What is Buddhism? What is Shinshu?

真宗大谷派関連のテキストや配布物に関して批評するブログ。愚痴も入ってますが、ひとつの意見としてみていただけたらと思います。

自己反省に歯止めをかけてくれ

真宗』2019年5月号を読ませていただいた。そのなかの「悪しきこころをさかしくかえりみず」というコラムがとてもよかった。気がついたら書いた方は中山善雄という研究員で、当ブログで「これはよかった」という記事で紹介したのもこの方が書いた文章であった。こんな気味の悪い批評ブログで評価されてもこの方のご迷惑になるのではないかと心配しながら賞賛させていただく。

追い詰められることでイライラして大きな声をあげてしまい、その自分を「駄目な親」という思いで責めているのが、多くの母親の実情ではないだろうか。母親にこれ以上何かを要求すること、自己反省し責める方へと向けていくことからは、何も生まれない 

 本当にそうである。このコラムでは過剰な自己反省や厳罰化が人を苦しめることに気がつき、『唯信鈔文意』が「自力の心を捨てること」を「あしきこころをさかしくかえりみず」と解説している点に注目し、この文は自己反省・自己嫌悪の残酷さに気がついた感性から発せられることばなのではないかと述べている。(ちょうどこのコラムの横には別の方が書いた文章があり「穢身の自覚」が重要であると形式的に書かれていたが、まるで対照的であった)

 過剰な自己反省の対極には「そのままの自分を受け入れなさい」という不可能なマゾヒズムが待っていると思っていたが、このコラムはその最悪な二極から抜け出させてくれるような、「あしきこころをさかしくかえりみず」という親鸞の良バランスかつ現実的な思想を示してくれている。「問い続けること」、「自己を見つめること」の過剰さが人を追い詰めてしまうことを自分以外のどこかの僧侶が知っているということがわかって、とても救われたような気がした。

 

「問う」とは「それを問題とみなす」という意味なのだが

 『真宗』2019年4月号に「それぞれの往生際」というコラムがあった。

 人は様々な死の迎え方をしてきた。『往生際の日本史ー人はいかに死を迎えてきたのか』(小山聡子、春秋社、2019年)には、現代にまで影響を与え続けている「末法」という仏教的な歴史観を生きた源信恵信尼徳川家康宮沢賢治など、古代から近代に至る歴史上の人物の多様な「往生際」が描かれている。そこで人々が自身の終末期と、「地獄」に象徴される死後の世界への恐れに向かい合う様子は、あるいはその「往生際の悪さ」は、自身の死に方を考えることが時代を超えて「後生の一大事」であったことを教えている。

 往生際はずっと問題となってきた。善導の『観念法門』然り、仏教は臨終行儀を事細かに設定し、それが浄土往生にとっての最重要課題とされてきた。このコラムでは戦時中は「死二方用意」という臨終のあり方の強制があり、また現代では死刑制度がそれと同質であると語られている。そのような命の終わらせ方に対して、この御手洗隆明という研究員の方は以下のように述べている。

 この問題に限らず、大災害や「死」など、私はいつ当事者になるかわからない。その時に備えようとするが、全く間に合っていない。それでも「間に合わないというところにたてば、常に向き合っていける」「問いを持ち続けて生きていくことで自分が成長する」と先人の声が聞こえる。往生際まで問い続け、想い続ける生き方もあるようだ。

 往生際まで問い続けるということに重要性を見出しているようであるが、私にはよくわからない。 臨終の話から、臨終の準備には間に合わないからそれまでのプロセスが重要という話にシフトしているのだろうか。「問い」の絶対化についてはこれまでも別の記事で言及したが、「問い」とは「問題とみなす」という意味ではないだろうか。問題ではないことをわざわざ問題にする、ということは人間の迷いの一つである。だから「問い」を持ちなさい、というのはあまり人の救いに繋がるとは言い難いし、そろそろ私としてはなんらかの「答え」を示してもらいたい。

 この「臨終」に関して親鸞が与えうる答えは一つである、「そのことを問題にするな」。問うことは確かに大切だし心がけておいて悪いものではないが、「それは問題ではないんだよ」という問いを停止させる声が人を救うこともあるのではないだろうか。親鸞の思想には「自分が成長する」とかそういう教育的配慮ではなく、もっと暖かみある優しさを感じるのは私だけなのだろうか。

