What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

歎異抄の「そくばくの業」を誤解する凡夫現るwww:三橋尚伸氏の「束縛からの解放」を視聴した感想

 この宗門は法務をしている僧侶を蔑ろにします。代わりに心理学者や医者、カウンセラーなどの経歴を持つ人を重用したりするんですが、今回はそれが裏目に出た最悪な動画を発見したので皆さんにお知らせしたいと思います。

www.youtube.com

「そくばくの業をもちける身にてありけるを」

 これは歎異抄の後序にある文章です。

聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。

 ここに「そくばくの業」と書かれています。この「そくばく」は一般的に私たちが用いる束縛や拘束の意で用いられているわけではありませんが、皆さんはそのことをご存知でしょうか。これを知らない僧侶がいるようですね…わたしはかなり驚きました。三橋氏は動画の31分20秒あたりのところから、この言葉の解説をしているのですが意味不明でした。

 唯円親鸞)の言う「そくばく」は「そこばこ(若干・幾許)」、“いくつか”や“いくらか”、“数多くの”といった量を表す言葉として用いられているのですが、これを「束縛」と言う人が現れるとは…動画内でずっと「束縛されている」ってお話になられているのですが、視聴中腹を抱えて笑ってしまいました。

 これは解釈云々の話ではなく、完全なミスリード、間違い、勉強不足です。これを真宗大谷派の公式動画として配信しているというのは問題があると思うんですけど、皆さんはどう思われますか?私は恥ずかしくてたまりません。もはや浄土真宗新宗教レベル以下の間違いです。勘違いする人が増えたらどうするのでしょうか。「異なるを歎く」ための歎異抄からさらに馬鹿らしい誤読が生まれるとはなんという皮肉。寺によっては「親鸞会は間違ってるから騙されないように!!」と警告しているところもあるようですが、身内にこんな爆弾があったとは…。レッドカード、紛れも無い異安心、邪義。

 法話は生モノなので多少の間違いは仕方ない点はありますが、動画にするという前提があるのならスタッフが内容をチェックするべきでは??と思います。この動画は削除するか、もしくは「そくばく」の誤読について注釈をいれるべきではないかなあと私は思います。もし一般の方が見たら「そういう意味なのかあ」と思うだろうし、本来の意味を知っている方が見れば「大谷派ってこんなことも知らないのかよ」とバカにされる可能性があります。

 この三橋尚伸という方、もっと勉強してからご法話なさってはいかがかなと思います。最近お名前をよく目にしますが、このレベルだったとは…。歎異抄の言葉もろくに調べずに偉そうな法話をなさってるのが残念でなりません。また、この法話をなんの問題もないとしてアップロードしている真宗会館にも呆れてしまいます。誰も何もおかしいとは思わなかったのでしょうか?このレベルの仕事で首都圏の教化活動ができると思っているのでしょうか…一瞬脚注のようなものを入れているようにも見えますが、誤解を解くようなものとは思えないお粗末なテロップでした。正直、自分と同じ宗門だと思うと本当に恥ずかしい。もう一度言います、本当に恥ずかしいです。

 自分で文字を読み、既存の訳と対照させながら調べ、自分の納得のいく読みをしていく…これをせずして法を説ける身分になってみたいものですね。みなさま立教改宗も近いことですし、お偉い先生方や表面的な読解、すべてを捨てて一からお聖教を読みませんこと?「いのち」もそうですし、「そくばく」もそうです。言葉はしっかり調べて、文脈に即して読み解く、これが読解の基本です。「自分の都合に合わせて」、「自分の物差し」っていう言葉は大谷派は大好きでしょう?自分の都合や自分の物差しで聖典を読みのはやめませんか?

 

2021年1月16日現在の時点では動画が視聴できなくなっています。削除すればいい問題なのかという疑問は残りますが…発信元である真宗会館は訂正や配信に至った経緯やこの問題をどう認識しているか等を語るべきではないかと私は思います

 

2021年1月22日追記

なんのアナウンスもなく動画の問題の箇所が切り取られて編集されています。“間違った過去”をなかったことのようにして、問題の部分をまるまる消去しています。訂正やお詫びの一言を入れるべきではないかと思うのですが、「最初から間違ったことなんか言ってませんけど?」みたいな感じになっちゃってます…。このままの状態が続くようであれば、次の記事でこのような対処がなぜ問題なのかについて書かせていただきますね。

 

「死後の世界」はオカルトでしか語れないだろうか?それとも沈黙すべき?

