What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

安倍政権と親和性の高い大谷派

 また素晴らしい法話を聞いてしまった。しかし、その前に少し提起しておきたいトピックがある。近頃コピーライター糸井重里への批判が多く寄せられている。散々持て囃されたコピーライターが実は平成に置き去りにすべき遺物だったことに国民は気がついたのだ。コロナ禍のなかで糸井重里twitter上でこのように言った。「わかったことがある。新型コロナウイルスのことばかり聞いているのがつらいのではなかった。ずっと、誰かが誰かを責め立てている。これを感じるのがつらいのだ」、または「責めるな。自分のことをしろ」。このツイートは政府への批判をやめるよう呼びかけるものと捉えられたため多くの人々に批判されることとなった。自分自身に対する声かけだったのだろうが、それならツイートする必要はないし、また多くの批判者たちが行うような解釈に気が回らない時点でコピーライター失格である。

 同じことが先日批判した武田未来雄氏の「人のことを批判する前に自分自身を見つめ直せ」というスタンスにも見られるが、大谷派の言うことはいつも保守的で偉そう、まさに「お説教」である。今日もまた矛盾に満ちたお説教を紹介しておこう。

 本山の名和達宣研究員の法話である。これもYoutubeで配信されているので是非聞いてもらいたい。以前「問い」の重要性を説いていた氏であるがコメントも評価数も非表示になっていて問われることへの非寛容な姿勢をビシビシと感じる・・・まあそれは置いておくとして問題なのは内容だ。

 

www.youtube.com

 法話の内容をざっくり紹介すると・・・コロナで不安な思いが生じてしまうがそれは多くの情報を手に入れても消せるものではなく、不安に立つということが大事(安田理深曰く)。自分(名和氏)も人間関係に悩み絶望して家を飛び出し、東本願寺の門のところで文庫本数冊を夜を通して読んだとのこと。そのとき読んだ本が芥川龍之介羅生門中島敦山月記』、トルストイ『光あるうちに光のなかを歩め』で、それらは絶望的な闇と救いを示す光を指し示す内容であった。真宗を学ぶ中で「光あるうちに闇のなかを歩め」ということの重要さに気がついたことを説明し、親鸞の「無明長夜の〜」の和讃について解説している。人は悩みの闇のなかを生きているが、光が照らしてくれるからこそその闇の中を歩むことができるということ、光が闇を照らしてくれること、闇を闇と知るには光がなければならないこと(…ちょっと中断したいのですが、光と闇って抽象的な言葉が繰り返されすぎて頭がおかしくなりそうになりますし、この話ってもはや真宗でなくても他の宗派、他の宗教でも通る話になってしまうのでは...近代のスノッブが陥りがちなキリスト教化現象が時代を超えて現代でも起こっているようですね)

 まあよくある法話という感じだが、冒頭ではコロナウイルスの騒動では過度な情報によって人々の不安が増しているということが語られた後「不安というものは取り払うべきものなのでしょうか」という問題提起が行われている。結論としては安易に答えを得て不安を解消するべきではないということ、不安は表層的な知識や情報を持って取り払ったり覆い隠してはいけないということ、不安とは日頃の生活の中では忘れられている大事なことと出会い直す重要な機会となる、ということが述べられていた。…全く意味がわからない。この方はコロナウイルスの騒動でこのようなことを感じたそうなのだが、私が思うに今この状況を乗り切るには「情報」が第一であり(誤情報もあるが情報を収集することは重要である)、不安を通して自己自身と向き合うよりも正しく機能しない政府に対して批判を行うべきである。自分自身に向き合っている間に金銭や食料は底をついていくし、末端の僧侶たちは命を削りながら法務をしなければならないし収入が減っている僧侶もいることだろう。こんな時でも人に対して内省させようとするふんわりとした曖昧な姿勢、これは記事冒頭で言及した糸井重里のそれと同様である。いま必要なのは自分の心を見つめ直すことではないのだ。これを「いま、あなたに届けたい」法話として配信するとはいかに。

不安のなかで見えてくることとは?

 少し優しめに考えてみよう。この法話は別に批判をやめろと言っているわけではないし、「不安のなかで見えてくるものがあるのではないか?」、闇のなかでの光の尊さといったことを言っているだけなのだから私のいうことは見当違いなのかもしれない。しかし、この「見えてくるものがあるのではないか」という漠然とした問いかけも、闇と光の抽象的な話にも一切法話としての魅力が感じられない。話すならばどういう具体的な悩みがあり、その問題がどのようにしてある種の解決の方向に向かったのか(あるいは向かっているのか)ということが語られなければならない。また人に「不安を通して感じることはないか」と呼びかけを行う限り、自分が具体的にどのような不安を感じ、その不安がどのようにして作られたものなのかといったことを考えて話さなければならない。「問い」とはそのような緊迫性や具体性をもって行われる限りにおいて意味をもつのだ。

コロナ対策と僧侶

 本山や教務所は法要や研修会の中止を告知するのみでお見舞いの言葉一つもないし、お参りの際にこういうことに気をつけてくださいねという呼びかけすらしない。コロナで不安な思いをしている僧侶や門信徒の皆さんに向けて蓋然的にでもわかっているコロナについての「情報」を発信するべきでは?こんな時こそ、いつも持ち上げている宗門一押しの「お医者様」たちに知恵をお借りしたらどうなのでしょうか?「ともに」なんて言っておきながら、末端で仏事をする僧侶や門徒さんたちのことなど全く心配していない。本山勤務の方達は在宅で給料がもらえて大変結構なことですね、ゆっくり読書などしようかな〜というところでしょうか。私たちも「本山がお参りについてのこういうガイドラインを作っているので〜」という後ろ盾があれば、仏事に関して門徒さんたちにも法事の延期やソーシャルディスタンスの確保などを強く主張することができるんですけどね。

 しかも門徒さんたちの中には失業者もでてくると思うのですが、その場合納金も容赦無く取り立てるんでしょうか。一門徒戸数にかかる納金は末寺がカバーするのが現実的なのでしょうけど、本山はそこのところも全く無視する感じなのでしょうか。ともに、というのならこういうことにも積極的に考えてもらいたいものですね(同朋社会とかいいながら、不平等な人頭税を課しているのはおかしいことなのでは?)。

 こんな時でも「不安を通して気がついたことがあるのではないでしょうか」などという上から目線のお説教しかできないのかと絶望してしまう。大変でしょう、頑張りましょう、心配しておりますといった言葉ではなく、出てくるのは啓蒙教化のお話ばかり。「ともに」は一体どこにいったのでしょうか。こんなときには啓蒙する「私」と教えを聞く大衆という線引きをしているのでしょう。とりあえずは、自らが評価数を表示してコメント投稿できるようにするところからはじめてほしいですね。というか、研究員は法話に不向きなのでもっと法話が上手な人に頼んで配信した方がいいのではないかとも思います。講師料が減って大変な人もいると思うし、そういう人たちに頼んでみてはどうでしょうか、法話が上手な僧侶たくさんいますよ。晨朝法話法話してる人よりも、もっといます。