母性と仏について:『花すみれ』を読んで思うこと

 ジェンダー問題にも積極的に取り組みたい姿勢を見せる本山だが、それがただのパフォーマンスなのかどうかは日頃の行いによって判断される。その上で言わせてもらえば、未だに本山はジェンダーに関するリテラシーを著しく欠いている。まだ発展途上なのかもしれないが、それなら尚更批判しておかなければなるまい。

 というのも、先日『花すみれ』という真宗大谷派大谷婦人会なるところが発行している冊子を初めて真面目に読むと不自然な点があったからだ。「お母さん」というワードが際立って用いられ、その母性が仏と重ね合わせられている。このような喩えは時として必要かもしれないが、婦人会の冊子で定型式のように用いられていることを問題ではないとは言えない。

 子供を見守る母親と仏さまを重ね合わせる話はわかりやすいけれど、実際の母親は阿弥陀如来ではない。悩みながら進む凡夫の一人であるはずの母親を阿弥陀如来とすることで、彼女らは「他者」という位置付けを帯びることになりはしないか。この母親像、母性神話は捏造された幻想である。外見上は比喩にみえていても、これは暗黙のうちに母親に大変な理想像を押し付けている。暗黙とは言わず「母親はこうあるべきである」という偏見を直接的に押し付ける法話や文章を見ることも少なくはない。これを問題ではないというのなら、差別についての学習会を一万回開いても意味はない。

 しかも、女性が主体的に作っている冊子であるというのも考えものである。「女性である私が傷ついていないから問題ない」という間違った論理によってこの母性神話が保護され続ける可能性がかなり高い。というか婦人会主体の冊子でこの母性言説を流布していること自体、差別性を十分に意識した上での行いだと思われても仕方なかろう。

 「親様」という表現はきらいではないけれど、それが全てではないことを理解しておくべきだろう。虐待されて育った人にとって親を仏様と重ね合わされるのは想像を超える苦痛であるはずだ。今や毒親といった問題も語られるなかで、母親と仏を同一視する風潮は社会と不釣り合いになりつつあるのだ。「そこまできにする必要はない」と思うかもしれないが、私は誰かが傷つく可能性がある法話を避けたいし、その危険をおかしてまで親と仏を結びつける必然性を感じない。

 親様としての阿弥陀は、家父長的なイデオロギーでも「ありえる」ということも一言添えておこう。近代教学、現代と親鸞とかいいつつ、われわれは本当に江戸時代を乗り越えたのだろうか。

凡夫と自己責任

 先日届いた彼岸用の冊子を読んでいると、少し気になることが浮上した。凡夫であることの自覚と自己責任は同じなのかという問題である。現代では冷徹な自己責任論が幅を利かせ、当然他方でそれに反対する言説も多く生まれている。自覚と自己責任が同一であるわけはないはずだが、常に両者は混同されて語られているのは、きっと誰もそれを意識していないからなのではないだろうか。

 これは恥ずべき姿勢である。私が自覚に対して持つ嫌悪感の一つの要因となっているのが、この混同である。ところで、このことを考えるきっかけとなったのは次の文章だった。

今から半世紀前に亡くなったある涙の深いお同行の、

「お寺の石段は、涙のかわかんうちにのぼらんば、そして仏法にうたれんば、自分で自分を責めたら暗うなるけど、仏法によってわが身を責めれば、宿業の底に明るい世界がまっとっとばってんな…」 

という言葉が思い起こされハッとしました。

  書いたのは長崎教区の藤井映という方で、その人自身は特に言葉をそこまで深めることはしていないのだが、私はこの「自分で自分を責めたら暗くなる」ことと「仏法によってわが身を責める」ことの違いが気になった。

 

・順序の間違い

 この世の中は自己責任の呪いで満ちている。人のせいにしてはいけないし、自分がしたことの責任を負わなければならない。仏教もある意味では自己責任論のような側面を持っているけれど、それは社会から個人に課される暴力的な支配ではない。この点を履き違えてはいけない。

 自覚を条件として叫ぶ方々の中にはその自覚の因が自分の精神的な潜在性にあるとお思いの方もいらっしゃるようだが、それは間違いである。なぜ自覚が可能になったのか、なぜ凡夫である自己を受け入れるようになったのかということを考えない限り、浄土真宗は刑務所と同じである。「仏法によってわが身を責めれば、宿業の底に明るい世界がまっとっとばってんな」という同行の言葉を時間的な流れで理解してはならない。ここに書かれているのは順序ではないし、順序が仮にあるとしたら文章とは逆の順序である。

