What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

東本願寺の企画調整局参事 橋下真氏の「ご本尊」という法話に対する感想

 先日、批評のための資料が本山からたくさん送られて来ました。同朋新聞や「今日のことば」などの各種リーフレット、くだらないチラシ等・・・そしてインターネットで配信されていた「いま、あなたに届けたい法話」が収録された冊子です。本山から法話が配信され始めた当初たくさん批評したいなという気持ちはありましたが、動画の視聴は時間も無駄に使ってしまいますし、引用は自ら文字起こしをしなければならないので難しかったのですが、今回文字起こしされたリーフレットが届いたので助かりました。

 今回は企画調整局参事の橋本真という方の法話を参考に批評を行いたいと思います。

15年前の公共広告機構のCMについての曲解

 橋本氏は15年前の公共広告機構のCMについて言及し、いのちの深さや大切さを説いているようです。

いのちの深さからのはたらきかけを大切に、というと、そんなことはいちいち言われなくても、一度聞けばわかることだし、そんなものより、病気といった困っている状況が改善されることや、もっと優先しなきゃならないことがあるんじゃないか、という声が聞こえてきそうです。しかし、はたしてそうなのでしょうか。

 ここで私は、十五年前の公共広告機構(現:ACジャパン)のCMを想い起こします。覚えておいでの方もおられると思いますが、こういう言葉でした。

 命は大切だ。

 命を大切に。

 そんなこと何千何万回言われるより

 「あなたが大切だ」

 誰かがそう言ってくれたら

 それだけで生きていける。

当時、賛否両論の言葉だったようですが、私には非常に大切な実感を語っているように思われます。「命は大切だ」という言葉を、頭ではわかっているのです。しかし、どうしてそれを直接言葉にして投げかけられなければ、生きていく力にならないのか。それは「理解」と「実感・体感」は別物だということでしょう。実は、いのちとは何であるか、そしてそのいのちを大切にするとはどういうことであるか。わからないまま、自明のことにして理解しているつもりになっているのではないでしょうか。

 うーん、こうきてしまうのか....抽象的な概念である「いのち」を用いて自殺防止の啓蒙をしても効果はなく、「いのち」という言葉を用いずに対面にいる他者が「あなた」という二人称で呼びかけを行い、「生きている本人そのもの」の大切さや固有性を伝えることが大事だとこのCMは伝えたかったはずです。このCMはいのちという言葉の抽象性や空虚さを辛辣に批判するCMであるのにも関わらず、橋本真氏は「いのち」という言葉にしがみついています。「実感」が大事だと橋下氏は語っておられますが、その点については私も同感ですが、それならその実感を阻む「いのち」という語彙に対し批判を向けなければならないのです。彼はCMの意図を論理的に理解しているとは言えません。

 また多くの大谷派僧侶のように、無量寿を「いのち」と解釈しているようですが、無量光と無量寿は本来、阿弥陀仏の教えの空間性と時間性を表現する言葉であるということを理解しなければなりません。仏は生命の大元ではありませんし、仮にそうだとするなら浄土真宗プラトニズムと同じであると言わなければなりません。無量光はどのような場所にも教えが届くこと(空間性)、無量寿阿弥陀如来が絶えることのない無量の命をもつことによってどの時代に生きている人にも教えが届くこと(時間性)を指しているのです。釈尊の命は有限であるため、教えの届く範囲は同時代に生きた人にしか伝わりませんが、その代わりに阿弥陀仏は無限の命をもってどの時代に生きる人々にもその救いの手を差し伸べることができるのです。

 これほどシンプルな前提があるというのに、なぜこうも本山はロマン主義者のように考えを捏ねくり回してよくわからない解釈を主流にしてしまうのかが全く理解できません。

障害者差別の問題を雑に扱うのをやめてほしい

 佐野明弘氏について書いた記事でも取り上げましたが、大谷派は障害者差別の問題の扱いが雑すぎます。

shinshu-critique.hatenablog.com

 今回の橋本真氏の法話ではこのようなことが書かれていました。

 評論家の芹沢俊介さんが、相模原障害者施設殺傷事件について語られる中で、いのちの優劣という問題について、自身の体験を語っておられました。芹沢さんにお子さんが生まれる時、自分としては男でも女でもいい、常々そう思っていたそうです。そこでよくあることとして、友人から「男・女どっちがいいんだ?」と聞かれた。常々思っていたことですから、「どっちでもいいよ」と即座に答えたら、その友人が「五体満足無事ならね」と返したそうです。

 おそらく友人には全く悪気も恣意的なものもなかったのでしょう。けれども、その言葉から自分の中にある無意識のものに気づかされた。ハッとさせられたというのですね。子どもが生まれてきて、医師や看護師から「特に何も言われなかったら安堵がある。これはどうしようもない」と語っておられます。

