはならない」という講師もいるが、私から言わせれば不読を決めた上でさらに何ができるのかを考えるべきである。詭弁を用いて結局はなにもせず、内向きの学習会を行うだけの状況を良しとしている意味がわからない。

自力考(中島岳志『思いがけず利他』感想)

 気がつけばブログを一年間も放置していた。とりわけ忙しかったわけではないが相対的にいのち主義や日和見の差別発言などが大きく減り、機関紙もなんとなく思想的なことよりかは歴史的な記述が多くなったように感じ、特にネタにするようなものがなかったというのが原因である。

 最近大谷派でよくみかける中島岳志氏の『思いがけず利他』という本を読んだ。今現在利他について研究しているようで、この著書の中にはさまざまな角度からみた利他が論じられていた。そのなかに親鸞の思想も組み込まれていたのだが、少し疑問に思った箇所があったためここで記事にしておきたいと思う。

他力は自力の延長線上にあるのか

 中島岳志は『思いがけず利他』の最後の方で以下のように述べている。

 「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。大切なのは、自力の限りを尽くすこと。自分で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そうして、自己の絶対的な無力に出会います。

 重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。  

 つまり、他力は自力を尽くさないと出会えない次元だそうだ。ゴロゴロしている人間には出会う資格もないし、他力に出会えるのは自力を尽くした人間に限られるらしい。私はそうは思わないが、多くの“善人”たちはどこか「他力に甘えるな」と言いたげに見えてしまう。

 問題を整理して考えたい。思考を区切って考察していく。

自力とはいわゆる一般的な努力なのか

 わたしが違和感を覚え、議論の積み重ねの障害と考えていることのひとつに「自力イコール一般的な努力」という等式がある。議論の整理のために、ここで一旦「自力」についての親鸞のことばをひとつみてみることにする。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息より)

 親鸞は手紙にこのように残している。自分の身をたのみ、自分のはからいの心で浄土へ往生しようとすることを自力と言う。そして、そこにはさまざまな善根、善いとされる行いが含まれる。その中には一般的にイメージされるような修行も含まれると同時に、親を養ったり年長者を敬う、知識を深めるといった道徳的・世俗的な行いも含まれる。

 そう考えるならば、自力には私たちが通常行うような「努力」が含まれると考えて差し支えなさそうだ。私の違和感はひとつ解消された。しかし、一般的な努力が含まれる三福のような善行を自力と呼んだ場合、中島がいうように「自力を尽くさなければ他力に出会うことはできない」というような言い方は親鸞の思想に沿うものたり得るのだろうか。

 というのも親鸞は悪人が往生できる教えを説くからである。道徳的な行為である諸々の善行が自力だとして、それを尽くさなければ他力に出会えないなどという考え方は親鸞には存在しない。もしそうであるならば親鸞の教えは、ありとあらゆる善い行為を尽くした後で他力に救われる、という極めて道徳的で浅い「善人」の思想になってしまうのではないだろうか。親鸞の教えは悪人が他力に出会える教えであって、極論をいえば悪人を善人にする教えではない。

 三願転入はじゃあどうなるんだ、という疑問を持つ人がいるだろう。それはこの続きを読んでから考えてほしい。 

近代の実存主義から逃れることができていない大谷派

 社会やひとのせいにせず努力しろ、という主張を努力主義とでも呼んでおこう。最近は「どんな状況にも負けず社会のせいにせず頑張れ」と叫ぶ努力主義への批判と「でも頑張るのはいいこと」という二つの立場が共存しているように見える。なぜそう見えるのかというと、努力主義に対する批判は社会的構造を整備しようとする方向に目線が向いており、また後者の方は、与えられた環境・社会構造を生かして頑張りましょうという姿勢なのだから、両者は人間の努力は構造に支配されているという点で思想的に一致している。

 それを前提とした場合、中島が言う「自力を尽くす」「頑張れるだけ頑張る」という主張も別段おかしい話ではないように思われる。しかし、努力というものは構造によって左右されるという話であるなら、努力の先にしか他力が存在しないという主張は極めて残酷だ。人間存在が構造から全く自由な実存であるならば話は別だが、現実はそうではない。

 自力の努力は用意された環境、構造というものに激しく左右される。親鸞は「その構造の中で頑張れ、自力を尽くせ」とは言わない。ただ「努力だの親孝行だの勉強だの金だの、そういうことで人間を評価して比べて競わせて狂わせる、そのくだらない構造とは関係なく他力が往生へと導く」と言うだろう。それは構造の中の弱者を救う思想だ。

自力=努力という図式を壊す

 自力の行は社会構造に大きく左右される。これは私の主張ではない。仏教の歴史観から考えればこの考え方は当然である。東南アジアの僧侶に憧れて日本の僧侶がいますぐ街中で托鉢だけで食料を賄おうとしてもそれは無理だ、なぜなら社会が托鉢に慣れていないからである。

 そうであるならば、もはや「自力」は個人の頑張りや努力云々ではなく「自力を行う領域」である「社会」を問題にするキーワードであり、親鸞はそれを「万行諸善の仮門」(化身土巻)と呼ぶだろう。

 何が言いたいかと言うと「努力を尽くした限界の先に存在する他力」という話ではなく、「善行や自力を可能にしたり、または悪行を生み出したりしてしまうような社会やそれが形成する倫理観の外に存在する他力」という話ではないかと私は思う。

 社会の価値観、道徳、倫理、そういったもののなかで存在している時点で私たちは「万行諸善の仮門」に入っているし、「自力の人」なのだ。そのなかで排除されていても「排除されている」という形式で存在している。ゴロゴロしているような人も、中島岳志のような大学教員から見れば大した努力もしてないように見える人も「自力」の価値観のなかで右往左往して生きているのだ。「自力を尽くしていない人」なんていうのは最初から存在しない。「自力」というものを軸にして生きざるを得ない社会構造のなかにすでに皆んな投げ入れられているのだ。だから、その構造に左右されない救いの力が仏の救済力、願力、他力なのではないかと私は思う。自力の外に他力が存在する、というのはこのような意味で理解するべきなのではないだろうか。

思想と大谷派

 フランクルについての記事でも言及したが、大谷派実存主義的な思想が大好きだ。どんな構造のなかでも努力して信仰していく!という姿勢である。安易に他力に甘えず、自力を尽くして己の愚かさを自覚した先にのみ他力との出会いがあると意気込む。

 戦後に輸入された実存主義的な考え方を「先生の教え」として伝承し続け、しかもそれらは「実存主義」ではなく「先生方のありがたい教え」となった。学問的なラベリングを失い、自分の思想がどこから来たものなのかも、どう言う批判があるものなのかも自覚せず「〜先生の教え」といってずっと受け継がれている。だから議論が進まないし、批判も起こらない。

 そしてそれが親鸞の思想とは全く異なる方向に向かっているというのがなにより問題である。自力諸善を尽くした先にしか他力はない?それなら自力をつくせる善人にしか、倫理的な振る舞いができる善人にしか結局は他力が開かれてこないことになる。

 しかもその「善人たち」もどうせ大して自力を尽くしているわけでもなかろう。「自力」を尽くした立派な人間が大谷派の中のどこに存在するというのだろうか。私は全く見たことがない。中島岳志も、もしご自分を「自力を尽くした人」だと思っているのだとしたらそれは傲慢だ。もしご自分の主張に沿うならば、もっと自力を尽くして自ら親鸞の思想を読み込んでから言及するべきだ。