「やまゆり園事件」以降、法話で障がい者差別について語る僧侶が増えてきた。しかし、機会が増えてきたとはいえ語るにあたっての思慮や考察があまり十分ではないと思ってしまうことがほとんどでがっかりしてしまうことが多い。今回は2019年9月号『ともしび』に掲載された東本願寺日曜講演抄録を読んで「う〜ん」という感想を覚えた。話し手は佐野明弘という方だそうだが、内容についていくつか考えていきたい。
意味を感じていきたいという思いが、差別的な発想の根底にあるのです。特に現代では、老いや病によって何かができなくなっていくということを、多くの人が恐れています。にもかかわらず、そうした者が受け入れられるような社会にどうしてならないのでしょう。人間が自らの存在意義を自らで見出さねばならなくなった近代以降は、私たちはことに強く自らの行動や存在の意味を求め、人生を有意義にしたいと求めていきます。
確かに有意義なものを求める傾向は、無意味なものを排除するということにつながる。そうなってくると、老いや病、または障がい者も意味のないものとして排除されてしまうのかもしれないが、「意味」そのものは本当に差別的なのだろうか。話者は「意味」に関して、ALS患者の方のことばを引用していた。
「(動くこともできずに生きていることに)意味などないと思います。」(中略)「生きることに意味があるとかないとかは、人間の尺度で決めたいのちでしょう。こうして存在していることの前には、意味があるとかないとかは、大した問題ではないと思います。」
どのような生き方に意味があるのか、意味がないのかということではなく、存在するということ自体は意味を超えたものであるというのがこのALS患者の方の主張だと思います。意味に執われることは動くことも、何もできない人生を排除してしまうことにつながるが、この場合ALS患者の方が言いたいのは意味と無意味の対立というよりかは存在すること自体に意味があるということだろう。
ところで、後述するが話者は「意味」そのものを差別的なものととらえ、そこからの脱却が仏道であり、私たちにその「脱却」は不可能であると述べている。
意味を乗り越えることは不可能なのだろうか
話者は意味の世界からの出離について以下のように述べている。
意味の世界(生死)を出ること(出離生死)こそが仏道でありますが、その仏道の中にあっても私たちは意味の世界を全く出ることができません。ですから差別を離れることができないのです。生まれてから差別をかかえこむのではなく、差別をかかえて生まれてくるのが私たちなのです。(中略)一切の思想や一切の宗教、科学技術によっても、意味の世界を出ることができないからこそ「痛焼の衆生」なのです。
つまり、この方は障がい者を差別するような意味の世界から「私たち」は抜け出ることができないとしている。無意味のなかに生きるというのはほとんど悟りの境地のようなものと捉えるのならばそうかもしれない。この状態に到達することは凡夫には可能ではないが、この考え方が極端化されてしまうと「みんなが本当は障がい者を差別する心を持っていて、しかも抜け出すことができない」ということになってしまう。それでは、障がい者差別の克服は真宗においては不可能なのだろうか。
障がい者を差別するのは「意味」ではなく「意味の歪み」
「意味」そのものは悪ではない、「障がい者を差別するような意味」が問題なのである。役立つ、役に立たないという視点に関しても「障がい者にとって役に立つ」という観点は福祉の上では重要であるし、「障がいを持っている私にとって意味のあるもの」という障がい者自身の考え方も勿論重要である。「障がい者は役に立たない」と結論づけてしまうような意味付けが問題なのだから、意味そのものを否定するのではなく、差別的な歪んだ意味に修正を加えるような教えがなければならないと私は思う。意味が悪で無意味の世界が素晴らしいという対立を語るのではなく、「歪んだ意味」がどのようにして出来上がってしまったのかを考え、それを解きほぐすのが智慧なのである。
「人間は障がい者を差別してしまう悲しい存在であり、その悲しみの上に如来の本願が響く」という教えというのはあんまりである。直接的に話者がそう言っているわけではないが、話の道筋としてはこういうことになってしまう。これは差別する加害者だけに向けられた本願を語っているだけで、障がい者の方達にとても失礼である。機の深心と法の深心、「差別してしまう愚かな私」と「そんな私でも仏法に救われる」という二種深信を機から法という安易な図式において捉えがちな宗門において、このような結論が導き出されてしまうのは必然であるとも言える。
如来の本願、仏の教えがあってこそ、人は差別的な考え方から抜け出すことができるという順序でなければ、また親鸞の教えは何人も差別せず望む者すべてに救いの手を差し伸べてくれるという話でなければ、僧侶が障がい者差別についての諸問題を語る意義は全くないと言えよう。
この方の考え方だと仏教とは個人個人が自らの差別心を見つめるだけで、障がい者に対する援助や福祉を考えるということに全くたどり着かない。「私は差別的だ」という宣言に一体なんの“意味”があるのだろうか。人助けや福祉は親鸞の教えの本質ではなく、自己における「自覚」のみが問題であるという人もいるかもしれないが、それでは被差別部落の問題は一体何だったんだろうか、「御同朋」と散々言ってきたことの意義は一体何だったのだろうかということになってしまう。
仏法によって差別を乗り越える
「仏法によって差別心を完全に乗り越える」、これは一足飛びには無理かもしれないし、私たちは差別する心から完全に離れた悟りの境地にたどり着くこともできないが、「障がい者を差別する」差別心や考え方から抜け出すことはできる。「障がい者は役に立たない、自立していないから無駄だ」という言葉があるとき、「自立」や「役に立つ」とは一体どういうことなのか考えてみるべきだ。単に「役に立たない」ことや非生産性を矢鱈無闇に礼賛することではなしに、健常者が障がい者と違って自分自身を「役に立っている」あるいは「自立」していると思っている根拠は何か、それはどういう状態なのか、本当に私たちは障がい者と異なるのか、どのような視点において異なるのかということを考えてみるべきだ。
仏法に頼らざるを得ない自分自身が見えてくれば、自ずと答えは見えてくる。そして、福祉の必要性や「ともに生きること」の大切さがわかってくるのではないだろうか。この点に関してはそれぞれで考えるべきで、それを法話にして伝えるべきなのだ。自覚や自己自身の差別性に気がついた、という話のためにやまゆり園事件を持ち出すのはやや軽率な気がしてしまう。
凡夫の自覚を追求し、自らの差別性を悲しむのなら、「障がい者への差別はやめることができない我が身に本願が輝いている」という宣言がもつ差別性をさらに突き詰めるべきである。突き詰めた結果を私が代わりに答えておこう、この宣言は痛みや愚かさの自覚ではなく、タチの悪いナルシシズムだ。ナルシストの「あなた」が、今障害者の前で問われているのだから、責任を持って思考を続けなければならない。