 コメント欄に批評の依頼があったので、今回はそれを記事にしてみようと思います。コメントは以下のとおりです。

インターネットに気になる記事があったのでご意見を伺いたいです。2020年の6月に大谷派の僧侶となったという、1970年生まれの医師の死生観の記事です。長い記事から抜粋します。


 『「死後の世界」を話題に持ち出すと、みなさん、「死後の世界」を肯定するように、死後に出会える人について思いをめぐらせ、お話をしてくださいます。それはこれまでご自身が、“あちら”に行った方にどれほどお世話になったか、感謝しているか、自分が恵まれていたことを言語化するという作業につながります。
(略)
 その方の支えを明らかにすることで、ご自身の人生をいいものとして振り返っていただくことができ、穏やかな気持ちを持っていただくことができるのです。
(略)
 私は「死後の世界はある」と確信しているので、患者さんをお看取りすることは、駅に無事に患者さんをお連れして、死の旅の列車に乗せるような仕事になります。その途中で「死後の世界」についてお話することもあり、「先生、お坊さんみたい」と言われることはよくあります。
(略)
 じつは私、お坊さんなのです。2020年6月、真宗大谷派僧侶資格を得ました。医師である私が僧侶になったというと、「なぜ僧籍をとったのか?」と、その理由をまず聞かれます。けれど、それほどドラマチックな理由はなく、「お坊さんになりたいと思ったから」というのが正直なところです。
自分にとって僧侶となることは、人生の最終段階における医療の仕事によく調和するものだと感じていました。私が日々行っている人生の最終段階における医療では死は身近なものであり、死と死後のことについて思うことが、今を生きる患者さんの心に寄り添うことにつながるとも思っています。
(略)
 人が「死後の世界」が当然あると考えるとき、「死んだらずっと見守ってあげるよ」とその方の大切と思える存在の方に伝えることができます。自分の死を目前にしても「将来の希望」を持つことができるのです。どんなときにも希望が持てるということは素晴らしいことではないでしょうか。
(略)
「無になる恐怖」から解放されるには
人の「死後の世界」も私はあると信じています。「本当に?」といぶかる方もいらっしゃるでしょう。けれど、あなたが「信じていること」は、すべて証明されていることなのでしょうか。
(略)
 「死後の世界」のありなしも同じようなものです。実際に見たことがあるという人はいますが少数です。でも、「死後の世界」があると考えなければ説明できないことは多く、「死後の世界」があると考えると辻褄が合うことはたくさんあります。これまで私自身もいろいろ経験しましたし、患者さんのご家族からもたくさんお聞きしました。
(略)
 もし、「死後の世界」がないとするなら、死によって、その方にとっての時間は止まり、死のあとの世界は「無」になります。しかし、「死後の世界」があると考えるならば、死により肉体の苦痛は終了したあと、魂は肉体を離れて自由になり、時間は死後も流れ、先に旅立たれた有縁の方との再会もありうることなのです。
(略)
 「死後の世界」を信じると、自分が「無」になる恐怖から解放されます。私自身は「死後の世界」があると信じますが、あなたが信じなくてもまったくかまいません。ただ、「死んだって、平気。またあちらでお会いしましょうね」とお別れすると、私の心が軽くなるのです。(終わり)』 

 

小生による疑問


死後の世界や輪廻転生が存在するとする死生観があることは認めます。しかし、仏教僧である医師である方がそのように断言されるには違和感を覚えます。
文中に「無になる恐怖」から解放されるには、という言葉がありますが、無になるとは、有であるから無になるのでしょう。しかし仏教は、人間は恒常不変の自己を確信しているけれど、真実は身と心のどれをとって恒常不変の自己ではない(五蘊非我)という釈尊の発見をその出発点にしている。有でも無でもない、もともと自己にあらざるものを自己と誤って執着していることが苦しみの原因であるという。ここを見過ごすと、上座部も禅も浄土も真言も法華もその真意を見誤ることとなる。
仏教による癒やし慰めがあるからといって、癒やし慰めがあるから仏教だとはいえません。
この方が真面目な方なのは記事から十分伝わりますが、だからといって真宗大谷派の僧侶の発言としては問題があると思います。現在の大谷派の思想傾向がもっと極端に成った姿があらわれてきたように見えます。
「いのちがあなたを生きている」なら「阿弥陀のいのち」とは無量のいのちであり、先祖代々受け継がれてきた恒常不変のいのちが、蕩蕩と受け継がれ流れているのです、という梵我一如のヴェーダの宗教に先祖帰りしても不思議はありますまい。

「医師兼僧侶」という存在

 まず、問題に入る前に「医師であり僧侶である」という肩書きを大いに喧伝し語る人を私はあまりよく思っていないということを記しておきます。医師は自らの領域を極め、「医師として」の立場から言えることを全力で語るべきなのですが、「仏教的なこと」をふんわりと語るのみならばそんなに僧侶であることを強調しなくてもいいのでは?

 世間は権威が大好きなので、僧侶である前に「お医者様」という立場のひとのことばをとても大切にしますが、その実は大したことを言ってないことのほうが多いです。僧侶として現場を歩いてきた人を大切にないがしろにしておいて、医師としても大した経験も語らずわざわざ肩書きを求めて得度や教師資格を取得した中途半端な人種を持ち上げる本山やメディアが大嫌いです。本山にいつも出入りしている暇人や大学の先生に一体何が分かるのやら~~??現場必死で歩いたことある~~~ ??っていつも思います。一門徒大切にできなくて何が御同朋なの~~??

