What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

集金目的の慶讃法要と納金の取り立て(コメントを頂きましたので返信申し上げます)

 前回の記事(安倍政権と親和性の高い大谷派 - What is Shinshu?)に対して丁寧なコメントを頂きましたのでアフターコロナ、コロナウイルス感染症の収束後の相続講や一般寺院(末寺)の問題について言及しておきましょう。頂いたコメントは以下の通りです。

はじめまして いつも貴ブログを拝見して宗派と宗派関係者に感じるモヤモヤからくる留飲を下げているものです。最近アップが相次いでいるあの法話もなんだかなあと思いながら一応見ておりました。

【コロナ対策と僧侶】の項に書かれていますように、この状況下で失業される御門徒もすくなからずおられるでしょう。ということは御門徒の浄財をいただいている我々寺院や宗派の運営にも影響が出るでしょうが、基本的に本廟護持は強調しても一般寺院護持については何の興味もなさそうな宗派はさていったいどんな対応をするのやら、と斜めな期待をしているところです。
そういえば相続講についても触れておられますが、2019年度から慶讃法要懇志金の納入までの間は相続講についても完納するようにというお達しが出ておりましたけれど、まさか我が宗門はこの状況下でもその方針を徹底するのでしょうかね……あまり末寺を締上げるとそろそろ地方から宗派離れ・本山離れが起きるのではないかなあなどと思う今日この頃です

 はっきり言って本山は一般寺院の護持に対して全く興味をもっていません。自らを本山とか大谷派とか偉そうに宣ってますが、構造を見てみるとそれは単なる頑丈で巨大な集金機構のようなものです。だから宗務役員たちも公務員みたいな面で働いている。特に本山の宗務役員は権力者以外には挨拶もしません。教えの中心地にいるはずなのに、最も教えと遠い振る舞いをしている。各教務所長は着任後には大寺にだけきっちり挨拶に行き、そうでないお寺には挨拶などわざわざしません。なにが御同朋だ馬鹿やろう。

 また議員たちの多くは力を持った大きいお寺の方なので、小さい寺が潰れて自分たちが生き残っていれればそれでいいと思っている人が大部分です。末寺を守ることについて議論されることは弥勒菩薩の到来くらい後になると思われます。本山関係の人も「自分は食っていけるからいいや」と思っているので別に問題にしません。議員たちは全員、小さい末寺のことなど一切考えていません。過疎地域を支援するという「企画」を無駄な役職を作ってがんばっているようにみせてますが、その無駄金を全部支援金にしたり納金の削減に当てた方がいいと思います。

 これまでは経済的規模の大きい寺院が離脱するケースの方が多かったと思われますが、これからは「もう本山納金が払えないから離脱せざるをえない」という寺院もでてくると思います。しかしそのことを想像もせずに完納を強いてくる本山に「ともに」などという資格はありませんし、「宗祖親鸞聖人」などという権利もありません。増税と同じようなタイミングで願事礼金や冥加金を法外に値上げしたり、これじゃ娑婆となんら変わらない。

 豪奢な建物をつくることにしか興味のない大谷派にもはや未来はないように思われるのでむしろ本山を頼らずに暮らし、そしてこちらがいかにして納金を削減したらよいのかという抜け道を探るしかなさそうですね(門徒戸数を減らしたいところですが、組内のことも絡んでくるので結構難しいところもあります)。無駄な建物が多すぎるし、昔はホームレスがいたのにそれも排除されている。代わりに「しんらん交流館」なる宗祖を呼びすてにし、高級ホテルのカフェが併設された箱物が立っている。限られた者しか休憩のできない場所を「交流」の場とするとは宗祖もさぞお悲しみのことでしょう。

慶讃法要はクソすぎる

 立教開宗800年というわけのわからない法要が開かれようとしています。もはや何かと理由をつけて法要を開いて金を集めているとしか思えません。宗教的な時間の流れに則るならば、立教開宗1000年に合わせていまから200年かけて聖典や各御聖経の読解をコツコツ進めるべきで、付け焼き刃で作られたような翻訳に全く価値が見出せない。本山から出ている教行信証の解読本もただ現代語訳っぽくしているだけで、細かな作業を省いている。これなら敢えて大谷派が作る意味があまりないように思われる。すでに本願寺派の優れた現代語訳が存在しているので、それを質的に上回るものでなければ無意味なのでは??あの親鸞聖人が、自分の教えのために半強制的に徴収されたお金を使って法要が開かれていることを喜ばれるのだろうか。今や本山まで行く門徒の方も少なくなってきたことだし、本山や別院の位置付けが変わってきている。ほとんどの門徒さんには関係のない場所になってきているのである。

 教学研究所の所長にしろ、学長にしろ、なんにしろ全ての研究機関が腐敗している。特定の寺族が宗門に蔓延り、研究実績のない人間が所長になるという事態だ。この宗門の唯一の素晴らしさはその大きな規模のなかに多様な人材がいるということにあるのに、どうやら宗門はその良さに気がつかず、力を持った一族や御用学者だけを大事にするだけで、まともな批判や議論を行おうとしない。

余談に

 あと、本をプレゼント!という企画が多すぎてうんざりする。子ども会をしているお寺に本を100冊プレゼントとか、100人の方に一冊本をプレゼントとかいう企画が横行しているけれど「それ!誰のお金なんだよ!!」ってなります(本が欲しいやつは金出して買えばいいんだよ)。本山は「いただいている」という自覚がないのでしょうか、「いのちはいただいたもの」とか仕切りに言っているのに…「じゃあお金はなんなんですか?いただいたものですよね?取り立てるものではないですよね?」と問いかけたいものです。本来ならばプレゼントをするような立場ではないはずなんですよ、お布施をありがたくいただくという気持ちを忘れているからこんな勘違いをしてしまうんでしょうね。毎月毎月カラープリントされた無駄な紙ばっかり送ってきやがって、少しは節約してくれよと思う日々です。同朋新聞などは表紙以外は白黒でいいですし、とにかく不必要なチラシが多すぎる。