What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

自力考(中島岳志『思いがけず利他』感想)

 気がつけばブログを一年間も放置していた。とりわけ忙しかったわけではないが相対的にいのち主義や日和見の差別発言などが大きく減り、機関紙もなんとなく思想的なことよりかは歴史的な記述が多くなったように感じ、特にネタにするようなものがなかったというのが原因である。

 最近大谷派でよくみかける中島岳志氏の『思いがけず利他』という本を読んだ。今現在利他について研究しているようで、この著書の中にはさまざまな角度からみた利他が論じられていた。そのなかに親鸞の思想も組み込まれていたのだが、少し疑問に思った箇所があったためここで記事にしておきたいと思う。

他力は自力の延長線上にあるのか

 中島岳志は『思いがけず利他』の最後の方で以下のように述べている。

 「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではありません。大切なのは、自力の限りを尽くすこと。自分で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そうして、自己の絶対的な無力に出会います。

 重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、「他力」が働くのです。  

 つまり、他力は自力を尽くさないと出会えない次元だそうだ。ゴロゴロしている人間には出会う資格もないし、他力に出会えるのは自力を尽くした人間に限られるらしい。私はそうは思わないが、多くの“善人”たちはどこか「他力に甘えるな」と言いたげに見えてしまう。

 問題を整理して考えたい。思考を区切って考察していく。

自力とはいわゆる一般的な努力なのか

 わたしが違和感を覚え、議論の積み重ねの障害と考えていることのひとつに「自力イコール一般的な努力」という等式がある。議論の整理のために、ここで一旦「自力」についての親鸞のことばをひとつみてみることにする。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息より)

 親鸞は手紙にこのように残している。自分の身をたのみ、自分のはからいの心で浄土へ往生しようとすることを自力と言う。そして、そこにはさまざまな善根、善いとされる行いが含まれる。その中には一般的にイメージされるような修行も含まれると同時に、親を養ったり年長者を敬う、知識を深めるといった道徳的・世俗的な行いも含まれる。

 そう考えるならば、自力には私たちが通常行うような「努力」が含まれると考えて差し支えなさそうだ。私の違和感はひとつ解消された。しかし、一般的な努力が含まれる三福のような善行を自力と呼んだ場合、中島がいうように「自力を尽くさなければ他力に出会うことはできない」というような言い方は親鸞の思想に沿うものたり得るのだろうか。

 というのも親鸞は悪人が往生できる教えを説くからである。道徳的な行為である諸々の善行が自力だとして、それを尽くさなければ他力に出会えないなどという考え方は親鸞には存在しない。もしそうであるならば親鸞の教えは、ありとあらゆる善い行為を尽くした後で他力に救われる、という極めて道徳的で浅い「善人」の思想になってしまうのではないだろうか。親鸞の教えは悪人が他力に出会える教えであって、極論をいえば悪人を善人にする教えではない。

 三願転入はじゃあどうなるんだ、という疑問を持つ人がいるだろう。それはこの続きを読んでから考えてほしい。 

近代の実存主義から逃れることができていない大谷派

 社会やひとのせいにせず努力しろ、という主張を努力主義とでも呼んでおこう。最近は「どんな状況にも負けず社会のせいにせず頑張れ」と叫ぶ努力主義への批判と「でも頑張るのはいいこと」という二つの立場が共存しているように見える。なぜそう見えるのかというと、努力主義に対する批判は社会的構造を整備しようとする方向に目線が向いており、また後者の方は、与えられた環境・社会構造を生かして頑張りましょうという姿勢なのだから、両者は人間の努力は構造に支配されているという点で思想的に一致している。

 それを前提とした場合、中島が言う「自力を尽くす」「頑張れるだけ頑張る」という主張も別段おかしい話ではないように思われる。しかし、努力というものは構造によって左右されるという話であるなら、努力の先にしか他力が存在しないという主張は極めて残酷だ。人間存在が構造から全く自由な実存であるならば話は別だが、現実はそうではない。

 自力の努力は用意された環境、構造というものに激しく左右される。親鸞は「その構造の中で頑張れ、自力を尽くせ」とは言わない。ただ「努力だの親孝行だの勉強だの金だの、そういうことで人間を評価して比べて競わせて狂わせる、そのくだらない構造とは関係なく他力が往生へと導く」と言うだろう。それは構造の中の弱者を救う思想だ。

自力=努力という図式を壊す

 自力の行は社会構造に大きく左右される。これは私の主張ではない。仏教の歴史観から考えればこの考え方は当然である。東南アジアの僧侶に憧れて日本の僧侶がいますぐ街中で托鉢だけで食料を賄おうとしてもそれは無理だ、なぜなら社会が托鉢に慣れていないからである。

 そうであるならば、もはや「自力」は個人の頑張りや努力云々ではなく「自力を行う領域」である「社会」を問題にするキーワードであり、親鸞はそれを「万行諸善の仮門」(化身土巻)と呼ぶだろう。

 何が言いたいかと言うと「努力を尽くした限界の先に存在する他力」という話ではなく、「善行や自力を可能にしたり、または悪行を生み出したりしてしまうような社会やそれが形成する倫理観の外に存在する他力」という話ではないかと私は思う。

 社会の価値観、道徳、倫理、そういったもののなかで存在している時点で私たちは「万行諸善の仮門」に入っているし、「自力の人」なのだ。そのなかで排除されていても「排除されている」という形式で存在している。ゴロゴロしているような人も、中島岳志のような大学教員から見れば大した努力もしてないように見える人も「自力」の価値観のなかで右往左往して生きているのだ。「自力を尽くしていない人」なんていうのは最初から存在しない。「自力」というものを軸にして生きざるを得ない社会構造のなかにすでに皆んな投げ入れられているのだ。だから、その構造に左右されない救いの力が仏の救済力、願力、他力なのではないかと私は思う。自力の外に他力が存在する、というのはこのような意味で理解するべきなのではないだろうか。

思想と大谷派

 フランクルについての記事でも言及したが、大谷派実存主義的な思想が大好きだ。どんな構造のなかでも努力して信仰していく!という姿勢である。安易に他力に甘えず、自力を尽くして己の愚かさを自覚した先にのみ他力との出会いがあると意気込む。

 戦後に輸入された実存主義的な考え方を「先生の教え」として伝承し続け、しかもそれらは「実存主義」ではなく「先生方のありがたい教え」となった。学問的なラベリングを失い、自分の思想がどこから来たものなのかも、どう言う批判があるものなのかも自覚せず「〜先生の教え」といってずっと受け継がれている。だから議論が進まないし、批判も起こらない。

 そしてそれが親鸞の思想とは全く異なる方向に向かっているというのがなにより問題である。自力諸善を尽くした先にしか他力はない?それなら自力をつくせる善人にしか、倫理的な振る舞いができる善人にしか結局は他力が開かれてこないことになる。

 しかもその「善人たち」もどうせ大して自力を尽くしているわけでもなかろう。「自力」を尽くした立派な人間が大谷派の中のどこに存在するというのだろうか。私は全く見たことがない。中島岳志も、もしご自分を「自力を尽くした人」だと思っているのだとしたらそれは傲慢だ。もしご自分の主張に沿うならば、もっと自力を尽くして自ら親鸞の思想を読み込んでから言及するべきだ。