質問者様の視座

 さてさて、質問者のコメントを整理すると…「有無」という考え方から距離を置くことに仏教の意義があり、件の医師が死を「有から無への変化」と捉え、「死後の世界」が“有る”と主張するのは非仏教的ではないのか??という風にまとめてよいでしょうか。

 確かにそれは正しいと思います。親鸞正信偈で龍樹が有無の見を摧破したことを評価しているように、仏教は有無の二項で物事を思考しません。ですので、死後絶対に自己が消滅してしまうという「無」の考え方と、絶対に死後も魂は存在するという「有」の考え方のどちらも否定されます。最初から有も無もないのです。この概念が理解できないと、最終的にはいろいろと落ちてしまう概念がたくさん出てきてしまいます。

 しかしながら、これは用語の問題なので私としては深入りしたくないなと思っています。むしろ「有無」という観点に終始するよりも(この視点も重要ですが、問題の整理のために一旦脇に置きつつ考えたい)、この医師の「死後の世界」を「浄土」と捉えた時に問題はあるのかないのかということの方が考えるべき問題なのではないかなと思うのが私の所感です。

死後を強調することで生じる胡散臭さ

 まず最初から余談ですが、わたしがこの医師に対して疑問に思うのが、なぜ大谷派なのか?という点です。死後のことをことさらに強調するのなら、「お浄土参り」に力点を置く本願寺派か「後生の一大事」に重きをおく親鸞会の方があっているのではないかなと思います。だから、この医師が「大谷派の僧侶なんです!」といって半ばオカルトじみた話をメディアで発言するのはやや不適切な感じがします。この方は浄土や救いというよりは「死後の世界が存在する」という実在論の方向にいってしまっているので、そういう点からしても「なぜ大谷派??というかなぜ仏教??」という感じですし、というかたかが得度しただけでこんなに僧侶ぶられても…というのが正直な感想です。

浄土はどこにあるのか、何をもって往生とするのか

 「死後の強調」は親鸞の思想には当てはまらないと考えます。少し前に宗門内では往生の問題が話題になっていましたが碌な議論がないまま終わりました。誰もが親鸞の言葉そのものに向き合わない、暗闇でノーガード状態、両対戦者互いに遠くで素振りをしている、そんな感じのものでした。問題提起した側は死後の往生や成仏を論じていましたが、親鸞がウエイトを置いたのは現世であって、死後のことを語るのは親鸞以前の価値観過ぎてナンセンスな気がします。しかし、他方で「現世往生だ」「現生正定聚だ」と言って「この世での自覚=覚り=往生」みたいなことを言う人もさらに意味不明です。あなたたちが生きているのは紛れもなく穢土だし、あなたもどう見ても凡夫そのものなのに、あなたのどこが覚りの境地なのか、どこに真実があるのか教えて欲しいです。「凡夫の自覚」って仰るけど「わあ、先生は何も知らない凡夫なんですね」って言われると皆さん怒るのでしょう?それ覚りでもなんでもない、あなたのただの小っぽけな感情に過ぎませんから。

「いのち」を軸とした「現世での往生」と「死後の世界」の親和性について

 また質問者は「無量寿のいのち」の考え方の極端化したものが上述の医師の「死後の世界」という考え方であると述べています。私もそのように思います。

 まず、「無量寿のいのち」、すべての生命に内在する「いのち」が存在すると仮定します。ひとによってはこの「いのち」を「本当の自分」「真実の自己」と言い換えることもあると思います。そしてそのような核が存在するならば、その核は滅びることなく死後も魂のようなものとして位置付けられるでしょう。なぜなら死後消滅するのだとすれば、それは「真実」ではなくなるからです。したがって、「無量寿のいのち」と「死後の世界」は思想的には同一の性質をもつものとして捉えることができるのではないかと考えています。

では僧侶は死後の問題を語るべきではないのか?

 また、大谷派僧侶の多くが死後について言及しないのもいかがないものかと思います。自覚を語る僧侶たちは現世を強調し、自覚が覚りであるかのように語ったりします。自覚という凡夫の行動を語ることに終始し、仏教を非宗教化させ「死後のことについて語らない」という制限を自らに課しています。この現世での自覚を往生と勘違いし「これが現生正定聚だ」と叫ぶ人もいたりしますが、これらの人は死後往生を語る人と同じくらい愚かです。どちらも親鸞の論旨を理解していません。

 凡夫は死ぬまで凡夫でしかあり得ませんし、その事実を知ったところで凡夫は凡夫です。凡夫は唯一念仏によって「往生すべき身とさだまる」のみです。“実際に”覚るのがいつなのかということを問題にするべきではないし、われわれ凡夫には分かり得ないことです。ただ自分のこの先の直線上にその地点が必ず存在していて、それは死後かもしれないし、死後ではないかもしれないのです。そもそも私たちの通常の理解を超えた次元の話なのだとしたら“覚り”の地点を確定することなどできないに決まっているのです。それを論理的に語ろうとするのは傲慢でさえあるし、もし語れたとしても「真実」ということしか語れないのではないでしょうか。

 しかし語りえないものであっても、それが必ずいつか実現されるということが「定まった」状態を喜んだり、その状態に置いてくれた力に感謝することはできますし、それだけで私は十分だと思います。それ以上のことは凡夫の領分を超えています。

 だから、頑なに死後を語らないことも私から見れば間違った行いです。「死後かもしれないがいつか必ず」ということが“定まっている”という事実が現実には存在するのだから、死後について語ったとしてもそれは間違いではありません。つまり、上記の医師とは異なる形で死後あるいは未来のことを視野にいれて話をするべきではないでしょうか。釈尊以来から仏教には時間の概念が絶対的に必要だったはずだし、真宗でもそれは同様です。

