What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

大谷派の途方もない自力主義

 「親鸞仏教センター通信」に「自分の足跡を消さない」というタイトルのコラムがありました。書いたのは親鸞仏教センター研究員の谷釜智洋という方でした。

 コラムでは以下のような孤野秀存の話が紹介されていました。

人が聞けば、何だ、と嘲りを受けるような自分の姿であろうとも、その何とも言いようのない惨めな情けない自分に、それでもじっと耐え黙々と歩んできた自分自身の人生の足跡があります。辛い時は辛いままに、切ない自分を丸ごと抱き締めて、今、ここの、この私にまで地面を踏みしめて歩んできている本当の自分。「主体」というものがあります。親鸞聖人は、その真実の主体を法蔵菩薩として呼んで崇めたのです。(「歎異抄講義」、2012年開講)

   自分の歩んできた人生の足跡を消さないこと、いままで歩んできた過程を丸ごと含めたものが「主体」であるらしい。そして、これを踏まえて谷釜氏は以下のように言う。

孤野学院長は、このありのままの事実の自分を受け入れることが主体性をもつということだ、と伝えようとしたのではないだろうか。このように考えれば、あの時に言われた「真実の主体を親鸞聖人は法蔵菩薩と呼んで崇めた」という言葉は、事実の自分を受け入れるということと、仏道を歩み始めた法蔵菩薩とを重ね、そこに主体的な求道の出発点があると親鸞は考えていた、と私達に伝えようとしたと想像される。 

 ありのままの自分を受け入れること、それが主体的な求道であり、法蔵菩薩かつ親鸞の姿であるらしいです。私は、ありのままの自分をただ受け入れることなどできません。そもそも過去を振り返り、それを「受け入れる」とはどういうことなのでしょうか。

 ありのままの真実の自己を受け入れることができたのが法蔵菩薩の求道なら、凡夫にはそれは無理です。ただ言えるのは、自分の歩んできた足跡をしっかりと認識することができるようになることはとても重要だということです。自分がしたこと、されたこと、いままでの経緯をしっかりと認識できなければ人格に歪みが生じることになります。虐待された事実をしっかりと辛い経験として認識せず、また整理せずに、それを「普通のこと」として脳内で処理すると人間は犯罪者になるという傾向があります。そして、まさに自分がしてきたこと、されてきたことという「足跡」を「受け入れ」(「受け入れる」とは「肯定的なものとして認識する」という意味合いがあるため、この言葉は正しくありません)、認識するには導いてくれる他者の存在が不可欠なのです。

 「自分の足跡を消さない」とただ教えるのは仏教ではなくただの刑務官の仕事です。自分のしてきたことを反省しろ、と言われても人は動きません。言われた者は足跡を消していないふりをするだけです。その足跡を消さないようにするにはどうしたらいいのか、また自分の足跡を見つめることがどれほどその人にとっての救いとなるのかを教えるのが仏教だと私は思います。求道者の道、法蔵菩薩の主体的求道などと一気に言ってしまうとそれはただの聖道門です。

 求道や茨の道のようにして「自己を認める」ことを主張するのは私は好みません。自分のしてきたことを認めることがどうして救いにつながるのか、なぜ認めなければ不幸になってしまうのかを分析するべきではないのかなと思います。そうしなければ、「自己を見つめる!それが仏道、求道!辛いけど正しい道!素晴らしい!」と言われても客観的に見て意味不明です。

 いつも思うんですが、「研究所」なんて名乗っているのだから学問的な心得をもって文章を書いてもらいたいです。主体や認識の仕組みを全く深く知ろうとせずにありがたそうな言葉で済まそうとするのはどうかと思います。