What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「死後の世界」はオカルトでしか語れないだろうか?それとも沈黙すべき?

 コメント欄に批評の依頼があったので、今回はそれを記事にしてみようと思います。コメントは以下のとおりです。

インターネットに気になる記事があったのでご意見を伺いたいです。2020年の6月に大谷派の僧侶となったという、1970年生まれの医師の死生観の記事です。長い記事から抜粋します。


 『「死後の世界」を話題に持ち出すと、みなさん、「死後の世界」を肯定するように、死後に出会える人について思いをめぐらせ、お話をしてくださいます。それはこれまでご自身が、“あちら”に行った方にどれほどお世話になったか、感謝しているか、自分が恵まれていたことを言語化するという作業につながります。
(略)
 その方の支えを明らかにすることで、ご自身の人生をいいものとして振り返っていただくことができ、穏やかな気持ちを持っていただくことができるのです。
(略)
 私は「死後の世界はある」と確信しているので、患者さんをお看取りすることは、駅に無事に患者さんをお連れして、死の旅の列車に乗せるような仕事になります。その途中で「死後の世界」についてお話することもあり、「先生、お坊さんみたい」と言われることはよくあります。
(略)
 じつは私、お坊さんなのです。2020年6月、真宗大谷派僧侶資格を得ました。医師である私が僧侶になったというと、「なぜ僧籍をとったのか?」と、その理由をまず聞かれます。けれど、それほどドラマチックな理由はなく、「お坊さんになりたいと思ったから」というのが正直なところです。
自分にとって僧侶となることは、人生の最終段階における医療の仕事によく調和するものだと感じていました。私が日々行っている人生の最終段階における医療では死は身近なものであり、死と死後のことについて思うことが、今を生きる患者さんの心に寄り添うことにつながるとも思っています。
(略)
 人が「死後の世界」が当然あると考えるとき、「死んだらずっと見守ってあげるよ」とその方の大切と思える存在の方に伝えることができます。自分の死を目前にしても「将来の希望」を持つことができるのです。どんなときにも希望が持てるということは素晴らしいことではないでしょうか。
(略)
「無になる恐怖」から解放されるには
人の「死後の世界」も私はあると信じています。「本当に?」といぶかる方もいらっしゃるでしょう。けれど、あなたが「信じていること」は、すべて証明されていることなのでしょうか。
(略)
 「死後の世界」のありなしも同じようなものです。実際に見たことがあるという人はいますが少数です。でも、「死後の世界」があると考えなければ説明できないことは多く、「死後の世界」があると考えると辻褄が合うことはたくさんあります。これまで私自身もいろいろ経験しましたし、患者さんのご家族からもたくさんお聞きしました。
(略)
 もし、「死後の世界」がないとするなら、死によって、その方にとっての時間は止まり、死のあとの世界は「無」になります。しかし、「死後の世界」があると考えるならば、死により肉体の苦痛は終了したあと、魂は肉体を離れて自由になり、時間は死後も流れ、先に旅立たれた有縁の方との再会もありうることなのです。
(略)
 「死後の世界」を信じると、自分が「無」になる恐怖から解放されます。私自身は「死後の世界」があると信じますが、あなたが信じなくてもまったくかまいません。ただ、「死んだって、平気。またあちらでお会いしましょうね」とお別れすると、私の心が軽くなるのです。(終わり)』 

 

小生による疑問


死後の世界や輪廻転生が存在するとする死生観があることは認めます。しかし、仏教僧である医師である方がそのように断言されるには違和感を覚えます。
文中に「無になる恐怖」から解放されるには、という言葉がありますが、無になるとは、有であるから無になるのでしょう。しかし仏教は、人間は恒常不変の自己を確信しているけれど、真実は身と心のどれをとって恒常不変の自己ではない(五蘊非我)という釈尊の発見をその出発点にしている。有でも無でもない、もともと自己にあらざるものを自己と誤って執着していることが苦しみの原因であるという。ここを見過ごすと、上座部も禅も浄土も真言も法華もその真意を見誤ることとなる。
仏教による癒やし慰めがあるからといって、癒やし慰めがあるから仏教だとはいえません。
この方が真面目な方なのは記事から十分伝わりますが、だからといって真宗大谷派の僧侶の発言としては問題があると思います。現在の大谷派の思想傾向がもっと極端に成った姿があらわれてきたように見えます。
「いのちがあなたを生きている」なら「阿弥陀のいのち」とは無量のいのちであり、先祖代々受け継がれてきた恒常不変のいのちが、蕩蕩と受け継がれ流れているのです、という梵我一如のヴェーダの宗教に先祖帰りしても不思議はありますまい。

「医師兼僧侶」という存在

 まず、問題に入る前に「医師であり僧侶である」という肩書きを大いに喧伝し語る人を私はあまりよく思っていないということを記しておきます。医師は自らの領域を極め、「医師として」の立場から言えることを全力で語るべきなのですが、「仏教的なこと」をふんわりと語るのみならばそんなに僧侶であることを強調しなくてもいいのでは?

 世間は権威が大好きなので、僧侶である前に「お医者様」という立場のひとのことばをとても大切にしますが、その実は大したことを言ってないことのほうが多いです。僧侶として現場を歩いてきた人を大切にないがしろにしておいて、医師としても大した経験も語らずわざわざ肩書きを求めて得度や教師資格を取得した中途半端な人種を持ち上げる本山やメディアが大嫌いです。本山にいつも出入りしている暇人や大学の先生に一体何が分かるのやら~~??現場必死で歩いたことある~~~ ??っていつも思います。一門徒大切にできなくて何が御同朋なの~~??