 今回はyahooの記事と、質問者の方の意見、それぞれに対して回答したところ乱文を極めてしまいました。読み辛くて申し訳ありません。

コメントへの回答

 丁寧かつ喜ばしいコメントを頂いたのでお答えしようと思います。

初めまして。真宗を学ぶにあたって、大谷派の先生や法話を検索する中で本日このブログに辿り着きました。 「無量寿イコール“いのち”」と押さえ、“問い”や“自己批判”に帰結することが多くある宗派刊行物に対して抱きつづけていたモヤモヤ感がこのブログを少し読んで、自分の中で具体化しました。 たまの拝聴機会がある本山の朝の法話報恩講での法話も詰まるところ「今のお前ってこんな考えしてるでしょダメダメ」みたいな、マイナスにえぐってくるようなものしか聞いたことないです。(偶然そう言う人に当たったいるだけかもしれませんが) 優しい母親を阿弥陀仏に見立てる比喩、強い弱いの物差しでしか生きられない私云々は たまたま僕が優しい母の元に生まれて、いじめられることなく 生きてきたから聞けるだけで、これ虐待されてきた、そうじゃない方はどんな思いできいてるんだろう、聞かせられるんだろうと思い続けていました。 私は寺の生まれで長男です。一昨年卒業した大学ではインド哲学(専門はヒンドゥーですが)を学んでいました。学部レベルですが、仏教についても学んできました。授業では、概説に加えて、チベット金剛般若経や、パーリの沙門果経、種々のジャータカなどの翻訳も取り組みました。 そんなこともあって、教区の研修会や法座に行き始めた頃は、「え?これ仏教なの?」と驚かされてばかりでした。が、 いつの間にか御門徒さんとの会話でもいのちだの問いだの、知ったように話してしまっている自分がいました。 このブログを見て初心の疑問を取り戻せました、ありがとうございました。長々とすいません。 ひとつ質問があります。上述したように教えを聞いてもうなづけないところが多いです。 それでも法務の中、法話の機会があります。宗教者として「寄り添う」ことを主としたいですが、どう原稿を書いても自分の都合に合わせて仏教の言葉を引っ張ってきてたり、聞いてる人の過去によっては傷つかれる表現なのではとなかなかまとまりません。 何か、コツ、ご自身が気をつけられていることはないでしょうか? 気がついたら大変な長文になっていました、すいません。 首都圏の御寺院さんとのことで、このような社会状況のなか、私では思いも及ばない御苦労をされておられると思います。 冷え込んできましたが、お体ご自愛ください。

 「え?これ仏教なの?」という疑問はうやむやにせずに大切にしておいた方がいいと思います。「問いが大事!!!」とは申しませんが、納得できないことをそのままにしておくと上滑りした言葉をただ使ってしまうだけになってしまうので、自分が根本的には納得できないことは口にしなくていいし、研修会でも「ほんとうにそうですか?」という疑問を提出するべきだと思います。ただわたしの経験上それで風向きが変わることはなかったです。質問の意図を理解できる人は思った以上に少ないし、講師や担当者が激昂する場合もあるので注意が必要です。でも、インド哲学専攻でまだお若いとのことですのでそれを前提に純粋に質問してみるのはいいのではないかと思います。

 ご質問の私自身の法話のコツあるいは気をつけていることについてですが、改めて考えてみると言葉にするのが難しいです。「寄り添う」といっても言葉だけで御門徒と寄り添えるわけではないですし、むしろ御門徒の方との関係は仏教以前の思いやりが必要だと思います。正直な心を伝えて、「いのち」とか「絆」「関係性」などといった漠然とした言葉を使わずに自分の経験や考えを語ることが大切です。また、社会的なトピックに関する見識を深めることも重要です。特に差別に関する事柄は今はSNSで様々な見識を知ることができるので、いろんな情報を取り入れながら自分の立ち位置を定めておくといいのではないでしょうか。また「これはダメだろ」という例を知るためにも批判的な立場でいろんな法話を聞くのもいいと思います。それを続けていくと、自然と自分のスタイルが形成されていくでしょう。私自身が偉そうに言えることではないですが、兼業とはいえかれこれ20年程僧侶として仕事をしてる私から言えることはこれくらいです。

 大谷派の内向きの研修会はどうしてもクローズドなので皆んな言うことが似てくるし、進歩もありません。なのでご専門の分野の書物やそれと関連するものを卒業後も読み続けておくと大谷派の思考に染まらずに済みます。

 というか関係者の方々これ読んでますか??こういう風に思われてるのに何も変えないつもりですか??

