What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

現実を受容しない私の存在は罪なのか

 東本願寺の教学研究所研究員の難波教行氏の法話(「しんらん交流館たより」2020年第五号収録)はとてもよかった(これは皮肉ではありません)。差別問題についてはこれまでたびたび言及してきましたが、難波氏の法話は筋の通った、「教え」のある法話だったと思います。というわけで今回は「ともしび」第814号に掲載されている「聞」で読んだ難波氏の文章を批評してみたいと思います。結論から言うと、先の法話同様障害者の現実に対する柔らかな目線が感じられ、問題設定もはっきりした良い文章でした。そして、良い文章だからこそ私がこの文章によって気がつかされた問題点があきらかになったのです。

 難波教行氏は、幼少期の病によって手足の切断を余儀無くされ、その障害を負いながら懸命に生きた中村久子さん(1897-1968)について語っています。その苦労は私たちの想像を絶するものでもあり、断片的ではあってもその生涯を知らないという人はあまりいないと思います。大谷派発行の『同朋』に寄稿していることは、今回この文章を読んで初めて知りました。

 難波氏は中村久子さんにとって親鸞聖人の教えがどのようなものだったのかを、中村久子さんの文章から読み解こうとしています。例えば挙げられたのは中村久子さんの以下の文章です。

“手足がないこと”が善知識だったのです。なやみを、苦しみを、悲しみを宿業を通してお念仏させて、よろこびに感謝に、かえさせていただくことが、先生たちを通して聞かせていただいた正法。親鸞聖人さまのみおしえの“たまもの”と思わせていただきます。(中村久子『私の越えて来た道』改訂12版、1967年、156〜157頁、初版1955年) 

 思考停止状態の僧侶なら、この文章から中村は手足なき我が身を受け入れ、その境遇によってご縁を頂いたのだなあと感慨深く思うでしょう。しかし、難波教行はそうではなく単に中村さんは障害を教えによってすべてを受け入れていたわけではないことに注目しています。難波教行氏が引用している中村久子さんの文章は以下のようなものです。

 あきらめよ、と言われて手足のない私は決して諦め切れるものではありません。あきらめ切れるものか、切れないものかそれは本人の身になってみることだと思います。生き仏さまのように善男善女からおがまれる方も、前世の業だからあきらめよ、と仰る前に先ずご自分の手から足を一本でもよいから、切り落として同じ苦しみと悲しみの体験を味わつていただきたいと私はいつも思います。(中村久子「御恩」下、『同朋』真宗大谷派宗務所、1957年9月、18頁)

 彼女はむしろ現実の受容を人ごとのようにして押し付けてくる教えに不信感を持っていたということがこの文章からわかります。リアルな筆致で綴られたこの文章を引用した点はとても素晴らしいと私は思います。そして、難波教行氏はこのように書いています。

 中村氏は、手足の無いことをあきらめきったわけでも、受容しきったわけでもない。むしろ、「因縁だから」「業だから」と理由をつけて、あきらめさせようとする声が聞こえて来るなか、親鸞聖人の教えを通して、「あきらめきれない自己」が照らし出されたのではないか。

 にもかかわらず、現代に生きる私たちが、最初に挙げたような言葉だけを持ち出し、「あの人は信仰によって苦難の現実を受容した」と称賛すればどうなるだろうか。その称賛は「個人の努力によって逆境を克服すべき」というメッセージになるだけでなく、今現に障害に苦しみ、悲しんでいる多くの者に、「信仰心がないからだ」と追い打ちをかけるものになりうるのである。

 これはその通りです。「我が身の現実」だの「自己を問う」だの言って理不尽な現実を受け入れろと迫るハラスメントすれすれの教えが横行するなか難波氏は正しい教えを説いています。しかしながら、彼女にとって親鸞聖人の教えは「あきらめきれない自己」を照らし出すものであったと述べている点に少し疑問に感じました。

 「現実を受け入れられない」、「諦めきれない」ということは罪なのでしょうか。そのような存在は罪なのですか。諦めきれない自己の存在に気づき、そこに罪を感じる必要があるのでしょうか。そのこと自体に罪業性を見出すことに私は魅力を感じません。諦めきれないから私たちは苦しかったり悲しかったり死にたくなったりします。だから仏様が一人一人に寄り添って救ってくださるのではないのでしょうか。「あきらめきれない」こと自体は別に問題はありません、あきらめきれないからこそ生じる悲しみや苦しみが問題なのではないでしょうか。これがこの文章によって気付かされた点です。難波氏を非難するつもりはありませんし、あくまで文章を読んで私が気付かされた点を書かせていただいたまでです。むしろとても良い文章で、とても感動しました。

 大谷派には現実を受け入れられないことそのものが罪、根源的な罪悪であるという一定の前提があるように思われます。しかし、世の中ではかなり前から「障害者」ということばについての議論が始まり、障害とは人の方ではなく社会の側に存在するという考え方が生まれました。だから、人は自分の障害を受け入れるのではなく、障害をもたらしているのは社会の方なのだと考えるべきなのです。「自分のもつ障害」という曲げられた現実を受け入れる必要はまったくありません。「現実」や「自己」を受け入れよ、という場合その現実や自己が一体なんなのかということを考えなければそれは単なる暴力になります。そのことを考えてくれる人が大谷派にいるのでしょうか。「全部社会のせいに恨んではいけない」などと上からの説教をする人ならたくさんいるでしょうね。

 クソみたいな架空の文学や音楽、ヨーロッパ人の思想と関連させるよりも、現実に存在し実際に親鸞聖人の教えに触れて救われていた方の生の文章を用いて考えを深めることはとても素晴らしいことです。