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真宗大谷派の思想を批判するブログ。批判とは、否定ではなく「なぜそのような考え方をするのか」「なぜそれが正しいのか間違っているのか」を論じること。

会社勤めは「あさましき罪業」なの?:廣田万里子(2018年版法語カレンダー随想集『今日のことば』)

今回は五月の法語。

かの如来の本願力を観ずるに

凡愚遇うて空しく過ぐるものなし

「入出二門偈頌文」『真宗聖典』461頁

この法語についてコメントしているのは、廣田万里子(名古屋教区善福寺)という人だった。 この方は、父親が亡くなった体験を語り、そして最後にその父に念仏を勧めたというエピソード。念仏によって本願力に遭う者は救われるという話を書いている。このコンセプト自体は間違ったものではないけれど、このコメントの途中に書かれた文章が気になった。

商売も会社勤めも、いわば「あさましき罪業」だとし、そんな罪業に毎日追い回されている我々のような愚かな者をたすけようとしてくださるのが阿弥陀の本願なのだと。

これは、蓮如の御文に基づく発言であるが、はっきり言ってナンセンスである。「商い」 を罪業とするのは中世の世界観であり、その当時の人々の文化的な共通認識であるため、蓮如がこのような発言をすることは頷ける。しかし、現代人のわれわれがこの認識をそのまま鵜呑みにして、「商売も会社勤めもあさましき罪業」と述べるのはいかがなものだろうか。これでは中世の差別的な世界観をそのまま引き継いだ上で教えを説いているため、差別の再生産になりかねない。「罪業は救われる」という着地点があったとしても、それは差別の再生産の可能性を十分に孕んでいる。

「商売」や「会社勤め」をあさましいと決めつけている人間の方が、よっぽど浅ましい。現代で貴族制は崩壊し、「罪業」は別のものにシフトしているのに、いまだに蓮如の世界観をそのまま引きずって「商売」を罪業扱いしている人に、現代社会を見抜く力も、その社会で生きる人々の苦しみも理解できないのではないだろうか。