 実は、私たちの心の奥底には、「皆そうだよ」「そう思うのは当然だ」と言いながら抱く「五体満足無事に生まれてきてほしい」という願いの下に、私の都合に合わせようとする“ものさしの私”がいるのではないでしょうか。子どもを迎える芹沢さんが、友人とのやりとりのなかで見せられてハッとしたのは、そのものさしの自分の姿だったのだと思います。ハッとさせられる、ということは、頭ではいのちの大切さを理解しながらも、そのことが本当に見えていなかった自分自身を知られてたということでしょう。これこそ、はたらきにふれた姿ではないでしょうか。

 佐野明弘しかり、ここでもまた障害者の存在が差別心の気づきのきっかけになってしまっています。障害がない子を望んでしまうのは、この世があまりにも障害者に対して差別的であり、制度や社会システムが整えられていないことに起因していると私は思います。つまり私たちの差別心は人間の根源的な罪業性や「ものさし」の自己に起因するものではありません。実際に芹沢俊介が生まれてくる子どもが「男でも女でもいい」と言っていたことがそれを証明しています。かつての男尊女卑が当たり前だと言われていた世の中であれば芹沢俊介もそうは思わなかったはずなのに、時代が変わって親が生まれて来る子どもが「男でも女でもいい」と思えるようになったのであれば、この先社会が変われば障害者に対する意識も変化するはずなのです。

 私は自己の差別性を個人の意識にのみ還元させていく思考の無意味さを糾弾します。仏教ならばなぜ差別心が構成されていくのかを智慧によって紐解いていくべきであり、そしてそこに結びついた社会や制度の問題を提起すべきです。すべて自己の差別心に還元されるのなら、「差別はなくならない」という最悪の結論になるしかありませんし、または「差別をやめよう」という空虚なメッセージ配信に帰着することになります。障害者が暖かく迎えられ、尊ばれる社会ならば私たちはその差別心を乗り越えていくことができるはずです。自分の差別心に気がついたのであれば社会の矛盾や滑稽さ、冷徹さを糾弾し、どのような社会を作り上げていくべきかを提起すべきだと思います。それができないのであればやまゆり園の事件を軽々しく取り扱うべきではありません。(反対に、同じく『いま、あなたに届けたい法話Ⅰ』に収録されていた教学研究所研究員難波教行の法話はとてもよかったと思います。やまゆり園の話を持ち出しながら実感や考察が語られていたため、言葉尻に反応しがちな私でもそれを超えて話者の意図が伝わるよい内容でした。)

 ついでに言うと、これはハンセン病の問題にも当てはまります。人間個人の根源的な差別心や罪業性などという視点だけでハンセン病差別の問題を語るのには限界があります。この差別の問題の根幹にあるのは医学的知識の拙さと、啓蒙の怠慢にあると私は考えています。つまり、正しい知識を与えて人間を教育していれば差別は乗り越えられたはずなのに、これを個人の差別感情の問題にのみに焦点をあてて論じるのははっきり言って勉強不足です。差別はいつも誤った知識によって生じる、ということを知らないのでしょうか。知る気すらないのかもしれませんね。例えばダークツーリズムのようにしてハンセン病の施設を訪問し、数時間一緒に居ただけで彼らを理解したような気になり、その後なんの研鑽も積んでないくせに一回会っただけの体験を特別なもののようにして語る僧侶はこの宗門にたくさんいますが、それと同じです。差別問題も靖国問題反戦についてのことも、なにもかも中途半端。おまけに解放運動推進本部なんていう差別に関する部署がありながら、人権無視のパワハラを長期間放置、加害者は訓告処分のみという体たらく…。いい加減にしてくれと言いたいです。

 まあそれはさておき、抽象的ないのち概念、そして自我意識を強調し、それがあたかも実体であるかのように論じることに大谷派の限界があるのではないでしょうか。私たちの意識は良くも悪くも縁に晒されていますし、その縁は社会や制度、時代や風土様々な具体的なものと結びついています。「浄土」という概念はそのために存在するのではないですか?曇鸞の論註はそのことを示すために浄土の有様を事細かく記しているのではないですか?自我意識そのものや差別的意識そのものが存在すると思い込むのはもうやめましょう。意識は常に何かと連動し、そして差別を乗り越える鍵は意識を構成する諸要素や構造にあるのです。それを解き明かすのが仏の智慧の光であり、それをしっかりと言葉にするのが私たち宗教者の義務です。別に社会学の知識が必要などと言っているわけではなく、自分が社会をみて何かおかしいと思うことを煮詰めて言葉にするべきなのです。

 間違っても「障害者を差別する心は当たり前にある」というようなことを言ってはいけないのです。誰にでも差別心がある、などとのたまい「本音を語る」というスタイルが人の感情を揺さぶることができると勘違いして法話をなさる方もおられるようですが、私はこれを「本音」とはいいません。ただの無知からくる妄言です。「あなたたち」がいつも用いてるロジックでお返ししてみましょう。「障害者差別をあたりまえだと思っている自我意識の殻を破り、本当の願いに目覚めませんか」?