What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

コメントへの回答

 丁寧かつ喜ばしいコメントを頂いたのでお答えしようと思います。

初めまして。真宗を学ぶにあたって、大谷派の先生や法話を検索する中で本日このブログに辿り着きました。 「無量寿イコール“いのち”」と押さえ、“問い”や“自己批判”に帰結することが多くある宗派刊行物に対して抱きつづけていたモヤモヤ感がこのブログを少し読んで、自分の中で具体化しました。 たまの拝聴機会がある本山の朝の法話報恩講での法話も詰まるところ「今のお前ってこんな考えしてるでしょダメダメ」みたいな、マイナスにえぐってくるようなものしか聞いたことないです。(偶然そう言う人に当たったいるだけかもしれませんが) 優しい母親を阿弥陀仏に見立てる比喩、強い弱いの物差しでしか生きられない私云々は たまたま僕が優しい母の元に生まれて、いじめられることなく 生きてきたから聞けるだけで、これ虐待されてきた、そうじゃない方はどんな思いできいてるんだろう、聞かせられるんだろうと思い続けていました。 私は寺の生まれで長男です。一昨年卒業した大学ではインド哲学(専門はヒンドゥーですが)を学んでいました。学部レベルですが、仏教についても学んできました。授業では、概説に加えて、チベット金剛般若経や、パーリの沙門果経、種々のジャータカなどの翻訳も取り組みました。 そんなこともあって、教区の研修会や法座に行き始めた頃は、「え?これ仏教なの?」と驚かされてばかりでした。が、 いつの間にか御門徒さんとの会話でもいのちだの問いだの、知ったように話してしまっている自分がいました。 このブログを見て初心の疑問を取り戻せました、ありがとうございました。長々とすいません。 ひとつ質問があります。上述したように教えを聞いてもうなづけないところが多いです。 それでも法務の中、法話の機会があります。宗教者として「寄り添う」ことを主としたいですが、どう原稿を書いても自分の都合に合わせて仏教の言葉を引っ張ってきてたり、聞いてる人の過去によっては傷つかれる表現なのではとなかなかまとまりません。 何か、コツ、ご自身が気をつけられていることはないでしょうか? 気がついたら大変な長文になっていました、すいません。 首都圏の御寺院さんとのことで、このような社会状況のなか、私では思いも及ばない御苦労をされておられると思います。 冷え込んできましたが、お体ご自愛ください。

 「え?これ仏教なの?」という疑問はうやむやにせずに大切にしておいた方がいいと思います。「問いが大事!!!」とは申しませんが、納得できないことをそのままにしておくと上滑りした言葉をただ使ってしまうだけになってしまうので、自分が根本的には納得できないことは口にしなくていいし、研修会でも「ほんとうにそうですか?」という疑問を提出するべきだと思います。ただわたしの経験上それで風向きが変わることはなかったです。質問の意図を理解できる人は思った以上に少ないし、講師や担当者が激昂する場合もあるので注意が必要です。でも、インド哲学専攻でまだお若いとのことですのでそれを前提に純粋に質問してみるのはいいのではないかと思います。

 ご質問の私自身の法話のコツあるいは気をつけていることについてですが、改めて考えてみると言葉にするのが難しいです。「寄り添う」といっても言葉だけで御門徒と寄り添えるわけではないですし、むしろ御門徒の方との関係は仏教以前の思いやりが必要だと思います。正直な心を伝えて、「いのち」とか「絆」「関係性」などといった漠然とした言葉を使わずに自分の経験や考えを語ることが大切です。また、社会的なトピックに関する見識を深めることも重要です。特に差別に関する事柄は今はSNSで様々な見識を知ることができるので、いろんな情報を取り入れながら自分の立ち位置を定めておくといいのではないでしょうか。また「これはダメだろ」という例を知るためにも批判的な立場でいろんな法話を聞くのもいいと思います。それを続けていくと、自然と自分のスタイルが形成されていくでしょう。私自身が偉そうに言えることではないですが、兼業とはいえかれこれ20年程僧侶として仕事をしてる私から言えることはこれくらいです。

 大谷派の内向きの研修会はどうしてもクローズドなので皆んな言うことが似てくるし、進歩もありません。なのでご専門の分野の書物やそれと関連するものを卒業後も読み続けておくと大谷派の思考に染まらずに済みます。

 というか関係者の方々これ読んでますか??こういう風に思われてるのに何も変えないつもりですか??