What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

中島岳志著『親鸞と日本主義』には「親鸞」が不在である。

今回は朝日新聞に面白い書評があったので、それを紹介したい。10月1日の書評の欄に中島岳志著『親鸞と日本主義』についての書評があった。この中島岳志大谷派で盛んに用いられており、宗派からの配布物には毎月のように彼の名前が載っている。しかし私は、彼を仏教に関する専門的知識もないし、むしろ軽くヒンズー教圏をフィールドワークしただけの浅い研究者だとしか思っていない。

彼のようにナショナリズム批判を専門にする知識人を登用したところで、大谷派自体は全くその論調についていけていないような風を感じるし、「いのち」というキーワードを不注意に乱発するあたりもそのことを示している。その点についても彼を持ち上げたとしても何の効力も発揮していないのが大谷派の現状である。

さて、書評についてだが、朝日新聞ではこう書かれていた。

右翼団体「原理日本社」に属した三井甲之や蓑田胸喜、あるいは作家の倉田百三亀井勝一郎ら、親鸞に魅せられた多くの人々は、「絶対他力」「自然法爾」という親鸞の思想を都合よく解釈して、「国体」を正当化しようとした。さらには阿弥陀仏の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えようとした。それは真宗大谷派のような教団の幹部であっても例外ではなかった。 

 親鸞の思想における構造的な脆弱性を指摘したのがこの『親鸞と日本主義』である。その点はまあ賛同できるかもしれないが、親鸞の『教行信証』自体はその脆弱性から抜け出るために緻密に書かれたものなので、その点について言及しなければ何の意味もないのだが、その点について書評はとてもいいことを書いてくれていた。

本書では、親鸞自身が残した著作が引用・参考文献に全く挙げられていない。親鸞の思想と国体論の関係を解き明かすためにも、いったん鎌倉時代にさかのぼり、原典そのものに立ち入って分析する必要はなかったのだろうか。 

 まさにその通りである。親鸞のテキストを全く読まないような人間を宗派は持ち上げていったい何なのだろうかとさえ思う。これでは単に親鸞の思想が「国体思想につながりやすい構造をもっている」というだけで終わってしまう。これだけで終わらせるような研究者をいつまでも囲ってあげる必要はまったくないし、大きな損失を呼び込むだろう。

「問い」を語り、硬直する:名和達宣『真宗』10月号、教研たより

私はもはや「問う」ということを大事にするという風潮に飽き飽きしている。何百回、「問いが大事」という話を聞かされたのだろう。「聞法が大事」と法を聞きにきている人に対して乱発する無意味な法話と同じくらい、質量が感じられない。

「問い」「問い」「問い」

名和達宣という教学研究所研究員は「問いが大事」だと述べている。

浄土真宗に帰すれども 真実のこころはありがたし

虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし 

という親鸞の和讃を引用しているが、これは別に「問い」ということとは関係ない。我が身が真実のこころ、つまり信心を得た喜びがあるからといって、自分自身に清浄の心があるわけではないという話であって、凡夫の我が身が「問われる」ということを重要視したものではない。

「しばらく疑問を至してついに明証を出だす」というのは、疑問が大事とかそういうことではなく、答えに辿りついた喜びを表現するものであって、「疑問」を絶対化するものでは決してない。

「問い」が大事だとする立場そのものが硬直している

「問い」を絶対化するのなら逆に問おうではないか。「問いを重要視する己自身が問われることはないのか」。

問いが大事、と述べているうちに社会は刻々と変化する。問うてばかりいないで、「虚仮不実の我が身」にかけられた願いを敬う気持ちを表現する道をいい加減開いたらどうだろうか。もう「問い」の無限循環は、民衆には必要ない。私たちは誰に問われるまでもなく、常に迷い、問われ続けて生きているのだから、その苦しみを救おうとなぜ僧侶たちは考えないのだろうか。「問い」という形式的なものを礼賛すること自体になんの意味があるのだろうか。法を説く者は「問い」という形式を内容として語りすぎなのだ。真にそこに価値を見出しているのであれば、「問う」という姿勢を孕んだ内容をもつ話をすればいいだけのことであって、そうであるならば私もそれは素晴らしいことだと思う。

「問い」がただ悪いのではない。「問いが大事」だとばかり語っていて、内容がないことに問題があるのだ。「結局、問いが重要である」と締めくくられる思想に何の意味があるのだろうか。それは出発点であり、その運動において意味のあるものであって、それを着地点とすることに何の意味もない。問うことにおいて開かれる地平があるならば、その地平について語ればいいし、そうでなければ意味がない。

