What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

同朋会館のポスターが最悪な件について

まずはこのポスターを見ていただこう。

 これは東本願寺から私のいる寺に送られてきたポスターである。われわれの宗門では本山に御門徒が参詣し、清掃活動を行ったり教えを聞いたりする研修が行われているのだが、これはそのことを宣伝するポスターだ。女性に跪かせ、雑巾をかけさせる写真なのだがこれはどうみても女性に対するジェンダーロールの押し付けである。掃除が女性の仕事だとでもいうのだろうか。

 現代社会では、CM広告やポスターなどにおいて女性に特定の役割を押し付けるような表現があった場合必ず“炎上”がおこる。そのような現状を鑑みると、このポスターは全く適切とはいえないし、そのような批判がどこからもあがらない本山の内部、批判が生じると想像することができない作成の当事者たちに呆れてしまう。ましてや本山には「女性室」というジェンダー問題について対処する部門さえ存在しているというのにこの体たらくである。

 しかも最近では専修学院における狐野秀存による女性差別事件が問題となっているというのに、このようなポスターを作るのは無神経が過ぎるのではないだろうか。

 このポスターには男性が映ってもいいわけだが、なぜかそうではないのだ。「悩み」というものを抱えた存在を表象するのならば青年でもいいし、中年男性でもいい。それにも関わらずここには「跪いて掃除をする女性」のみが映されているのだが、このことについての合理性はどこにあるのだろうか。

 しかし、私はポスター内にもし跪いて雑巾掛けをする男性がいたとしても疑問をもっただろう。「あの日の悩んでいた私に伝えたかった聞法のこころ」とコピーが書かれているのならば、載せるべきは掃除中の写真ではなく聞法のシーンである。掃除と信仰は、禅宗ならともかく少なくとも浄土真宗には結びつきがあまりない。

 私はそもそも「奉仕」という時代遅れの言葉に嫌悪感をもっている。「上山」だの「奉仕」だの、東本願寺は自らを勘違いし過ぎているのではなかろうか。何度かこのような“奉仕”活動に参加したことがあるが、跪いて雑巾掛けをしている横をワイシャツを着た本山職員たちが大した挨拶もせずに通り過ぎていくのはなんなのだろうかと虚しい気持ちになったことを強烈に覚えている。そもそも彼らが着るべきは作務衣である。

 話は逸れるが、私はかねてより宗務役員等の本山勤務者に対して呆れている。先日本山のしんらん交流館に入館したところ受付の職員に一瞥されたのみで挨拶も全くなく、とても不愉快な思いをした。修練という修行もどきの資格取得研修にいったときはものすごく態度の悪い職員に挨拶を無視されたことさえある。

 さて私の考えでは、親鸞の教える仏とは「下の方まで降りてきてくれて一緒に掃除をしてくれるような仏様」である。何もせずに下から上がって来させて、跪いて「女性にだけ」掃除をさせるような仏様ではない。このポスターひとつに、東本願寺の「無意識の差別」がありありと現れているのだ。

 いい機会なので次回は近日中に専修学院における女性差別の問題について論じてみたい。「自覚」の教えがなぜ差別を越えられず、むしろ差別に加担してしまうのかを記事にしてみることとしよう。