What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

コロナで死んでも、それはコロナのせいじゃないらしい。

 新型コロナウイルス感染症拡大の中このブログを読んでくださっている物好きなみなさん、いかがお過ごしでしょうか。本業がリモートとなり、ゆったり毎日を過ごしているのですが「“ともに”と叫ぶ本山はこんな時にいったい何をしてくれるのかな」と思って本山の公式サイトを見て見たところ、法話のインターネット配信について知りました。有難く拝聴させていただきましたところ、わたくし的には問題のある法話があったのでご紹介いたします。

www.youtube.com

 武田未来雄教学研究所所員の方の法話で、テーマは「疫癘の御文」。蓮如は疫病で多くの人が亡くなるなか、その死は疫病によるものではなく業の報いであること、究極的には生まれたということが死の原因であることを主張しているそうです。つまり蓮如の御文を持ち出してこの人が言いたいのは、生きているんだから死ぬのは当然、だから疫病で死ぬわけではないということ。そして、人々がそれを受け止めるのはなかなか難しい、動揺してしまうからこそ仏は寄り添ってくれているのだそうだが..........これを今の状況で本気で言っているのならかなりやばい。

 今の状況に照らし合わせると、コロナで死んでもそれはコロナのせいではないし、コロナ感染拡大の制御を行った国家には責任もない、お前が生まれてきたから死んだんだという論理になってしまう。この考え方は現実の現象をすべて単純化してしまい、現実を分析する眼を削ぎ落としてしまう。確かに人が死ぬことの究極的な原因は人が生まれてきたからだということは言えるかもしれないしそれは真理ではあるけれど、我々は真理の世界だけを生きているわけではない。このカオスな状況のなか現実を分析する「方便」こそ重要なのではないだろうか。だから仏教では真理そのものについての研究ではなく煩悩についての研究が盛んに行われてきたのである。「なぜ」という問いをすべて真理に還元して思考停止させるのは仏教ではない。どちらかといえば原始仏教における外道的思考であるといえよう。自然的ではない理不尽な死は現実的に存在するし、その原因が「その人が生まれてきたから死んだんだ」と言うことにいったいなんの意味があるのだろうか。これを馬鹿の一つ覚えのようにしてお通夜で拝読する僧侶にもうんざりする。

 確かに親鸞蓮如も同じようなことを言う場合もあるが、彼らの時代における疫病は制御不可能な自然災害と同様の現象として捉えられているのであって現代とは状況が乖離している。いまや政府はその権力によって疫病をコントロールしなければならないし、そのために我々も年貢ではなく税金を払っている。国民は自分や他者の死の原因を「生まれてきたこと」に還元する必要は全くないし、政府を批判し、権力を持つ彼らに責任を持たせなければならない。以前もこの方の書いた文章を批評したが、この方の考え方で生活すると安倍政権にとっても都合のいい国民のできあがり〜〜〜って感じです。医療ミスで死んでもその原因は生まれてきたことにあるから仕方ない、高齢者の暴走運転で殺されてもその原因は生まれてきたことにあるのだから仕方ないってことになってしまうのでは?

 私にはこれが時機に即した適切な動画だとは思えない。お通夜だから疫癘の御文を読むという僧侶たちの思考のなさにも日頃から辟易するが、コロナだから疫癘の御文について法話をしようとでも思ったのだろうが、重点の置き方がまずい気がする。

 

 先ほどyoutubeでこのページに行くと、高評価と低評価の数も非表示になっていた。コメントは最初から投稿できなくなっている。せっかくの機会だから世間の評価を受けるべきだと思うのだが...。