真剣に問いながら歩んでいる者が「問いが大事」とただ語りながら歩むことなど決してないと思うが、それは私だけだろうか。

ものすごく冷徹な教え:平原晃宗、東本願寺 真宗会館『サンガ』vol. 149. :親鸞さんの仏教

『今日のことば』や『真宗の生活』に少し飽きてきたので、今回は真宗会館が発行している『サンガ』の記事を問題にしていこうと思う。

この雑誌自体、真宗とはなんの関係もない流行りの芸能人や学者が記事を載せているため、たんなる金の無駄遣いにしか思えないし、そもそも東京の教務所が発行している物をなぜ全国の寺院に配布しているのかも謎である。だから、この『サンガ』そのものに対しても私はとても懐疑的である。

ともあれ、今回はその中の記事『親鸞さんの仏教』という箇所を批評していこうと思う。執筆者は平原晃宗(京都府、正蓮寺)という方だそうだ。

まずこう書かれている。

お釈迦様は、私たち人間が住む娑婆世界を「五濁」という五つの濁りで表現します。その中に「命濁」があり、この内容を親鸞聖人は「中夭」と指摘します。 

 聖典における該当箇所を脚注として明記しておいてほしいものだが、まあこの点に関しては妥当である。寿命が短くなることを「命濁」とも「中夭」とも言うのだからこれは間違いではない。平原は以下のように述べている。

親鸞聖人が尊敬された中国の善導大師は、命濁について「多く殺害を行じて、恩養に慈しみなし」 と述べます。

命が濁る、つまり寿命が短くなるということの原因は、「殺害」を行うことである。殺害とは自分を育んだものに対する反逆なのである。 

このような文脈において、平原氏は「いのちは様々なつながりの中で共存している」とか「いのちを成り立たせている因」を大切にしなければならないと述べている。しかし、これは本当に可能なことだろうか?

確かに親鸞聖人も正像末和讃 のなかで「中夭」について述べているが、しかしそれは中夭に陥らないように人々を啓蒙するためではない。「正像末和讃」は、仏教的時代観である正法、像法、末法という三つの時代区分に従って「末法」の時代の有様を述べているのであって、その末法の時代における「中夭」というあり方がダメだとか良いとかいう評価を行う以前に末法の時代における事実として提示しているに過ぎない。平原氏はこの「中夭」に陥る事態を正面から避けるために「自分を育んでいるものへの感謝」という姿勢を示しているが、それは正法の時代においてしか可能ではなく、末法では無理なのではなかろうか。正法の時代においてのみ実践可能なことを末法にも適用しようとするのならばもはや念仏も必要ないし、親鸞聖人の思想などもはや無意味なものとなってしまう。

そして、親鸞の思想において最も重要なのは念仏の救済によって「中夭」という考え方そのものを解消する点にある。親鸞は現世利益和讃において以下のように述べている。

南無阿弥陀仏をとなふれば

この世の利益きはもなし

流転輪廻のつみきえて

定業中夭のぞこりぬ 

これは、南無阿弥陀仏を唱えれば「中夭」であっても関係ない、関係なく救われるということを述べているのである。われわれは心がけていても自分を育む環境すべてに恩を報いることなどできない。生きているだけで環境を汚し、行動はすべて裏表の効果をうむのである。これは一人一人の心がけというよりは、社会的な構造上仕方のないことなのである。平原氏のように言われても、ちゃんと実践できる人はひとりもいない。末法の時代に生きる人々はもれなく濁り、「中夭」なのである。

親鸞は、そのような濁りのなかであってもその中でお念仏に出会えば救われると述べてくれているのである。「中夭」を実践によって避けられない時代に生きる人々に念仏という救いの道を示しているのである。これが親鸞の教えにおいて最も重要な点だ。平原氏はこれを全く理解せずに、実践できもしないのに「中夭」の解消を啓蒙しているのである。それがしたくてもできない人間存在の悲しみを彼は理解できていないように思われる。 

そして、親鸞の思想抜きにしても平原氏の考え方には問題がある。「中夭」、つまり早死にの原因は「恩への感謝の不足」であるという考え方をそのまま鵜呑みにしている点である。それでは、早くして亡くなった者は恩知らずであることの報いを受けたということになってしまう。ニュースで小学生が殺されたとかそういう事件がたびたび報道されるが、平原氏にとってはこの小学生たちは「恩知らず」ということになってしまうのである。これは若くして亡くなった人への冒涜である。平原氏にとっては「そこまで考えていなかった、そういうつもりではなかった」と言えるかもしれないが、仏教者としてはそれを考えないで一体他に何を考えているのだろうかという感じしかしない。要するに全く配慮が足りていないし、早く亡くなった方へのリスペクトが悉く欠けている。偉そうに現代人を啓蒙する以前に、もっと社会を知り、配慮のある教えを一から学ぶべきだ。親鸞の和讃自体を全く正しく読んでさえいれば、このような間違いはありえないと思うのだが。

