「親鸞仏教センター通信」第66号の表紙に載っていた文章を見てみようと思うが、そこに見えたのは「ともに」あるいは「関係性」という話の“限界”である。
「或る捨身の記録」からという題名の文章で、書いたのは青柳英司という親鸞仏教センター研究員の人だった。書いてあるのは、善導にまつわるエピソード。
善導という僧が寺の中で説法をしていると、ある人が問いを出した。
「念仏をすれば、必ず浄土に往生できるのか?」
善導は答えた。
「必ず往生できる」と。
すると、その聴衆は念仏を称えながら寺の門を出て、柳の木の上に登ると、西を向いて合掌し、そこから身を投げて死んだ。
善導のこのエピソードは「仏道のために身を投げた美談」のひとつとして伝えられているそうだ。このエピソードについて、青柳氏はこう言っている。
ただ善導は、死んで浄土に往生すれば全て解決すると、安直に考えていたわけではないだろう。善導自身も投身自殺を遂げたとする伝承もあるが、それは近年の研究によって、後世の創作であることが明らかとなっている。事実、善導の著作中に、自殺を奨励するような記述は見られない。
確かに善導が自殺を奨励することはありえないだろう。しかし、以下の記述には疑問がある。
むしろ善導が身を捧げたのは、浄土の教えを他の人々へ伝える実践にだった。「同じく浄国に帰して、共に仏道を成ぜん」(『観経疏』)と述べているように、善導にとって浄土は、独りで生まれていく世界ではない。他者との間に「共に往生を願う」という関係を志向させるものとして、善導は浄土の教えを捉えていたのである。もちろんそれは、浄土を説けば他者との関係がすべて上手くいくという、安易な話ではない。ただ善導にとって往生を願うということは、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのものであったことは事実だろう。
…事実ではないだろう。浄土の教えが「他者との関係を築いていく」とはいかに。大乗仏教としては利他ということは重要な要素だが、それは「人間関係」だろうか?大乗の菩薩行は人間関係なんていうもので語れるものとは思えない。「往生を願うということが、現実から逃避することではなく、他者との関係を築いていく意欲そのもの」というのは全然頷けない。法然や親鸞の教えは確かに他者、利他という視点があるかもしれないが、それは現世で人間と関わっていこうとかそういうことではないだろう。むしろ、それを一旦停止して「自分は念仏をしよう」ということの方が親鸞の教えにおいては重要だと私は思う。親鸞の教えが人との関わりあいの中で培われたものであっても、その内容が「人と関わりましょう」というものではないだろう。
そこまで言ってしまうのなら、教えにあって具体的にどのような心境で他者との関係が築くことができるのかどうか体験を交えて語ってもらいたい。「他者との関係性」とか、それだけ言ってるなんてなんか哲学の二番煎じって感じしかしない。
善導が「ともに往生する」という姿勢をもって、他の人々に浄土の教えを伝えたのはそうかもしれないが、それは「他者との関係を築いていく意欲そのもの」とは違うだろう。先日の記事でも書いたが、「昼寝をやめよう」とか「人と関わろう」とか、いつから浄土真宗は新人研修セミナーになったんだろうか。「自殺を奨励しているわけではない」という表現も気に入らない。確かにそうかもしれないが、自殺を悪とする価値観は私はどうも好きになれない。だって、私たち僧侶はそうやって命を失った人たちの遺族と向き合い、言葉をかけていかなくてはならないからだ。こんな言葉、一体誰に伝わると言うのか。他者との関係を築く意欲を大切にするのならば、もっと思考を費やしていかなければならないのだ。