 「真宗に出会って、心が病んでしまう程悩んだ」と武勇伝のようにして自覚体験を語り、真宗とは厳しい教えであると述べる方もいるが、これもまた自己責任論と同一の根を持っている。心が病むようにして自覚を強いるのはどう考えても暴力かつカルトな宗教である。心を病むほど自覚の経験をした人がそれを良いこととして語るという時点で矛盾しか感じない。

 修道院の前で何十日間も罵声を浴びせられ、愚かな自分を認めることを求められる中世のキリスト教徒でさえ、目の前に修道院があるからこそ試練を乗り越えることができる。

 

・仏法によってわが身を責める

 このことは仏法の存在があって初めて実現される。「明るい世界」が実在性をもつことによってしか実現されない。罪を認める前にこの「明るい世界」の存在を実感しなければ、罪を自覚することなど不可能なのだ。自己責任論とは自分がやったことの責任を自らが引き受けるというものだが、仏教はそれと等しいわけではない。自分のしたことの責任を取れるようになるにはどうすればいいのか、そしてその因果の根本的には煩悩というものがあり、それは必ずしも自分の意識のみによって克服できるようなものではないということ、そして浄土に往生することは自己責任とは全く別のものであるということ(むしろこの全く別のものによって自己は責任を負えるようになっていく)、また自分が責任を負うべきものとそうではないものの区別の仕方(負うべきではない責任を請け負うのは虚妄である)を仏教は教えてくれるのではないだろうか。

 自分で自分を責めるのではなく、仏法によってわが身を責める、という言葉の深さをもっと考えたいと思う。このコントラストによって知れることはとてもたくさんあるのではないだろうか。

高度経済成長期から更新されない「現代」

今回は2019年1月号の「ともしび」の〈聞〉のコーナーに書かれていた「『現代の聖典』に思う」(花山孝介)について批評したい。しかし、特に新しい考えをいうつもりはない。いつも思っていることを書こうと思う。

 私たちが求める幸せとは、何を根拠にしているのか。考えてみれば私たちは、自己関心の延長上に期待する理想をひたすら追い求めているだけではなかろうか。具体的には、便利さと快適さと合理的な生活の中で、自分だけの満足を求めているに過ぎないのではないだろうか。しかし、どれだけ人間の願望を延長しようとも、人間の思いの領域を出ることはない。 

同朋会運動が盛んだった時期というと、それはちょうど高度経済成長期だったはずだが、それはみんなが経済の成長に沿って欲望と理想の実現に向けて生きていた時代だった。そんな時代だからこそ、上記のような思想は際立ち、人々を感化させてきたのではないだろうか。

しかし、今は事情が異なる。自己関心の延長上に期待する理想をひたすら追い求める人はあまりいない。そんなのは月に行こうとしているZOZOTOWNの社長、それともアメリカ第一主義を叫ぶドナルド・トランプくらいだろうか。殆どの人々の望みの中には、人間の愚かな願望とは言い切れない程のささやかさと切なさがある。『現代の聖典』なんて言いつつ「現代」という時代を考えないのが常識となってしまったが、そろそろ更新するべきだ。

そしてもう一点「人間の願望の延長」ではないような信仰とはどのようなものなのか、私はいつもわからなくなる。それは同朋会運動的な主体的な信仰を本当に意味するのだろうか。特別な信仰を持った人々が、門徒の中でも特別な人間として、学習会や聞法会に偉そうな顔で出席し、時には得度を受けたり教師資格をとったりする。それは「特別な人間でありたい」という極めて人間的な幸福でしかない。親鸞はもっと人間の心を見抜いた鋭い教えを説いている筈である。だからこそ、人間は信心を「いただく」しかないし、それはもはや人間の意識を超えたものでしかないと私は思う。

 

  • 余談

東本願寺日曜講演のタイトルのなかに「衆生滅尽––本当に私たちは人間として生きえているのか––」というものがあった。宗教的脅迫、そんな言葉が頭に浮かんでしまう。「私たち」ではなく、まずは「私」にして頂きたい。

弱さを弱さとして認めることができる教え(中山善雄氏が書いた『ともしび』[2018年8月号掲載]について)

「ただのいちゃもんつけのブログだろ」って思われるのは癪だから(思われてもなんの問題もないのですが)、今日は初めて「これはよかった」と思える文章について書こうと思う(批判とは否定とは違うのだから)。それは中山善雄という人が書いた文章だった。

www.higashihonganji.or.jp

 

