What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

「疫癘の御文」は真理を説いているのか?

 前回の記事「コロナで死んでも、それはコロナのせいじゃないらしい」で問題にしましたが、「疫癘の御文」ってそんなにいつも引用しなければならないほど素晴らしい文章なのでしょうか。私親鸞聖人は言うまでもなくとても尊敬していますが、蓮如上人は少し素養も違う気がするし、あんまり好きになれないんですよね。

 さて難波別院の竹中慈祥という方が書いた文章がなんだかとっても「素晴らしかった」のでみなさんにも読んでもらいたくて今回取り上げてみました。

 これ「南御堂」用に作られた教化パンフレットのようなものみたいなのですが、これにもまた「疫癘の御文」が紹介されていました。もう今の時点で嫌な予感しかしないのですが、僧侶の皆様はこのコロナが収束した後になんの考えもなしにこれを法話のネタにするのを絶対にやめてくださいね、門徒さんがきっと減ります。なぜかと言うと、この竹中慈祥という人の文章にはいくつか問題があるからなんです。

竹中氏の解釈

 よくわからないんですが「不安は解消しないのだ」という大谷派にありがちなフレーズを前置きして、不安の中を歩めということを言いたいみたいです。もうそういうことに対してはいちいち批判しませんが、疫癘の御文についてこのように書いてありました。

それは、どうせ死ぬとか、死んでも構わないという運命論や開き直りではありません。「不安から逃げず、不安に負けて無用に他者を責めたり争ったりせず、むしろ不安をきっかけに、いつかは終わる我が人生を見つめ直し、共に今を生きよう」と言う励ましのお言葉なのです。

 だそうです。これほど注釈つけて読まなければいけないお手紙に果たして意味があるのかと思ってしまうところですが、この「不安をきっかけに」ということについて少し考えてみたいなと思いました。

ありがちな「一足飛び」 

 私は不安の解消不可能性にもある程度は賛成します。コロナへの不安は行政や医学の問題なので解消されるべきことではありますが、不安一般は解消されることはありません。だから宗教家として不安そのものについて思考を巡らすこと、これはひとつの義務であると認識しています。しかし実は、この態度は竹中氏と同じではありません。なぜなら、彼は不安をひとつの「きっかけ」としか思っていないからです。氏は人が抱える不安の内容などには興味がなく、ただの自覚のためのきっかけに過ぎないと考えているのではないかと疑問を持ちました。

 「不安から逃げず、不安に負けて無用に他者を責めたり争ったりせず、むしろ不安をきっかけに、いつかは終わる我が人生を見つめ直し、共に今を生きよう」という言葉がそれを証明しているように思います。たまにお通夜で「亡くなられた方をご縁として仏法を云々…」とか「亡き人をご縁として」などと語る僧侶の方がいますが、正直にいって「段階飛ばしすぎてない?」と思ってしまいます。亡くなられた方を偲ぶ場で、その人の死をひとつの「きっかけ」としか思っていない大変不謹慎な発言ではないでしょうか。私が門徒さんの立場だったらお寺を変えます。大切な人を亡くした経験を乗り越えた当事者が後々になって「あれがご縁になったんだなあ」と思うのならいいのですが、他人が最初からそれを言ってしまうのは間違っていると私は思います。

 これと同じことが今回のパンフレットで起こっているのです。自分は不安そのものと向き合ってもいないのに、不安を「きっかけ」にして人生を見つめ直して、「共に生きろ」というスローガンに飛躍している。釈尊はキサーゴータミーに最初から「みんな大切な人を亡くしているから、この子供の死をご縁として人生を見つめ直しなさい」とお説教をかましましたか?彼女の悲しみに寄り添って、時間をかけて教えが心に染み込むように導いたのではないでしょうか?

この状況下で言われる「ともに」という言葉ほど響かないものはない

 本来「ともに」という言葉は、その行動を伴うことによって意味を為します。言葉のみで「ともに」を実現させようとするのは誠実とは言えません。「ともに」の精神が現実にどう働きかけてくれるのかをみせてくれなければそれはただの民衆への押し付けになってしまうのではないでしょうか。この「ともに」という言葉が持つ潜在的な差別性について考えてみたいと最近思っています。

 この「他者と共に行きましょう」という言葉は、マイノリティーや弱者を配慮する言葉ではあるものの、マイノリティー自身の実践ではなく多数派に向けられた啓蒙の言葉です。この呼びかけも全くの無意味ではありませんが、「差別はやめましょう」という言葉だけではとても「共に生きている」とは言い難いのです。何が言いたいかというと、ここにはマイノリティー自身の主体性が想定されていないということです。差別されたマイノリティー自身がどうするべきか、という思考が大谷派には欠如しているのではないかと私は思います。その証拠に差別された方や不利益を被っている側が声を上げる機会や受付が存在しません。 最終的には米田トミさんのような威圧感を持って怒号を上げなければまともに取り上げていただけないのが現状ではないでしょうか。

 このような言葉を使っていいのは今月の同朋新聞に出ていた奥田牧師くらいではないでしょうか。共に生きることに汗水流している人だけが言っていい言葉なのです。大阪という立地にありながら、炊き出しすら行わず「炊き出しをしている団体」に残り物の餅を寄付するだけでドヤ顔をしている難波別院に「共に今を生きる」などと言われる筋合いはありません。

コロナを通して「自己を見つめなおす」としか言えない僧侶はそこが限界

 さらに、これらの僧侶は「お念仏」を欠いていると言えます。彼らが帰依するのは、別に浄土真宗でなくてもいいのではないかとさえ思います。「問いは素晴らしい」「自分に向き合う」「自分を見つめ直して今を生きよう」、自己啓発と言っていることは変わりないように思われます。お念仏の教えがなぜ素晴らしいのか、なぜ正しいのか、なぜ人を救うのかということを積極的に言えなければ…彼らにとってお念仏とはなんなのでしょうか?立教開宗の前に今一度「お念仏」というものがなぜ他の行為に置き換えられないのかを考え直してみるべきだと私は思います。

本山納金も大事なトピックですが、僧侶として「思考」を磨きましょう

 本山納金の件でアクセス数があり得ないほど伸びています。これはとても素晴らしいことだと思いますが、思想的な問題についてはあまり関心のある方がおられないようです。つまり、これらのことについて議論する土壌が大谷派には皆無であるという悲しい現実を表しているのではないかと絶望しています。

 信仰と知識は違う、ということは言えるかもしれませんが、教えについて深く考えもせずに僧侶として金銭を得るなんて私には恥ずかしくてできません。専業の方なら尚更です。