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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

ナショナリズムの克服を門徒に押し付けるのか:「ともしび」2019年11月号楠信生の「一大事の御客人」を読んで

「御門徒に育てられる」

 楠信生という方の書いた「一大事の御客人」という文章にあった門徒観に少し違和感があったので少し考えてみることにした。氏は「御門徒」について以下のように述べている。

「御門徒」という言葉にはいろいろな響きがあります。 かつて、ある研修会で排他的ナショナリズムに固まった一人の青年僧と一緒になったことがあります。班を担当された方は、ともに考えることのできる場をひらくべく苦労されていました。その班担の方が懸命に努力しながらもなかなか通じない、自分の手に負えないと感じられたとき、「御門徒に育てていくしかないですね」と話されました。この「御門徒に育てていただく」という言葉が、私には印象深く残りました。

  本文の文脈としては、信心のある御門徒との出会いによって人は往生の道をともに生きることができるようになるという話の流れであるが、私は「排他的ナショナリズム」に固まった僧侶を御門徒に任せるという責任感のなさに呆れてしまった。

第二次世界大戦からこの宗派は何を学んだのか

 排他的ナショナリズム、これは人ごとではない。我が宗門は親鸞の教えをナショナリズムの道具として使うことで国家と共犯して御門徒を戦争に送り出したという過去をもつ。したがって、真宗においてもナショナリズムの克服は第二次世界対戦後の重要課題であり、その文脈で靖国問題などが僧侶のなかでも必修すべき事項となっているはずである。しかしその実、表面的な理解が横行したため単に「神祇不拝」を述べるだけの者が多く、また抽象的な「いのち」という概念を多用する東本願寺の現状を見る限りナショナリズムの本質的理解は十分に行われているとは言えない。むしろ思考停止によって、神社と仏教を二分割し排他的な姿勢に固まる者も多く、ナショナリズムの本質的理解を欠いているために国家神道と同様の構造を仏教に持ち込む者さえいる。いくら中島岳志が本山に重用されてもその状況は一切変化することはないのだ(近年、「いのち」の解釈がやや変化してきていることを除いて)。

 「哲学者」清沢満之田辺元などの思想家が、何の批判もなく「先生」と奉られ、批判する者がいても目立つことはない。清沢満之を哲学者や思想家として位置付け、京都学派との関連性が見出されたとしてもそれは「良くも悪くも」という感があるのだが、そういった視点が強調されてはいない。そして遂には「排他的ナショナリストを御門徒との出会いによって更生させる」という無責任な発言が掲載されるに至るのだ。

まさに「問われ」なければならない

 「排他的ナショナリズムに固まった一人の青年僧」を問わずに放置する者が問われなければならない。実際に保守的な業界で生活し、また保守層の多い高齢者に関わることの多い僧侶はナショナリズムに傾倒しやすい場合が多いと推測できるため、研修会では知性や教えによってナショナリズムを乗り越えを試みなければならない。間違っても御門徒に任せてはならないのだ。思想の歪みを重く捉えなければ、我が宗派はきっとまた再び国家主義に飲み込まれてしまうだろう。部落差別の問題を放置してはならないのと同じくらい、ナショナリズムに対しても注意深くなくてはならない。もしこの青年が部落差別や障害者差別に与する場合、それを啓蒙せずに御門徒に任せることは許されることだろうか?

 ナショナリズムに染まった僧侶を対話不可能な他者とみなし、「御門徒とともに」という言葉にたよって思考を停止すること、これが親鸞の教えなのだろうか?