質問者様の視座

 さてさて、質問者のコメントを整理すると…「有無」という考え方から距離を置くことに仏教の意義があり、件の医師が死を「有から無への変化」と捉え、「死後の世界」が“有る”と主張するのは非仏教的ではないのか??という風にまとめてよいでしょうか。

 確かにそれは正しいと思います。親鸞正信偈で龍樹が有無の見を摧破したことを評価しているように、仏教は有無の二項で物事を思考しません。ですので、死後絶対に自己が消滅してしまうという「無」の考え方と、絶対に死後も魂は存在するという「有」の考え方のどちらも否定されます。最初から有も無もないのです。この概念が理解できないと、最終的にはいろいろと落ちてしまう概念がたくさん出てきてしまいます。

 しかしながら、これは用語の問題なので私としては深入りしたくないなと思っています。むしろ「有無」という観点に終始するよりも(この視点も重要ですが、問題の整理のために一旦脇に置きつつ考えたい)、この医師の「死後の世界」を「浄土」と捉えた時に問題はあるのかないのかということの方が考えるべき問題なのではないかなと思うのが私の所感です。

死後を強調することで生じる胡散臭さ

 まず最初から余談ですが、わたしがこの医師に対して疑問に思うのが、なぜ大谷派なのか?という点です。死後のことをことさらに強調するのなら、「お浄土参り」に力点を置く本願寺派か「後生の一大事」に重きをおく親鸞会の方があっているのではないかなと思います。だから、この医師が「大谷派の僧侶なんです!」といって半ばオカルトじみた話をメディアで発言するのはやや不適切な感じがします。この方は浄土や救いというよりは「死後の世界が存在する」という実在論の方向にいってしまっているので、そういう点からしても「なぜ大谷派??というかなぜ仏教??」という感じですし、というかたかが得度しただけでこんなに僧侶ぶられても…というのが正直な感想です。

浄土はどこにあるのか、何をもって往生とするのか

 「死後の強調」は親鸞の思想には当てはまらないと考えます。少し前に宗門内では往生の問題が話題になっていましたが碌な議論がないまま終わりました。誰もが親鸞の言葉そのものに向き合わない、暗闇でノーガード状態、両対戦者互いに遠くで素振りをしている、そんな感じのものでした。問題提起した側は死後の往生や成仏を論じていましたが、親鸞がウエイトを置いたのは現世であって、死後のことを語るのは親鸞以前の価値観過ぎてナンセンスな気がします。しかし、他方で「現世往生だ」「現生正定聚だ」と言って「この世での自覚=覚り=往生」みたいなことを言う人もさらに意味不明です。あなたたちが生きているのは紛れもなく穢土だし、あなたもどう見ても凡夫そのものなのに、あなたのどこが覚りの境地なのか、どこに真実があるのか教えて欲しいです。「凡夫の自覚」って仰るけど「わあ、先生は何も知らない凡夫なんですね」って言われると皆さん怒るのでしょう?それ覚りでもなんでもない、あなたのただの小っぽけな感情に過ぎませんから。

「いのち」を軸とした「現世での往生」と「死後の世界」の親和性について

 また質問者は「無量寿のいのち」の考え方の極端化したものが上述の医師の「死後の世界」という考え方であると述べています。私もそのように思います。

 まず、「無量寿のいのち」、すべての生命に内在する「いのち」が存在すると仮定します。ひとによってはこの「いのち」を「本当の自分」「真実の自己」と言い換えることもあると思います。そしてそのような核が存在するならば、その核は滅びることなく死後も魂のようなものとして位置付けられるでしょう。なぜなら死後消滅するのだとすれば、それは「真実」ではなくなるからです。したがって、「無量寿のいのち」と「死後の世界」は思想的には同一の性質をもつものとして捉えることができるのではないかと考えています。

では僧侶は死後の問題を語るべきではないのか?

 また、大谷派僧侶の多くが死後について言及しないのもいかがないものかと思います。自覚を語る僧侶たちは現世を強調し、自覚が覚りであるかのように語ったりします。自覚という凡夫の行動を語ることに終始し、仏教を非宗教化させ「死後のことについて語らない」という制限を自らに課しています。この現世での自覚を往生と勘違いし「これが現生正定聚だ」と叫ぶ人もいたりしますが、これらの人は死後往生を語る人と同じくらい愚かです。どちらも親鸞の論旨を理解していません。

 凡夫は死ぬまで凡夫でしかあり得ませんし、その事実を知ったところで凡夫は凡夫です。凡夫は唯一念仏によって「往生すべき身とさだまる」のみです。“実際に”覚るのがいつなのかということを問題にするべきではないし、われわれ凡夫には分かり得ないことです。ただ自分のこの先の直線上にその地点が必ず存在していて、それは死後かもしれないし、死後ではないかもしれないのです。そもそも私たちの通常の理解を超えた次元の話なのだとしたら“覚り”の地点を確定することなどできないに決まっているのです。それを論理的に語ろうとするのは傲慢でさえあるし、もし語れたとしても「真実」ということしか語れないのではないでしょうか。

 しかし語りえないものであっても、それが必ずいつか実現されるということが「定まった」状態を喜んだり、その状態に置いてくれた力に感謝することはできますし、それだけで私は十分だと思います。それ以上のことは凡夫の領分を超えています。

 だから、頑なに死後を語らないことも私から見れば間違った行いです。「死後かもしれないがいつか必ず」ということが“定まっている”という事実が現実には存在するのだから、死後について語ったとしてもそれは間違いではありません。つまり、上記の医師とは異なる形で死後あるいは未来のことを視野にいれて話をするべきではないでしょうか。釈尊以来から仏教には時間の概念が絶対的に必要だったはずだし、真宗でもそれは同様です。

 今回はyahooの記事と、質問者の方の意見、それぞれに対して回答したところ乱文を極めてしまいました。読み辛くて申し訳ありません。