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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

大谷派と『夜と霧』〜歴史的悲劇は「自己啓発」に変わってしまった

 私は長年、フランクルの『夜と霧』に言及する僧侶の話に違和感を抱いてきた。

先日新聞の記事でこのような文章を目にした。「近日驚いたが、今日の意識の高いビジネスマン向けの書き手には、名高いフランクルの『夜と霧』ですら、ナチス絶滅収容所を生き延びた著者の『“強さ”に学ぶ自己啓発本』として扱われるらしい」。歴史学者の與那覇潤という方の文章だが、ここには歴史に刻まされた悲劇すら自己啓発に変えてしまう現代人に対する皮肉が込められている。

 この視点が、大谷派においてフランクルを持ち出すことは果たして正しいことなのだろうかという、忘れかけていたかつての私の疑問を呼び覚ましてくれた。だから、今度はしっかりとこの違和感を言語化し問題の輪郭を描いておきたい。思いつきで綴った乱文だが、興味があれば読んでいただきたい。

 大半の僧侶からすると「何を言っているの?」という感想しかないかもしれないが、わかる人がわかってくれたらそれでいい。この文章は「問われている者」にしか通じない文章なのだから。

態度価値、意志の自由…?

 『夜と霧』はナチス強制収容所を生き延びたユダヤ精神科医ヴィクトール・フランクルによって書かれた名著で、『アンネの日記』と並んで、ナチス政権下のユダヤ人迫害を知る上では欠かせない書物でもある。またそれ以上に、現代では先述したような“生存”のための「自己啓発本」のようなものとしても注目を集め続けているらしい。

 フランクルは、人間が「意志の自由」「意味への意志」「人生の意味」を有するという人間観のもとで、患者において無意味と化してしまった事物や行為を意味の世界へと再編成させることで精神疾患を治療するという「ロゴセラピー」を提唱している。

 彼は、意味を見出すことができる価値のあるものを三つのカテゴリーに分類している。「創造価値」(職業や趣味等での活動に含まれる価値)、「体験価値」(自然や芸術の鑑賞に含まれる価値)、「態度価値」(その都度の状況に向かって何らかの態度をとること、またその勇気に含まれる価値)である。

 大谷派ではとりわけ「態度価値」というものが取り上げられる。絶望的な状況であっても「意志の自由」が保証されているわけであるからその状況に「どのように向き合うか」ということは選択可能であり、そのことには重要な意味がある…と、しばしば僧侶たちは声高らかに発信している。また「意味」というものは自分自身が主体的に探し出すものではなく、「人生」そのものが自分自身に対して期待するものであるという趣旨のフランクルの思想も、大谷派おきまりの「自我が破られる」、「“わたし”中心ではない」といったフレーズとミックスして多用されている。

 さて、かなり乱暴ではあるがさらっとフランクルの思想に触れてみた。では、以上の要約から導き出される問題点とは何だろうか。

意志の自由は存在しない

 さて、フランクルが原則として掲げる「意志の自由」は果たして仏教的には正しいといえるだろうか?また、意志の自由を前提として語られる「態度価値」というものは真なるものといえるのだろうか?

 私は「意志の自由」に同意できない。意志が絶対的に自由なものであるなら、意志という実体を認めなければならなくなるが、仏教では実体という概念は認められないからだ。全ては因縁でつながっているのだから、意志がそれらから独立して存在することはありえない。

 ALS患者の安楽死の問題を考えると、このような主張を裏付けることができると私は考えている。安楽死を「意志」するALS患者のその意志というものは、決して自由のなかで生じたものではない。安楽死という選択が行われるのは、この世の中があまりにもALS患者にとっては生き難いもので溢れているからである。病者の生きづらい世の中で、病んだ者は「安楽死の方が良い」という考えを持つに至るのは当然のことだ。

 もし、ALS患者が自らが生きる意味を見出せるような社会の中ならば、安楽死という選択は生まれない可能性が高い。1月の同朋新聞の記事で教学研究所の難波研究員が書いていたように、患者が自己に準拠して意志しているのではなく、社会の方がALS患者の意志を形成しているのである。このように考えると、とても「意志の自由」や「態度価値」といったものは認めることができない。

 もちろん、ただ状況に流されるのではなく仏や神という超越者との強力な縁によって意志が変わる場合もあるが、その場合意志は独立などしていない。また超越者との関係も、そこにたどり着くまでの縁が重ならなければならない。すべては「縁」との関係で変化しているに過ぎない。独立した実体的な意志が決定することに価値をおく、これは仏教的には外道的な幻想ではないのだろうか?

フランクルの言う「人生」

 この宗門の人々は、フランクルユダヤであるという前提をいとも簡単に無視してしまう。なぜかはしらない。無知なのかもしれない。ユダヤ人のユダヤ性、これは決して無視してはならない。真宗門徒真宗性は過剰に強調するのに、ユダヤ人のユダヤ性には注目しないようだ。

 2020年9月10日のアメリカの“Tablet”というマガジンに掲載されていた文章が面白かったので翻訳して引用しておきたい。拙訳で申し訳ない。

www.tabletmag.com

“If there is a meaning in life at all, then there must be a meaning in suffering,” Frankl writes in Man’s Search for Meaning. “Without suffering and death human life cannot be complete.” Frankl sees the agonies we endure as what the Talmud calls yisurin shel ahava, the punishments of love, tests imposed by God to bring us closer to righteousness. And so the human being has what Frankl calls “the chance of achieving something through his own suffering.”

