What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

孤野秀存の母親に対する幻想

2020年版の教化冊子『真宗の生活』が届いたので少し読んでみたが、最初の孤野秀存という大谷専修学院長の言葉だけがあまりよくなかった。母親と阿弥陀如来を同一視するハラスメントがまたもや展開されていた。どうやらこの専修学院、私とは宗教宗派が違うような気がしていたが、違いはジェンダー観にもあったようだ。

みなさん、お母さんがおられますね。そのお母さんのお腹の中から「オギャー」といって産まれたとき、みなさんはなにか注文を付けたでしょうか。おそらく無条件だったと思います。「このお母さんのお腹から産まれていいものだろうか」と、そんなことを考えて産まれてきた人は誰もいません。この世に与えられた自分のいのちを無条件にすべてお母さんに任せていたでしょう。そして、お母さんが身籠ったいのちを大切に育んで、やがて時が満ちて私どもはこの世に産まれてきました。つまり、自分を全面的にお母さんに任せ て、信頼して、この世にいのちを受けたわけです。 お母さんの方もそうなのです。子どもを産むときに、「この子はちゃんと親 孝行してくれるだろうか」などということを思って子をお産みになるお母さん は誰もいないと思います。とにもかくにも産まれてほしいと、ただひたすら子 のいのちそのものを思って産むわけです。産んでくれるお母さんも無条件、産まれてくる私どもも無条件です。お互いにすべてを任せて私どもはこの世にいのちを受けてくるのです。ちょうど阿弥陀如来と私どもの関係もそのようなことと言えるでしょう。何ら注文をつけない。如来は「えらばず、きらわず、見すてず」と、どのような ものをも摂取不捨するという誓いを建てています。その如来誓願を無条件に信じて、「南無阿弥陀仏」と念仏申す。そういうことが「本願招喚の勅命」といわれている「南無」のひと声です。何のはからいもなく、お母さんの愛を素直に信じて、「オギャー」と赤ちゃんが産声をあげると共に、お母さんがお母さんになります。そのように、如来も、私どもの「南無」の一念をまって、阿弥陀仏阿弥陀仏となって、その摂 取不捨の本願が成就するのです。

 

月刊『同朋』 2018年10月号(東本願寺出版)より

 母親は無条件に子どものいのちを思って産むのだろうか。それでは中絶は絶対に起こらないし、出生前診断も不要だろう。日々膨らんでいく胎児に対して恐怖を感じる母親もいるし、トイレで産み捨てる人もいる。「無条件に子どもを守る母親」という幻想が阿弥陀如来に結び付けられている。どんな状況でも母親は子どもを守れるわけではないので、母親が子どもを育んでいける環境づくりが必要だというのに....。この幻想の母親像は以前書いたように仏教的にも適切ではない。母親は一人の凡夫で、複雑な思いの中出産をする人もいる。誰もが不安だし、妊娠中や産後にも鬱になったりする。この狐野という人のような男性がこの世からひとりでも減ってくれることを祈るばかりである。いい加減、阿弥陀如来と母親を同一視するのはやめて欲しい。母親たちは偉提希と同じように「阿弥陀如来に救われる」のであって、「阿弥陀如来のように救う」存在ではないのだから。

 子育ての時の母親は阿弥陀如来のようでいなければならないし、それが終われば「女性」として罪障重い凡夫の身であることが強調されるという典型的なミソジニー。神聖視したかと思えば蔑むという女性差別の典型が大谷派では実践されている。不安な母親たちを助ける社会福祉という考え方は、この人の考え方からは絶対に生まれることがない。この幻想が打ち砕かれない限り、母親たちは如来のように自発的に完璧に子育てをしなければならないことになるし、そうできなければろくでなしと呼ばれるだけだ。これは御教えを装ったセクハラである。