What is Shinshu?

真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

真城義麿『成人したあなたへ』:2018年度教化冊子『真宗の生活』

 真城は、この文章の中で、人間が「人の間」にあり、関係性を大切にしなければならないと述べている。しかし、それは自分を優先させてしまう煩悩をもつ人間にはなかなか困難なことであり、他者との共存はなかなか容易ではないことを記している。

 確かに、現代におけるいじめの問題や差別の問題などを鑑みてもその意見には賛同できる。そして、彼自身もいじめについて言及している。しかし、その回避方法は以下のようなものである。

仏教は自分も他者もともに弱い者同士であり、かつ尊い者同士であると教えます。そこで気づかされることは、いじめている人が傷つけているのは相手の尊さだけではなく、いじめている自分自身の尊さをも傷つけているということです。 

  個々人の尊さ、という点には頷けるが、いじめは「いじめる側も自己自身を傷つける行為だからやめろ」という論調には全く同意できない。自分が傷つくから他者を傷つけるなという道理では、ただ単に利己的である。本当に他者を尊重しているとは言えない。「他者」とは他者といいながら、自分と同じように苦しみを背負った個々人であり、決して「他者」や「人間」ではカテゴライズできない存在である。それを傷つける行為は野蛮であり、それを正当化する理論はどこにもないのである。「私」、「自己」、「他者」という固定化された言葉よりも、もっとそれぞれが固有名をもつ存在であることを強調すべきなのではないだろうか。「自分が傷つくから、人を傷つけるな」という世界観には他者などもはや存在していない。それは「傷つけられたくない自分」しか存在しない独我論の世界でしかない。

人殺しをしてきた人にも伝わった親鸞の教えとは思えない。「人を傷つけると自分も傷つくよ」「みんな尊いんだから」と言われても、人を傷つけてしか生きていけない人にとっては恵まれた人間の上からのお説教にしか聞こえないのではないだろうか。人を傷つけた人にも救いの道を開かなければならないのが親鸞の仏教だと私は思う。

私にもイジメをやめさせたいという気持ちはあるけれど、もうすこし思考していきたい。この方の考え方は少し違うなと感じる。