 

「人生に意味があるのなら、苦しみにも意味があるに違いない」、フランクルは『夜と霧』に書いている。「苦難と死がなければ、人生は完結することができない」。私たちが耐える苦しみを、タルムードが言うところの「イシュリン・シェル・アハバー」という愛の罰、私たちが正義に近づくために神によって与えられた試練だ、とフランクルは理解している。だから、人間は「自身の苦難を通して何かを得る機会」とフランクルが呼ぶものを有するのである。

 フランクルは人生における苦難を「神からの罰」と解釈することで、そこに意味を見出そうとしている。つまり彼の思想において、意味の付与には絶対的に神が関与している。神抜きには語ることができないフランクルの思想を、僧侶たちはそのまま引用し迷走し続けている。

 走り続ければいいと思う。津波地震の被害、過酷な状況にあった人たちを前にして、「人生の意味」を投げかけ偉そうな説教を並べればいいではないか。

全てに意味を持たせることは正しいことなのか

 一神教の世界でも、すべての困難や障害に意味を付与することを躊躇う人ももちろんいる。こどもの死や、伝染病など、人間が被る悲しい出来事を安易に神に結びつけるべきではないのだ。ましてや強制収容は神とは全く関係のない、ただただ愚かな人間の所業である。仏教的に考えるならばなおのことだ。

 だから、人生における出来事にすべて意味を見出す必要などないし、その必要性を提示することは時として暴力でもある。意味のあることもあるが、そうでないこともある。それをしっかりと線引きしておかなければならない。「無駄なことなどないんだ」という安易なフレーズをみんな好きになってしまう誘惑はわかるが、そこは冷静に立ち止まって思想的なことを考えなければならない。なんだか良いことをいっている感じの言葉からわれわれは卒業すべきだ。

フランクルの武勇伝

 フランクルは、人生に絶望した者たちが死んでいったと記した。そして、自分が人生に期待するのではなく人生が自分に何を期待しているのかを問うことが大事だと述べた。生き残れるかどうかの線引きは、この主客の転倒にあるようだが、はたして「生き残る」ことそのものが正しいことなのだろうか。生き残れたからなんだと言うのだろうか。「生き残った者」の有様が全ての真理なのだろうか。私はそうは思わない。

 大乗仏教の趣旨からすれば、わたしたち僧侶は生き残った者の強さに学ぶのではなく、生き残れなかった人たちの心を大切にしなければならない。そして「生き残った者」を手放しに礼賛し英雄化することも馬鹿げている。彼らは彼らで、ただ単に「生き残りました」では済まされないような心境やトラウマを抱えざるを得ないからである。実際に生き残れたか否か、それは当事者にとっては生きるか死ぬかの境目なので大きな問題ではあるが、第三者のわれわれがその線引きにおいて本質的なものを見いだすことができるかどうかはわからないのだ。

 フランクルへの安易な言及は、「どんな過酷な状況でも、考え方を変えれば生きていけるじゃないか」というメッセージの発信にもつながる。個人の意志云々だけで自殺が止められると考えている人がいるのなら、その人はあまりにも無知だ。

 「でもフランクルは生き残ったじゃないか、その生存の事実はこの思想が人に希望を与えたことを証明している」という人もいるかもしれない。しかし、フランクルの生存が果たして彼の思想によるものなのかどうかということを証明するものは何もない。収容所にいた日数、収容所それぞれの違い、本人の置かれた境遇、性格、身体的要素など、すべて関係しているはずだ。ましてやフランクルアウシュヴィッツという最悪の収容所にいたのはわずか2、3日ほどだという話もある。

“自分中心で物事を見ていた”の連発にそろそろ飽きた

 同朋新聞読んでもちょっとした法話を聞いても、全部「自分中心で物事を見ていた…」「自分が問うのではなく自分が問われる」「自我から解放…」というフレーズばかりで飽きてしまった。この状況がもう何十年も続いている。戦時中はみんな個体という自己を奪われ、全体主義の中に吸収されてしまい“自分中心”のあり方を奪われてしまったというのに。自己中心的なあり方を云々、こればかり連発されてしまうとさすがに恐怖を感じてくる。

 自己中心だとかいうけれど、もはや現代では国家や資本の流れによって生み出された思考や欲望が問題となっている。問題とすべきは、自己に準拠していない欲望に振り回され、傷ついている人間主体の方なのに、大谷派はいまの時代でも延々と「自己中心」「自我の殻をやぶる」だの、鬼の首を取ったようにして偉そうに宣っている。自己中心的ではない欲望に振り回されていることこそ、われわれが問わなければならない問題なのではないだろうか。

 大谷派の思想的なトレンドはずっと20世紀のままだ。何よりフランクルをずっと引用し続けること自体が時代遅れだ。

 むしろ今時は「自分を大切にするとはどういうことか」ということを伝えた方が人々は耳を傾けてくるのではないのだろうか、と私は思ったりもする。資本主義社会が作った欲望に振り回されずに、自分を大切にするとはどういうことか、そういうことを考えるべきではないのか。もちろん誰かのいうような「良いところも悪いところもあなた自身、自分を丸ごと愛せないものが他人を愛することはできない」などというお説教とは違ったアプローチで、である。