真宗を非学問化してしまった罪

 以下のようなコメントを頂きました。組織論や金銭に関する話題についてはコメントがあるものの、思想的な問題はなぜかうけが悪いのでこのようなコメントを頂くととても嬉しいです。

「また多くの大谷派僧侶のように、無量寿を「いのち」と解釈しているようですが、無量光と無量寿は本来、阿弥陀仏の教えの空間性と時間性を表現する言葉であるということを理解しなければなりません。」 このご意見に賛成です。現今の大谷派では、情緒的、恣意的、感動的な言説にあふれています。そんなに感動が好きなら、映画館にでもこもっていればいいのに。 今いのちがあなたを生きている・・・・大先生の解説を聞いてもさっぱり分かりません。文学芸術表現なら許されましょうが、この表現はどう見ても、梵我一如のバラモン教への先祖帰りでしょうと、意見を述べたことがありますが多くの住職には私が何を問題にしているのかも分からないようでした。龍樹菩薩にボーッと生きてんじゃないよってしかられますね。 人としてうまれたことの意味をたずねていこう・・・・大丈夫ですか?顕彰穏密の心得があるならいいのですが、真面目にストレートにぶつかっていったら事故を起こします。究極に意味分別を離れよという仏教の伝統と正面衝突です。正面衝突を避けようとまた珍解釈が顕れないといいのですが。 真宗聖典蛸壺主義がこうさせているように思えます。聖典だけでは解しかねることを言語明瞭意味不明の言説で無理矢理曲解しているように見えます。真宗の偉い先生の言葉は正直申し上げて、その論旨には全く理解が追いつきません。どの単語も前後の言葉から独立して意味上の関連性が全く見えないのです。自己とか主体とか絶対とか無限とか罪悪とかいのちとか闇とか唐突にあらわれて消えていくようです。 阿含経典のような、明晰で平明で素直な表現で真宗を語れないものでしょうか。

  このコメントにもあるように、この宗門は「仏教」という一つの伝統的な思想を全く重んじていません。情緒的、恣意的、感動的な言葉で人を揺さぶらせようという気持ちしかないので、それを理論で補強しようという気はまったくありません。むしろそのような作業をしてしまうと自分の言ってることがいかに下らないことであるのかが露顕してしまうので無意識的に避けているのでしょう。そういう輩は最後には「真宗は学問ではない」とか、「哲学ではない」とか宣ってありがたい言葉を連発し始めるんです。

 「聖典だけでは解しかねることを言語明瞭意味不明の言説で無理矢理曲解しているように見えます。真宗のえらい先生の言葉は正直申し上げて、その論旨には全く理解が追いつきません。どの単語も前後の言葉から独立して意味上の関連性が全く見えないのです」という意見には全面的に賛成です。この状況を生み出している元凶の一つが聖典で引用されている経典の方へ目を向けずに、逆に聖典から近代教学を参照している点です。仏教の伝統的な体系を無視して編み上げられた近代教学は法話のネタにはできても学問的な理解の助けにはなりません。

 親鸞が言っていることは親鸞自身言葉からしか引き出せないはずなのに、それを清沢満之や曽我量深の言葉で変換させて、さらにはもっと現代の人間の言葉まで引きずり出してくるからわけがわからなくなり、挙げ句の果てに「これは仏教ですか?」と言いたくなるような合成獣が出来上がってしまうのです。しっかりと文脈を把握した上でなら近代教学も重要かもしれませんが、そうじゃない方がどうやら多いようですね。近代教学を研究していますっていう人がいたりしますが私からすれば「????」って感じです。ひとつの時代の表象でしかありませんし、それは真宗学というより表象研究です。

 仏教全体のシステムを無視して湧出した言葉はよりどころなく浮かんでは消える、その明滅を繰り返すしかありません。造語まで作って哲学者の真似事をしようとする者もいます。その最たる例が東京のたけ....おっと失礼しました。親鸞の言葉そのものを掬い出して、明らかにしてくれる人が一人でもこの世にいれば私にはそれで十分なんですが、なかなかいないものですね。

大谷派の途方もない自力主義

 「親鸞仏教センター通信」に「自分の足跡を消さない」というタイトルのコラムがありました。書いたのは親鸞仏教センター研究員の谷釜智洋という方でした。

 コラムでは以下のような孤野秀存の話が紹介されていました。

人が聞けば、何だ、と嘲りを受けるような自分の姿であろうとも、その何とも言いようのない惨めな情けない自分に、それでもじっと耐え黙々と歩んできた自分自身の人生の足跡があります。辛い時は辛いままに、切ない自分を丸ごと抱き締めて、今、ここの、この私にまで地面を踏みしめて歩んできている本当の自分。「主体」というものがあります。親鸞聖人は、その真実の主体を法蔵菩薩として呼んで崇めたのです。(「歎異抄講義」、2012年開講)

   自分の歩んできた人生の足跡を消さないこと、いままで歩んできた過程を丸ごと含めたものが「主体」であるらしい。そして、これを踏まえて谷釜氏は以下のように言う。

孤野学院長は、このありのままの事実の自分を受け入れることが主体性をもつということだ、と伝えようとしたのではないだろうか。このように考えれば、あの時に言われた「真実の主体を親鸞聖人は法蔵菩薩と呼んで崇めた」という言葉は、事実の自分を受け入れるということと、仏道を歩み始めた法蔵菩薩とを重ね、そこに主体的な求道の出発点があると親鸞は考えていた、と私達に伝えようとしたと想像される。 