法語カレンダー随想集『今日のことば』2018:伊東恵深

今回は2018年の『今日のことば』の九月である。担当者は、伊東恵深(同朋大学准教授、三重教区西弘寺住職)。

まことの信心の人をば諸仏とひとしと申すなり

「御消息集」『真宗聖典』588頁

 これは、親鸞が弟子からの質問に答えるために書いた文章である。阿弥陀如来の本願によって信心を得た者は、諸仏と等しいということを意味している。そして、筆者は「この信心とは何か」という問いを発するが、それは「仏様から戴いた眼」だと述べている。これは竹部勝之進という詩人の作品からの引用であるが、私はこの引用に疑問をもっている。

ここに、「まことの信心」とは仏さまの眼を頂戴することであり、それは私自身のありのままの姿を知らされることである、と歌われています。

つまり、信心によって「私自身のありのままの姿を知る」ことが重要だそうだ。そして、彼はさらに続けてこのように述べている。

阿弥陀さまの教えによって、いま現在の自分に不平や不足を感ずることなく、このままでよい、このままで尊い、という身の事実に気づかされることでしょう。

私はこのような考え方に嫌悪感がある。たしかに信心を得ることで視野が広まることがあるかもしれないが、このような自己肯定あるいは現状肯定はやや的外れな気がする。しかも凡夫は凡夫であるので、「このままで尊い」ということはありえないし「このままでよい」ということもない。これはどうやら仏の救済の絶対性が近代以降の人権主義と癒着していると考えられる。いじめられている人に「このままでいいんだよ」と慰めるような自尊教育として正しいかもしれないが、それは仏教ではない。

信心を得たと言っても、別に私自身が尊い者である必要はないのである。私自身は尊くなくても、そこに仏から回向された信心があればいいのであって、それは決して私自身の肯定には繋がらない。むしろ念仏、南無阿弥陀仏を大切にする真宗では、尊いのは如来ではないだろうか。それを尊く思う気持ちの方が私は大事だと思うのだが....。

要するに私が言いたいのは、凡夫であるということを良いこととして受け取るのはやややり過ぎの感があるということなのだ。凡夫であること、それは別段素晴らしいことではない。私たちが感じるべきなのは、凡夫であるけれど他力が注がれているということへの喜びなのであって、煩悩がありがたいということではない。尊ぶ対象を間違えてはならない。

会社勤めは「あさましき罪業」なの?:廣田万里子(2018年版法語カレンダー随想集『今日のことば』)

今回は五月の法語。

かの如来の本願力を観ずるに

凡愚遇うて空しく過ぐるものなし

「入出二門偈頌文」『真宗聖典』461頁

この法語についてコメントしているのは、廣田万里子(名古屋教区善福寺)という人だった。 この方は、父親が亡くなった体験を語り、そして最後にその父に念仏を勧めたというエピソード。念仏によって本願力に遭う者は救われるという話を書いている。このコンセプト自体は間違ったものではないけれど、このコメントの途中に書かれた文章が気になった。

商売も会社勤めも、いわば「あさましき罪業」だとし、そんな罪業に毎日追い回されている我々のような愚かな者をたすけようとしてくださるのが阿弥陀の本願なのだと。

これは、蓮如の御文に基づく発言であるが、はっきり言ってナンセンスである。「商い」 を罪業とするのは中世の世界観であり、その当時の人々の文化的な共通認識であるため、蓮如がこのような発言をすることは頷ける。しかし、現代人のわれわれがこの認識をそのまま鵜呑みにして、「商売も会社勤めもあさましき罪業」と述べるのはいかがなものだろうか。これでは中世の差別的な世界観をそのまま引き継いだ上で教えを説いているため、差別の再生産になりかねない。「罪業は救われる」という着地点があったとしても、それは差別の再生産の可能性を十分に孕んでいる。

「商売」や「会社勤め」をあさましいと決めつけている人間の方が、よっぽど浅ましい。現代で貴族制は崩壊し、「罪業」は別のものにシフトしているのに、いまだに蓮如の世界観をそのまま引きずって「商売」を罪業扱いしている人に、現代社会を見抜く力も、その社会で生きる人々の苦しみも理解できないのではないだろうか。