 幼少時、家の事情があり、住んでいた町から隣村の幼稚園までバスで通っていた。元々気後れする気質でもあり、私はその幼稚園にうまく馴染むことができなかった。ある時、大人の目がない中で、何人かの子に囲まれて乱暴されたことがある。子どもにはよくあることなのであろうが、私は幼稚園に行くことを畏れるようになった。それでも居場所を得るために、周囲に何とか合わせ、流れについていこうとし始めたのが、その頃であった。
 年齢を重ねる中でそのことは忘れていった。しかし、他者の眼差しを畏れ、弱い者・暗い者と思われないために装う中で、いつの間にか「強い者・できる者でなければならない」という価値観(ものさし)が身についていった。その結果、人から暴力を振るわれることはなくとも、私自身のものさしが私を監視し、裁くようになったのである。
 自分がもっている「こうあるべき」「こうありたい」という思いは、畏れの中で自ら内に取り込んでいった世間の観念であるにもかかわらず、それを自分の確かな主体として自明視していた。ある時期から、その生き方が虚偽であることは感覚し始めていたものの、自我意識の中で作られた「私」は、限りなく「私」を確固なものとし、支配権を広げることを主張する。その妄執に、私は手もなく翻弄されていった。
 そのなかで道標となったのは、他ならない、自分が一番嫌悪していた、自分の弱さと脆さである。強く自分を固めようとしても、そうあることができないためらいが残り、小さなことに悩む、割り切れない自分の心がある。それが「こうあるべき」と自ら抑圧する私に、「それでいいのか」「本当にそうなのか」と微かに問いかけてきていた。
 自らの弱さを、自分の生き方への問いかけとして聞くようになったのは、ある人から「本当の主体性は、うずくまってしまうような弱さの中にいきづいている」という言葉をかけていただいたことから始まった。そこには人間の弱さを限りなく尊ぶ眼差しがあった。その眼差しを受けて自分の弱さが、弱い自分を嫌悪する私を痛む問いかけの声となり、その中で、記憶から消し去っていた幼い頃の光景と、強弱で裁く世界に悲しさを感じていた自分の心が少しずつ蘇ってきたのである。
 親鸞は、「門余」という言葉を掲げ、「余はすなわち本願一乗海なり」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』三四一頁) と記している。この「余」は、私的な解釈であるが、「聖道門」という「こうあるべき」という観念の中で、人が抱える「余り」の感覚、すなわち「割り切れなさ」でもあろう。そこに「本願」が宿るということであろうか。どれほど自己軽蔑の中で弱さや悲しみを消そうとしても、それゆえにこそ、その身を痛み、自己を回復せしめようとする確かな呼びかけがそこにある。
 私たちが余計なものとして軽蔑し見捨ててしまう割り切れなさ・弱さにこそ、本願の兆し・主体の根拠を見出していく眼差しを仰ぎ、弱さは弱さのままに安んじて生きていける世界を明らかにしていきたい。

 以上が全文である。 いじめられ、弱かった自分を隠し「弱い自分」と思われないために「こうあるべき」という基準を設け生きてきたという。自分自身の弱さや痛みを隠し、人に悟られないように生きてきたが、それを消そうとしてもそこには「割り切れなさ」が残っている。そして、その痛みにこそ本願の呼びかけが響き、「弱さは弱さのままに安んじて生きていける世界」が重要であると彼は述べている。

 確かにそうだ。この文章のいいところは、自分の辛い経験をただ単に本願との出会いとして安易に結びつけるのではなく、実体験を交えながら弱さを弱さとして認めることのできる視点を保っている点である。病んだ経験を一足飛びに「仏と出会う契機!」のようなものとしてしまうとリアルさが全くないし(もはや神秘思想でマゾヒズム)、痛みや弱さへの寄り添いを一切感じない話になってしまうが、中山氏の話においては「弱さ」への細かな洞察が伺える。

 辛さを「辛い」と言えることは大変重要なことだと思う。「弱さ」を「弱さ」として認めることのできる視点はとても大事だと思う。それもいえず、それを覆い隠そうとして「信心」「信仰」「本願」「自覚」という言葉を乱発する話には一切魅力を感じないが、これは体験を交えた良いエッセイだった。