 ありのままの自分を受け入れること、それが主体的な求道であり、法蔵菩薩かつ親鸞の姿であるらしいです。私は、ありのままの自分をただ受け入れることなどできません。そもそも過去を振り返り、それを「受け入れる」とはどういうことなのでしょうか。

 ありのままの真実の自己を受け入れることができたのが法蔵菩薩の求道なら、凡夫にはそれは無理です。ただ言えるのは、自分の歩んできた足跡をしっかりと認識することができるようになることはとても重要だということです。自分がしたこと、されたこと、いままでの経緯をしっかりと認識できなければ人格に歪みが生じることになります。虐待された事実をしっかりと辛い経験として認識せず、また整理せずに、それを「普通のこと」として脳内で処理すると人間は犯罪者になるという傾向があります。そして、まさに自分がしてきたこと、されてきたことという「足跡」を「受け入れ」(「受け入れる」とは「肯定的なものとして認識する」という意味合いがあるため、この言葉は正しくありません)、認識するには導いてくれる他者の存在が不可欠なのです。

 「自分の足跡を消さない」とただ教えるのは仏教ではなくただの刑務官の仕事です。自分のしてきたことを反省しろ、と言われても人は動きません。言われた者は足跡を消していないふりをするだけです。その足跡を消さないようにするにはどうしたらいいのか、また自分の足跡を見つめることがどれほどその人にとっての救いとなるのかを教えるのが仏教だと私は思います。求道者の道、法蔵菩薩の主体的求道などと一気に言ってしまうとそれはただの聖道門です。

 求道や茨の道のようにして「自己を認める」ことを主張するのは私は好みません。自分のしてきたことを認めることがどうして救いにつながるのか、なぜ認めなければ不幸になってしまうのかを分析するべきではないのかなと思います。そうしなければ、「自己を見つめる!それが仏道、求道!辛いけど正しい道!素晴らしい!」と言われても客観的に見て意味不明です。

 いつも思うんですが、「研究所」なんて名乗っているのだから学問的な心得をもって文章を書いてもらいたいです。主体や認識の仕組みを全く深く知ろうとせずにありがたそうな言葉で済まそうとするのはどうかと思います。

現実を受容しない私の存在は罪なのか

 東本願寺の教学研究所研究員の難波教行氏の法話(「しんらん交流館たより」2020年第五号収録)はとてもよかった(これは皮肉ではありません)。差別問題についてはこれまでたびたび言及してきましたが、難波氏の法話は筋の通った、「教え」のある法話だったと思います。というわけで今回は「ともしび」第814号に掲載されている「聞」で読んだ難波氏の文章を批評してみたいと思います。結論から言うと、先の法話同様障害者の現実に対する柔らかな目線が感じられ、問題設定もはっきりした良い文章でした。そして、良い文章だからこそ私がこの文章によって気がつかされた問題点があきらかになったのです。

 難波教行氏は、幼少期の病によって手足の切断を余儀無くされ、その障害を負いながら懸命に生きた中村久子さん(1897-1968)について語っています。その苦労は私たちの想像を絶するものでもあり、断片的ではあってもその生涯を知らないという人はあまりいないと思います。大谷派発行の『同朋』に寄稿していることは、今回この文章を読んで初めて知りました。

 難波氏は中村久子さんにとって親鸞聖人の教えがどのようなものだったのかを、中村久子さんの文章から読み解こうとしています。例えば挙げられたのは中村久子さんの以下の文章です。

“手足がないこと”が善知識だったのです。なやみを、苦しみを、悲しみを宿業を通してお念仏させて、よろこびに感謝に、かえさせていただくことが、先生たちを通して聞かせていただいた正法。親鸞聖人さまのみおしえの“たまもの”と思わせていただきます。(中村久子『私の越えて来た道』改訂12版、1967年、156〜157頁、初版1955年) 

 思考停止状態の僧侶なら、この文章から中村は手足なき我が身を受け入れ、その境遇によってご縁を頂いたのだなあと感慨深く思うでしょう。しかし、難波教行はそうではなく単に中村さんは障害を教えによってすべてを受け入れていたわけではないことに注目しています。難波教行氏が引用している中村久子さんの文章は以下のようなものです。

 あきらめよ、と言われて手足のない私は決して諦め切れるものではありません。あきらめ切れるものか、切れないものかそれは本人の身になってみることだと思います。生き仏さまのように善男善女からおがまれる方も、前世の業だからあきらめよ、と仰る前に先ずご自分の手から足を一本でもよいから、切り落として同じ苦しみと悲しみの体験を味わつていただきたいと私はいつも思います。(中村久子「御恩」下、『同朋』真宗大谷派宗務所、1957年9月、18頁)

 彼女はむしろ現実の受容を人ごとのようにして押し付けてくる教えに不信感を持っていたということがこの文章からわかります。リアルな筆致で綴られたこの文章を引用した点はとても素晴らしいと私は思います。そして、難波教行氏はこのように書いています。

 中村氏は、手足の無いことをあきらめきったわけでも、受容しきったわけでもない。むしろ、「因縁だから」「業だから」と理由をつけて、あきらめさせようとする声が聞こえて来るなか、親鸞聖人の教えを通して、「あきらめきれない自己」が照らし出されたのではないか。