虚しいのは誰だ:足利栄子 法語カレンダー随想集『今日のことば』2018

今回は『今日のことば』について批評したい。二月の法語は

信心のさだまるとき 往生またさだまるなり

「末燈鈔」『真宗聖典』600頁

 このことばに関しては、信心が定まるとき、臨終を待たずとも浄土に往生することが決まっているということを表していると言える。

しかし、これを書いた足利栄子(久留米教区了徳寺)という方は、「いのち」というキーワードにいきなり言及し始め(飛躍)、「仏語さえも自分の都合のいいように解釈し、イメージ化して、観念化させてしま」う煩悩の人間の苦悩について語り始める。これこそ「都合のいい解釈」ではないだろうか。真摯に親鸞の法語を解説すればよいのに、勝手に「死を自覚することが大切」とかそういう話を始めている。この法語はむしろ、死のある生だが、死や死後に執われることなく浄土への往生を思考することができる親鸞の往生観を表したものなのに、それを無視して「生死するいのち」という話しを勝手に挿入しているのである。「末燈鈔」自体の読み込みは行われたのだろうか。この方に限ったことではないが、大谷派ではこのようにひとつのフレーズだけを切り取って、文脈を無視して勝手な解釈をすることが流行のように思われる。

 そして極め付けは、この文章である。

 生活の中で、虚しさを感じることはありませんか。

まったくもって大きなお世話である。親鸞の思想はむしろ、その「虚しさ」を今流行りの「充実」で補填するのではなく、虚しくても問題がないということを示しているというのに、このテキストではそうではないようだ。私の観点からすれば、この「虚しさ」を埋めるために聞法や仏教講座への参加を重ねることの方が無意味であり、ましてや仏教がこの「虚しさ」を埋めてくれることはありえない。この執筆者が暗に込めているのは「私は人生の虚しさを感じたけど、仏教に出会って充実している。そして、仏教に出会ってない人間は人生の虚しさにも気がつかずに生きている」という差別的で選民的なメッセージではないだろうか。このようなものの見方自体にこそ「虚しさを感じることはありませんか」。

そして、さらにこの法語を「解釈」するために新たに親鸞の和讃の引用が行われている。これでは文章の地滑りである。ひとつの法語を真摯に考え抜くことを怠り、パワーワードに逃げ込んでいると言わざるをえない。

たった6ページの文章なのに、話題が右往左往し、構成も雑な点は編集担当にも責任があるが、まあそんなこと気にしていないのだろう。「出版部」とか大袈裟な部署を名乗っておきながら、実際の仕事の質は。。。

真城義麿『成人したあなたへ』:2018年度教化冊子『真宗の生活』

 真城は、この文章の中で、人間が「人の間」にあり、関係性を大切にしなければならないと述べている。しかし、それは自分を優先させてしまう煩悩をもつ人間にはなかなか困難なことであり、他者との共存はなかなか容易ではないことを記している。

 確かに、現代におけるいじめの問題や差別の問題などを鑑みてもその意見には賛同できる。そして、彼自身もいじめについて言及している。しかし、その回避方法は以下のようなものである。

仏教は自分も他者もともに弱い者同士であり、かつ尊い者同士であると教えます。そこで気づかされることは、いじめている人が傷つけているのは相手の尊さだけではなく、いじめている自分自身の尊さをも傷つけているということです。 

  個々人の尊さ、という点には頷けるが、いじめは「いじめる側も自己自身を傷つける行為だからやめろ」という論調には全く同意できない。自分が傷つくから他者を傷つけるなという道理では、ただ単に利己的である。本当に他者を尊重しているとは言えない。「他者」とは他者といいながら、自分と同じように苦しみを背負った個々人であり、決して「他者」や「人間」ではカテゴライズできない存在である。それを傷つける行為は野蛮であり、それを正当化する理論はどこにもないのである。「私」、「自己」、「他者」という固定化された言葉よりも、もっとそれぞれが固有名をもつ存在であることを強調すべきなのではないだろうか。「自分が傷つくから、人を傷つけるな」という世界観には他者などもはや存在していない。それは「傷つけられたくない自分」しか存在しない独我論の世界でしかない。

人殺しをしてきた人にも伝わった親鸞の教えとは思えない。「人を傷つけると自分も傷つくよ」「みんな尊いんだから」と言われても、人を傷つけてしか生きていけない人にとっては恵まれた人間の上からのお説教にしか聞こえないのではないだろうか。人を傷つけた人にも救いの道を開かなければならないのが親鸞の仏教だと私は思う。

私にもイジメをやめさせたいという気持ちはあるけれど、もうすこし思考していきたい。この方の考え方は少し違うなと感じる。