What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「正しさの暴力」を過剰に主張し、さらに迷う

 ある意味で一部の読者の目には当ブログは他者を批判し傷つけ「正しさの暴力」を振るっているように見えるかもしれません。「正しさ」、正当性を盾に批判ばかりしてはいけない、過剰な暴力になってしまうという言説は昨今至る所でみられますし、実際には保守が左派からの批判から逃れるためにこのような主張を用いています。したがって、正当性を主張することに対する否定はどのような場面でも使うことができるためその使用法については慎重にならなければいけません。自分の都合のいいように使うのはいかがなものだろうかと私は思います。

 しかし、以下に載せる瓜生崇の主張はご本人の実際の経験に基づいて正しさの過剰や快楽について述べられていてとても参考になりました。また、この文章からは以上のような論点の過剰な強調によって生じる問題点も虚焦点のように浮かび上がってくるのでそのことについてもお話したいと思います。

私は9年前の2011年に今の真宗大谷派の末寺に入った。その前は、とある真宗系の新宗教教団で講師をしており、そこは伝統的真宗諸派とはいわば敵対する関係にあった。そうした経緯を持った以上、多少の差別やいじめを覚悟していたが、不思議なことにあまりなかった。その代わり、私はその新宗教教団の欺瞞性に気づいて脱会し、伝統教団で本物に出遭った、という体験を語ることを求められた。当初はその期待に応えて、各地で講演に呼ばれて積極的に語ったが、途中でバカバカしくなった。なぜなら、私が元いた教団ではその逆のこと、すなわち、伝統教団の欺瞞性に気づいてやめ、真実を求めてその教団に入った体験談が重宝されていたからだ。

 このような体験を語るように求められるのは当然でしょうね...。ご自身がそのように自分を売り出しているのだし、 実際私自身この瓜生氏については「某新宗教教団を抜けて来た人」ということしか知りません。さて、それは置いておいて、瓜生氏は宗教が持つ「欺瞞」「偽物」と「正しさ」「真理」という図式を導き出し正当性を主張する各宗教が内包する差別性に焦点を当てています。この図式自体には問題がないように思われますが、この問題にのみ終始しているコラムだったのでとても残念に感じました。

正邪の迷いから解放される教えを聴きながら、「正しい生き方」や「正しい信仰」という聖域に自らを閉じ込めてゆく。しかし、それのなんと居心地のいいことだろう。私も30年近く宗教を求めてきて、この懈慢の聖域から一歩も出られないのである。そうでない考えを語ることはできても、自分がそうなれない。私は宗教者だが、未だ宗教で救われていないのだ。 

 宗教が持つ「正しさ」、そしてその差別性と閉塞性を問題にしたいのでしょうが、真宗あるいは宗教を「正しさ」という軸でのみ語ることは的を得たものなのでしょうか。私は選択や正しさのもとで真宗の僧侶をやっているわけではなく、縁によってそうなってしまっていると言えます。真宗の他の宗教との比較は重要ではありますが、本質的には真宗が「正しい」から素晴らしいとか、「正しい」から信じているとか、そういうことを言うことはできません。縁によって出遭った宗教が真宗だったというそれだけのことなのだから(本山を中心とする政治的・制度的問題を抜きにすれば)比較に基づいた「正しさ」という軸はあまり問題とならないのではないでしょうか。勿論他の宗教への差別に対して無自覚であることはよくないことですし、真宗こそが正しいなんて叫ぶことにも問題がありますが、この差別性は宗教の持ちうるひとつの性質であって、宗教的本質ではないように思われます。

 氏は「30年近く宗教を求めてき」たそうですが、宗教を「求める」という姿勢が救いを阻んでいるのではないでしょうか。宗教はそれに対する希求や選択のなかでは「救い」という本質を発揮しない、と私は思います。私が「選んだ」正しさには、救いは到来しない。「私にはこれしかなかった」としか言いようのないものだけが私を救うことができるのです。他の誰も助けてくれない、そんな状況のなかで自分を救ってくれるただ一つの存在に対して正しいも何もありません。瓜生氏のいうように正しさや正当性を他者に対して主張するのは間違っていると思いますが、反対にそういう枠から離れることができない、救われることができないと決めつけるのも間違っています。宗教を「求め」「選択」する立場に身を置く限り、そこからは出られません。

 選ぶ立場にいらっしゃるのならば、どうぞまた宗旨替えをなさったらどうかと私は思います。「私は宗教者だが、未だ宗教で救われていない」などというレトリックじみた稚拙な表現を弄することをよしとしている時点で、宗教者としてのセンスやいかに。