 にもかかわらず、現代に生きる私たちが、最初に挙げたような言葉だけを持ち出し、「あの人は信仰によって苦難の現実を受容した」と称賛すればどうなるだろうか。その称賛は「個人の努力によって逆境を克服すべき」というメッセージになるだけでなく、今現に障害に苦しみ、悲しんでいる多くの者に、「信仰心がないからだ」と追い打ちをかけるものになりうるのである。

 これはその通りです。「我が身の現実」だの「自己を問う」だの言って理不尽な現実を受け入れろと迫るハラスメントすれすれの教えが横行するなか難波氏は正しい教えを説いています。しかしながら、彼女にとって親鸞聖人の教えは「あきらめきれない自己」を照らし出すものであったと述べている点に少し疑問に感じました。

 「現実を受け入れられない」、「諦めきれない」ということは罪なのでしょうか。そのような存在は罪なのですか。諦めきれない自己の存在に気づき、そこに罪を感じる必要があるのでしょうか。そのこと自体に罪業性を見出すことに私は魅力を感じません。諦めきれないから私たちは苦しかったり悲しかったり死にたくなったりします。だから仏様が一人一人に寄り添って救ってくださるのではないのでしょうか。「あきらめきれない」こと自体は別に問題はありません、あきらめきれないからこそ生じる悲しみや苦しみが問題なのではないでしょうか。これがこの文章によって気付かされた点です。難波氏を非難するつもりはありませんし、あくまで文章を読んで私が気付かされた点を書かせていただいたまでです。むしろとても良い文章で、とても感動しました。

 大谷派には現実を受け入れられないことそのものが罪、根源的な罪悪であるという一定の前提があるように思われます。しかし、世の中ではかなり前から「障害者」ということばについての議論が始まり、障害とは人の方ではなく社会の側に存在するという考え方が生まれました。だから、人は自分の障害を受け入れるのではなく、障害をもたらしているのは社会の方なのだと考えるべきなのです。「自分のもつ障害」という曲げられた現実を受け入れる必要はまったくありません。「現実」や「自己」を受け入れよ、という場合その現実や自己が一体なんなのかということを考えなければそれは単なる暴力になります。そのことを考えてくれる人が大谷派にいるのでしょうか。「全部社会のせいに恨んではいけない」などと上からの説教をする人ならたくさんいるでしょうね。

 クソみたいな架空の文学や音楽、ヨーロッパ人の思想と関連させるよりも、現実に存在し実際に親鸞聖人の教えに触れて救われていた方の生の文章を用いて考えを深めることはとても素晴らしいことです。

東本願寺のハラスメントに対する矛盾した態度〜広河隆一の問題をめぐって

 東本願寺が、セクハラで問題になっていた広河隆一氏の講演動画の配信をしていたことに苦情があったらしく今回配信停止が決まったそうです。以下が宗務総長但馬弘のコメントですが、いくつか問題点があるので記しておこうと思います。

2020年8月6日更新

しんらん交流館ホームページ 第33回しんらん交流館公開講演会講演動画の配信停止について(お詫び)【宗務総長コメント】

「しんらん交流館 公開講演会」は、「生・老・病・死」の問いを現場で考え、表現している様々な分野の方を講師に迎え開催しています。
このたび、2018年3月18日にお迎えしたフォトジャーナリスト 広河隆一氏の動画配信を突然停止しましたことについて、宗務総長のコメントを掲載いたしました。
親鸞聖人の教えに立ち返り、引き続きこのたびのことを受け止め、確かめる歩みを進めてまいります。 

しんらん交流館ホームページ第33回しんらん交流館公開講演会
講演動画の配信停止について(お詫び)

 当派では、しんらん交流館ホームページに掲載していた、第33回しんらん交流館公開講演会における広河隆一氏の講演『福島とチェルノブイリ‐写真が教える私たちの課題‐』(2018年3月22日講演、同年4月11日配信開始)の動画を2020年5月7日に配信停止といたしました。
 これは、2018年12月に報道された広河隆一氏による「セクシャルハラスメントパワーハラスメント問題」に起因するもので、視聴者からのメールによる指摘を受け、被害を訴えた方々の心情と立場を考慮して判断をしたものであります。
 ただし、その際、視聴者からの指摘に対して応答をしないまま、また停止の理由や問題の受け止めも表明しないまま、動画の配信停止に至っておりました。
 ここに、報道後の対応が遅れ、被害を訴えた方々や関係者への配慮に欠けていたこと、そして視聴者からの声との向き合い方に問題があったことを深くお詫び申し上げます。
 今後は、視聴者の声に改めて真摯に向き合い、しんらん交流館の使命を再確認しつつ、歩みを進めてまいる所存でございます。

【ハラスメント問題の受け止め】
 ハラスメントの問題は、当派におきましても当事者として受け止めなければならない深刻な問題です。私たちは誰もが、弱さや他者との比較による劣等感をもっておりますが、その弱さを認められず、弱い自分が露わとなることに怯えるがために、自らの力をたのみ、結果として、支配・被支配という関係に陥ってしまいます。
 このような私たちを、自力の迷心から救おうと誓われたのが、阿弥陀如来の本願です。私たちは、本願に目覚め、自らを罪悪深重の存在として自覚することが待たれているのであり、その目覚めによって、共に怯えから解放され、弱いままに安心して生きていくことのできる道が開かれると、親鸞聖人より教え示されております。その教えを、あらためて聞き開かねばならないと受け止めております。
 人間救済の課題が理に終わることなく、一つひとつの事柄に丁寧に向き合うことを通して取り組まれるべきであると、今回の問題から知らされました。このたび、動画配信の停止に際し、ハラスメント問題の受け止めを真宗の教えに尋ねつつ表明すべきところ、説明が欠けておりましたことを重ねてお詫び申し上げます。

2020年8月6日

宗務総長 但 馬  弘

 みなさんはこの文章、正しいと思いますか?

