東本願寺が、セクハラで問題になっていた広河隆一氏の講演動画の配信をしていたことに苦情があったらしく今回配信停止が決まったそうです。以下が宗務総長但馬弘のコメントですが、いくつか問題点があるので記しておこうと思います。
2020年8月6日更新
しんらん交流館ホームページ 第33回しんらん交流館公開講演会講演動画の配信停止について(お詫び)【宗務総長コメント】
「しんらん交流館 公開講演会」は、「生・老・病・死」の問いを現場で考え、表現している様々な分野の方を講師に迎え開催しています。
このたび、2018年3月18日にお迎えしたフォトジャーナリスト 広河隆一氏の動画配信を突然停止しましたことについて、宗務総長のコメントを掲載いたしました。
親鸞聖人の教えに立ち返り、引き続きこのたびのことを受け止め、確かめる歩みを進めてまいります。しんらん交流館ホームページ第33回しんらん交流館公開講演会
講演動画の配信停止について(お詫び)当派では、しんらん交流館ホームページに掲載していた、第33回しんらん交流館公開講演会における広河隆一氏の講演『福島とチェルノブイリ‐写真が教える私たちの課題‐』(2018年3月22日講演、同年4月11日配信開始)の動画を2020年5月7日に配信停止といたしました。
これは、2018年12月に報道された広河隆一氏による「セクシャルハラスメント・パワーハラスメント問題」に起因するもので、視聴者からのメールによる指摘を受け、被害を訴えた方々の心情と立場を考慮して判断をしたものであります。
ただし、その際、視聴者からの指摘に対して応答をしないまま、また停止の理由や問題の受け止めも表明しないまま、動画の配信停止に至っておりました。
ここに、報道後の対応が遅れ、被害を訴えた方々や関係者への配慮に欠けていたこと、そして視聴者からの声との向き合い方に問題があったことを深くお詫び申し上げます。
今後は、視聴者の声に改めて真摯に向き合い、しんらん交流館の使命を再確認しつつ、歩みを進めてまいる所存でございます。【ハラスメント問題の受け止め】
ハラスメントの問題は、当派におきましても当事者として受け止めなければならない深刻な問題です。私たちは誰もが、弱さや他者との比較による劣等感をもっておりますが、その弱さを認められず、弱い自分が露わとなることに怯えるがために、自らの力をたのみ、結果として、支配・被支配という関係に陥ってしまいます。
このような私たちを、自力の迷心から救おうと誓われたのが、阿弥陀如来の本願です。私たちは、本願に目覚め、自らを罪悪深重の存在として自覚することが待たれているのであり、その目覚めによって、共に怯えから解放され、弱いままに安心して生きていくことのできる道が開かれると、親鸞聖人より教え示されております。その教えを、あらためて聞き開かねばならないと受け止めております。
人間救済の課題が理に終わることなく、一つひとつの事柄に丁寧に向き合うことを通して取り組まれるべきであると、今回の問題から知らされました。このたび、動画配信の停止に際し、ハラスメント問題の受け止めを真宗の教えに尋ねつつ表明すべきところ、説明が欠けておりましたことを重ねてお詫び申し上げます。2020年8月6日
宗務総長 但 馬 弘
みなさんはこの文章、正しいと思いますか?
これが適用されるのなら、先日発覚したパワハラ問題はどうなるのか
ハラスメントの加害者が行った講演を公開しておくことに問題があると認めるのならば、この措置は先日解放推進本部で起こったパワハラ問題にも適用されるべきだと私は思います。つまり東本願寺はパワハラ加害者が行った講演や文章を抹消する必要があるわけです。匿名性によって保護されている状態ですが(関係者はすでに誰がやったのかはご存知だとは思いますが)、その加害者を隠すということであれば「解放推進本部」そのものが罪を背負うことになります。ということは、解放推進本部はその罪を自覚し、啓蒙的な研修活動のすべてを一定期間停止するなどしなければならないのではないでしょうか。その期間は部門自体が反省のための研修会を徹底的に行う必要があります。
私自身は加害者自身を知らないという設定で書かせていただくと、誰がパワハラの加害者なのかわからないという状況であるならば解放推進本部すべてが出す文章や発言に違和感があります。それらの言葉が部署内でパワハラが行われている状況で書かれ、発信されたのだと想像すると不快でしかありません。いくら立派なことが書かれていたとしても「これが書かれていた間の他の職員の状態はどんなだったんだろうか」としか思わなくなりました。
宗務総長は「被害者」をどう考えているのか
宗務総長が出したコメントには「ハラスメントの問題は、当派におきましても当事者として受け止めなければならない深刻な問題です」とありました。それはその通りですが、このハラスメントの捉え方に問題があると私は思います。
「私たちは誰もが、弱さや他者との比較による劣等感をもっておりますが、その弱さを認められず、弱い自分が露わとなることに怯えるがために、自らの力をたのみ、結果として、支配・被支配という関係に陥ってしまいます。このような私たちを、自力の迷心から救おうと誓われたのが、阿弥陀如来の本願です。私たちは、本願に目覚め、自らを罪悪深重の存在として自覚することが待たれているのであり、その目覚めによって、共に怯えから解放され、弱いままに安心して生きていくことのできる道が開かれると、親鸞聖人より教え示されております。その教えを、あらためて聞き開かねばならないと受け止めております」と偉そうなコメントが続いていますが、どこまでも加害者の心理や加害者の自覚という点にしか焦点をあてていません。被害や差別という理不尽な暴力にさらされてきた人に焦点をあてて、それに対し救いのを差し伸べるという視点が完全に抜け落ちています。「弱いまま」生きていた人が安心を奪われ、仕事ができなくなってしまったという現実を無視しています。親鸞聖人の教え、東本願寺の教えはこのような暴力や差別の対象となってしまった人をこそ救います、となぜ言えないのでしょうか?弱さゆえに加害者になってしまった側に対してはそいつ自身に自覚を迫ればいいだけの話であって、ここで表明すべきは被害者の心理に寄り添うという立場ではないかと私は思います。
結局「自覚」とかいう言葉は、人を暴力における加害者の立場にしか立たせず、被害者の苦しみや悲しみに寄り添うという視点を捨象してしまいます。啓蒙にばかり目が向き、弱者を救ってこなかったつけが思想まで錆びつかせ、侵食してもう剥がすことができなくなっているのです。
「反原発」を宗門として掲げるのは果たして正しいことなのか
広河氏を取り上げた宗門に対して私がそもそも思うこととして、「反原発」とは宗門全体で取り組む事柄なのかと疑問を持っています。このような問題は個人個人で考え、反対する政治的問題だと思います。というのも、このような主張が大っぴらに書かれた同朋新聞などを各門徒に配布する際、その門徒のなかには電力会社で働いている人もいるからです。そのような人たちからすれば「大谷派に悪く思われている」という印象を受けるだろうし、あまりいい気分ではないと思います。そのことによってお寺との関わりに対して積極的になれない門徒も一定数いるのではないかと推測します。
原発や死刑に反対する以前に腐敗した内部の構造をどうにかする方が先だと私は思いますし、多様な人が存在するこの宗門という単位で「反原発」を掲げるのはいかがなものでしょうか。私自身は原発に対しては反対の立場ではありますが、現場ではそのようなデリケートな話題に対して慎重に発言しています。紙に刷って一方的に発信する本山は、そのような現場の取り組みを一気に台無しにしています。一般的な新聞なら各人がその思想的な内容に応じて購読を希望するかたちなので問題ありませんが、そうではない「同朋新聞」や本山の各種メディアにおいては簡単にそのようなことをするべきではありません。