 かといって「自分の苦しさを認めろ」「辛くありませんか?」みたいな類の話はものすごく嫌いだ。苦しみの認知をあたかも条件のようにして設定するのは全く苦しみというものを理解しているとは思えない。どうやったら痛みを痛みとして感じ、それを隠さずに生きていけるのか(隠して生きていくのは辛いことだから)ということの方が大事なのだ。順番を間違えている人がこの宗門にはたくさんいる。この文章にはそのような意味で暖かさや誠実さが感じられた。教養主義的な鬱陶しさもなければ、仏教以外の文学や音楽を紹介して押し付ける気持ち悪さもなくて、「宗教的」な素晴らしい文章だと私は思う。仏教以外の文学や音楽に関する記述って「俺って仏教だけじゃなくて、世界が広いんだぜ」みたいな小賢しさを感じるし、そもそもお前の趣味なんてどうでもいいから、むしろあんまり聞いたことのない様なお釈迦様のエピソードでも教えてくれよ、という気持ちになる(私は長年ヘヴィ・メタルのファンだが、絶対にそのことは教えと結び付けない。結びつきそうな歌詞があったとしても絶対に結びつけたくない)。

 

 ただし、この記事には「主体の根拠」や「本当の主体性」といった中途半端な哲学用語が混ざっている点が少し残念だった。この話の場合これらはあまり必要ないように思われる。

初心者と一緒にいれない熟練者とは?プロ門徒?

 先日見ていたインターネット記事にこのようなタイトルのものがあった。

初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性【堀内克彦】 | リレーコラム|浄土真宗の法話案内

 「浄土真宗法話案内」というサイトのなかにあるリレーコラムのページだそうだ。執筆している人も多様で、僧侶だけに限っていない。上に貼り付けてあるタイトルが気になったので読んでみて、少し思うところがあったので記事を書いてみようと思う。今回は別にこの堀内という人を批判しようという意図はない。

  • 「初心者と熟練者が混ざりにくい浄土真宗の教えの特性」というタイトルにみる宗門

 コラムの中ではこのように書かれていた。

例えば坐禅であれば初心者と熟練者が混ざっても、ある程度場が成り立ちます。しかし法話会でそれをするのは難しいでしょう。どちらかのレベルに合わせれば片方の満足度が下がります。大げさに言えば小学生と大学生が、一緒に数学の授業を受けるようなものです。

 座禅は確かに極めた人とそうでない人が共にいても、よほどのことがない限りその場が乱れることはないだろう。個人プレイなのだし、我関せずして行うのが座禅なのだからそうあってしかるべきである。したがって、座禅は初心者と熟練者が同居しても空間が成立する。しかし、「法話会でそれをするのは難しいでしょう」と書かれている。

 初心者と熟練者が一緒に教えも聞くことができずに何かサンガだろうか、何が御同朋だろうか。「小学生と大学生が一緒に授業を受けるようなもの」というふうにいわれているが、「自分は大学生の方だ」と思わせる教えに問題があるのではないだろうか。本山の晨朝法話のときにこれ見よがしに最前列に座っている人や、東京によくいるタイプの知識人風の人、法務もしないのに「教師になりたい」と言い出す人、推進員になって自分は他の門徒とは違うんだという空気感をもった人を私はどうも好きになれない(自坊にも推進員の方はいるが、あまり熱血タイプではないし、こちらから「すいませんが」と無理をいってお願いしている....)。

 初心者と熟練者が同じ空間にいれない、っていうのは教えを学問や知識としてしか話してないからなんじゃないだろうか。もしくは「なんとか先生がなんとかといっていた」みたいな宗門の内輪ネタみたいな話の連発だったり。核心をもって「この話は本当にありがたい」という話だったら、初めて聞いた人もいつも聞いている人も一緒に聞ける話なのではないかなと思う。

 選民的な門徒さんも僧侶も「御同朋」の輪を自分で閉じているし、その空間の方が居心地いいんだろうなあ〜。

  • 推進員が「推進」するものとは

 推進員っていったい何を推進しているんだろう....という疑問が浮かぶ。推進員っていうくらいなのだから、真宗の教えを推進して人たちだと思う。つまり教えを推進するというのならそれを広めるってことなのだろうが、推進力をもった推進員をあまり見たことがないような...。「推進員養成」とかいうなら、もっと布教してくれる人を育てて欲しいのだが結局自尊心の高いプロ門徒みたいな人しか生まれてこないのはなぜだろうか。というか「教師」っていうのも結局そうだな....。

  • 余談

「青年教化部門幹事」みたいな名前、私にとってはオウム真理教よりも恐怖....。