これが適用されるのなら、先日発覚したパワハラ問題はどうなるのか

 ハラスメントの加害者が行った講演を公開しておくことに問題があると認めるのならば、この措置は先日解放推進本部で起こったパワハラ問題にも適用されるべきだと私は思います。つまり東本願寺パワハラ加害者が行った講演や文章を抹消する必要があるわけです。匿名性によって保護されている状態ですが(関係者はすでに誰がやったのかはご存知だとは思いますが)、その加害者を隠すということであれば「解放推進本部」そのものが罪を背負うことになります。ということは、解放推進本部はその罪を自覚し、啓蒙的な研修活動のすべてを一定期間停止するなどしなければならないのではないでしょうか。その期間は部門自体が反省のための研修会を徹底的に行う必要があります。

 私自身は加害者自身を知らないという設定で書かせていただくと、誰がパワハラの加害者なのかわからないという状況であるならば解放推進本部すべてが出す文章や発言に違和感があります。それらの言葉が部署内でパワハラが行われている状況で書かれ、発信されたのだと想像すると不快でしかありません。いくら立派なことが書かれていたとしても「これが書かれていた間の他の職員の状態はどんなだったんだろうか」としか思わなくなりました。

宗務総長は「被害者」をどう考えているのか

 宗務総長が出したコメントには「ハラスメントの問題は、当派におきましても当事者として受け止めなければならない深刻な問題です」とありました。それはその通りですが、このハラスメントの捉え方に問題があると私は思います。

 「私たちは誰もが、弱さや他者との比較による劣等感をもっておりますが、その弱さを認められず、弱い自分が露わとなることに怯えるがために、自らの力をたのみ、結果として、支配・被支配という関係に陥ってしまいます。このような私たちを、自力の迷心から救おうと誓われたのが、阿弥陀如来の本願です。私たちは、本願に目覚め、自らを罪悪深重の存在として自覚することが待たれているのであり、その目覚めによって、共に怯えから解放され、弱いままに安心して生きていくことのできる道が開かれると、親鸞聖人より教え示されております。その教えを、あらためて聞き開かねばならないと受け止めております」と偉そうなコメントが続いていますが、どこまでも加害者の心理や加害者の自覚という点にしか焦点をあてていません。被害や差別という理不尽な暴力にさらされてきた人に焦点をあてて、それに対し救いのを差し伸べるという視点が完全に抜け落ちています。「弱いまま」生きていた人が安心を奪われ、仕事ができなくなってしまったという現実を無視しています。親鸞聖人の教え、東本願寺の教えはこのような暴力や差別の対象となってしまった人をこそ救います、となぜ言えないのでしょうか?弱さゆえに加害者になってしまった側に対してはそいつ自身に自覚を迫ればいいだけの話であって、ここで表明すべきは被害者の心理に寄り添うという立場ではないかと私は思います。

 結局「自覚」とかいう言葉は、人を暴力における加害者の立場にしか立たせず、被害者の苦しみや悲しみに寄り添うという視点を捨象してしまいます。啓蒙にばかり目が向き、弱者を救ってこなかったつけが思想まで錆びつかせ、侵食してもう剥がすことができなくなっているのです。

「反原発」を宗門として掲げるのは果たして正しいことなのか

 広河氏を取り上げた宗門に対して私がそもそも思うこととして、「反原発」とは宗門全体で取り組む事柄なのかと疑問を持っています。このような問題は個人個人で考え、反対する政治的問題だと思います。というのも、このような主張が大っぴらに書かれた同朋新聞などを各門徒に配布する際、その門徒のなかには電力会社で働いている人もいるからです。そのような人たちからすれば「大谷派に悪く思われている」という印象を受けるだろうし、あまりいい気分ではないと思います。そのことによってお寺との関わりに対して積極的になれない門徒も一定数いるのではないかと推測します。

 原発や死刑に反対する以前に腐敗した内部の構造をどうにかする方が先だと私は思いますし、多様な人が存在するこの宗門という単位で「反原発」を掲げるのはいかがなものでしょうか。私自身は原発に対しては反対の立場ではありますが、現場ではそのようなデリケートな話題に対して慎重に発言しています。紙に刷って一方的に発信する本山は、そのような現場の取り組みを一気に台無しにしています。一般的な新聞なら各人がその思想的な内容に応じて購読を希望するかたちなので問題ありませんが、そうではない「同朋新聞」や本山の各種メディアにおいては簡単にそのようなことをするべきではありません。