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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

冷たくなった大乗仏教:本多弘之氏の「親鸞思想の解明」について

 このどうしようもないブログも細々と続きながら、アクセス数はなぜか異常な程多い。一体どんな人が見ているのか皆目検討がつきませんが、皆様は仏の四十八願をちゃんと言えますか?在家の人はさておき、僧侶や寺族には漏らさず知っておいて欲しいところ。

 そんなわけで今回は四十八願の中の第三十八願「衣服随念の願」について考えたい。もちろんこのブログは批判という形式を取るので、その対象が必要となる。

 対象となるのは親鸞思想の解明:研究活動報告:親鸞仏教センター

第三十八願ってどんなの?

 第三十八願は「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」という願。

 仏様が作った国の中で、人々が服を欲しいと思ったら、その思う通りに服が手に入るように、そしてまたその国のなかで裁縫や洗濯、染色をする人々がいるようなことがあるのならば私は正覚を取らないということが願われている。

 洗濯や裁縫とは少し庶民的な話題に感じられるかもしれないが、これをどのように解釈するべきだろうか?

本多弘之氏の「冷徹な」解釈

 さて、ここで参考にするのが、本多弘之氏の解釈。

これは文字どおり、物が与えられるというふうにも読めますが、法蔵菩薩の本願の意味を考え直して見ますと、それは、人間個人の思いを超えて一切衆生の生きることの一番根に呼びかけている。生きるために悪戦苦闘している人生に、悪戦苦闘しなくてよい条件を与えようという呼びかけなのですが、それは物を与えることが目的なのではなくて、願に触れることが本当に生活になるなら、そこで生きることの意味が変わる。仏陀の願いに触れて立ち上がって見ると、生活のために人間の欲で欲しいと思っていた物が与えられるのが救いなのではなくて、願を生きるところに、願を生きるだけのそれ相応の生活物資に恵まれていることが見いだされてくる。そういう意味転換が深い意味では考えられるのではないかと思うのです。衣食住といった問題は、もう本当に物がない時代であれば切実な願いかもしれません。けれども、この切実な願いが満たされたら宗教的に人間存在の意味が満たされるわけではない。人間の欲は満たされるけれど、欲が満たされることが人間の救いではありません。

 つまり、この第三十八願は人間の物質的幸福を願うものではないらしい。それが満たされることは人間の救いではなく、仏の願いに生きるにはすでに十分な生活物資に恵まれているということに気がつくことが大事らしい。つまり、物による幸福ではなく宗教的な幸福に気が付きなさいという願が第三十八願らしい。

そんなわけないだろう

 衣食住の問題は人間存在の意味が満たされるものではない?本当にそうだろうか。衣食住は精神的な幸福とは無関係なものなのだろうか?第一「浣濯」「擣染」といった言葉が出てくる時点でインドのカースト制度を思い浮かべるのが当然ではないだろうか?したがって衣食住の問題はただ着て食べて住むというだけではなくて、常に差別の問題と繋がっている。差別は人間存在の意味の剥奪に関わるし、それが精神的な幸福と無関係だと言うのは間違っている。これを単に人間の低次元な欲求だと考えるのは何か頑なな感じがする。

 洗濯や染色は不可触民の仕事であると決めるカースト差別を意識し、その差別をなくしたいという願いが第三十八願から感じ取れる。とても広く、暖かい願いである。いや、もしカーストでなくても洗濯の辛さというのは冬であれば大変な苦労であるし、裁縫も同様である。洗濯や裁縫は、インドのカースト制度の問題に限らず、日本では男女差別の問題とも関係している。「ただの家事」と思って侮っていてはいけないし、これを単なる比喩として読み解こうとするのは余りにも冷徹。これがどんなに切実なものか、洗濯裁縫等を手作業でこなしてもらいたい。

 私はもちろん物が手に入るということだけが幸福につながるとは思っていない。しかし、物質的ではなく精神的なものが大事というような安易な思考もどうかと思う。「救い」というのはそこまで単純な話ではない。しかし本多氏の解釈が用いているのは「精神的幸福」対「物質的幸福」という極めて近代的な二項対立の図式だと思われるが、この思考自体正しいとは言えない。この近代的で古びた線引きは本来仏教的な立場から見れば廃されるべき虚妄ではないだろうか。この図式を「問う」日はいつ来るのか。

自覚の末路

 私は物質的にも恵まれて育ち、大学まで行かせてもらった(この宗門には、大勢が高卒で就職している時代に一浪して私立大学に入学し大学院まで進んだにも関わらず自分のことを「こんなに苦労した人間はいない」と堂々と言い放つ方もおられますが)。それに、切実な思いの中洗濯や裁縫をしているわけでもない。だから「教えを自分のことに引きつけて、自分との関わりの中で考えなさい」と教育されたなら、この三十八願を物質的な豊かさのことではなく、それよりももっと高次の次元について言っていると解釈しただろう。しかし、私は自分に引きつけるとかそういうことに関心がない。自分に寄せた解釈を実存的、あるいは信仰主体的、実践的と安易に形容するのはもうやめにしよう。

 私にとってはその願いの広さが重要なのである。自分がその内容に関わろうがそうでなかろうが、その願いが自分とは全く別の場所の地球の裏側の人々や自分とは違う時代に生きる人々にも通用するようなものでなければ意味がないと思っている。そうでないならば私は仏の願など信じないし、無意味だと思う。

 自覚を大事にした教えは、部落差別問題をないがしろにしてきた。怒りの声によって動物的な恐怖を感じるまで、そんなことはどうでもいいと言ってきた。「自分に引きつけて考える」、「自覚」、「自己とは何か」、そういうことだけを主題とする限り、差別を黙殺する構造が変わることはない。この本多弘之氏の解釈が実にそのことをよくあらわしてくれている。こういう解釈にいつもがっかりさせられる。差別の問題は教えとは別、事故のようなものだと思っている人がよくいるし、それが個人の心がけ次第だと思っている人がいるが、そうではない。心がけ云々だと思っている人は、歴史や思想に対して絶望的なほど無知なだけだと思う。

本当の豊かさっていうけれども

 繰り返し言うが、もちろん私とて物の豊かさだけが幸福につながるとは思っていない。しかし「物の豊かさは幸福ではない」っていうのは古臭いし、近代人が啓蒙したがる類のものだと思う。それはそれである時代においては社会と相応していたからこそ諸々の先生方はそんな話をしていたのであろうが、現代の人々がそれに縛られる必要もないし、もっと時代と対応した解釈を考えるべきである。それこそ仏の願はどんな時代のどんな人にも当てはまる大いなる知恵なのだから、その時代ごとの人々が解釈していけばいい。

 「現状肯定」「そのままでよい」っていう教えは革命が困難で、耐え忍ぶことの意味づけが必要とされる時代においては効果を発揮するかもしれないし、耐えて生きている人の支えになったかもしれないし、それが江戸時代の真宗だったのかもしれないが、現代はそうではない。「現代と親鸞」というテーマをよくよく考えていかないとね。